教育コーチのなおです
久し振りに読んだ地方紙に
「将来の夢」のコーナーがまだありました
小学校6年生の集合写真と各人の氏名と将来の夢が掲載されるコーナー
”まだ”と思ったのは、個人情報~~の時代に残っている!へぇ~!!
へぇ~!!って思いながら記事を読んでいると
更にへぇ~ 😯
2クラス60人中8人が
「ユーチューバー」を挙げていました
😯 😯 😯
我が子が「ユーチューバーになりたい」って言ったら皆さんどうしますか?
どうするだろう??
新聞に出ていた子ども達は
「ユーチューバーになって」の後ろに
「みんなを笑わせたい・観た人を楽しい気分にしたい・人を元気づけたい」がついていました
〇〇(職業)になるも大切ですが、その後にくるどうしてそうなりたいか
そっちがあれば大丈夫
そう思った秋の夕暮れでした
気づきから自己探求
修業僧です。
テストの諸注意について
机の中に物をいれないで取り組む
最後まで寝ないで取り組む
キョロキョロ周りを見ずに取り組む
過去の私が子どもに提示していた言い方の一部です。
そもそも禁止事項を書くということは,過去の私の中に子どもができないという無意識の怖れや不信があったのかもしれません。
机には筆記用具をだけをおきましょう
最後までチャレンジを続けましょう
意識と視線は常に自分の問題と解答に向け続けましょう
と言葉にするほうが本当に伝えたい思いを届けることができる可能が広がりそうです。
私はいま,子どもは大丈夫と信頼するあり方を大切にしています。
いわれなくても本来ちゃんとできるという信頼から子どもに問いかけをします。
試験準備完了ってどんな状態?
本当の実力を出し切れた自分は50分間何をしてきたんだろう?
子どもの力は無限大です。自分たちでこうなりたいと答えを見つけて
言われなくても自分の理想に近づこうとします。その時はたとえできな
かったとしても子どもはちゃんと理想に近づきたいという思いを秘めています。
そう信じて関わった方が毎日お互いが生き生きとして楽しいかなと私は思うのです。
教育コーチとして自立を支援することは,日々自己を探求することなようです。
今日の気づきとの出会いに感謝します。
教育の根深さ
修業僧です。
「上司が呼んでるよ。至急来るようにって。」
この言葉にぶら下がっていた私の感情は「怖れ」でした。
「何を言われる!?」「最近,何かしてしまったのか!?」
と最近の悪い点ばかりを振り返る自分。
結局は本当に急ぎの情報確認があっただけでした。
過去の先生や大人に呼び出され叱られてきた過去の自分が,必死に「危ない」「危険だ」と今の自分を守ろうとしていたようです。
過去のダメだしなどの強い否定はずっと無意識の部分に残り続けて,ついつい自分自身に心のブレーキをかけたり,分厚い鎧を身につけるようにと私に提案することがあるようです。
教育の力は根強いものです。
上司が呼んだとき,「自分の能力をどこに発揮してほしいのだろう」「何の役に立てるのかな?」「どんな学びや気づきに出会えるのだろう」と前向きに足を運ぶたぬきさんがあふれる社会になったら何が起こるのだろう。そのためには何を?
愛情・尊重・信頼に基づく教育のあり方を改めて考える出来事でした。
夏休みの課題
超介です。
夏休みは、それぞれに教科の学習以外に、自由研究やら、作文、絵画、工作、部活動の合宿、旅行等様々な課題をこなすよい機会です。それぞれ具体的なテーマが用意されているわけではなく、どんな研究を行うか、どんな本を読むかは、自分で考えて決めます。
それは、教科の宿題と違って、ゼロから考えるとても良い経験だと思います。課題のスタイルは指示されますが、内容はその人が決めることができるからです。課題ですから、その点ではコントロールされていますが、内容は多くの場合は自由であるので、能動性を発揮することが可能です。
自由研究の相談を受けるのはとても面白いです。コーチングのテーマとしてはまず、「何を扱う?」「どのようにあつかう?」という風に質問が立てやすいからです。教科の学習時は、答えが一つの場合が多いので、解へ誘導しがちですが、これらには答えは開かれていて無数にあるからです。
論理的思考
超介です。
塾生から作文の相談を受けました。
かつて、中学受験生に集団クラスで作文の授業をしたことがありました。テーマを提示して所定文字数以内で書く、という課題の授業でした。日本語の文法を中心に教えました。日本文が正しく書けない小学生が多く、それを修正することに終始し、悪戦苦闘しました。
今回、多少課題は残っていましたが、日本文はある程度書けます。それで、構成を考えることを提案しました。将来必要になってくるであろう、枠思考(フレームワーク)です。フレームそのものを発想してもらうことは難しすぎると考えて、いくつかの型を教えました。例えば読書感想文なら、
1.どのような物語か、一文で表現する。 2.心を惹かれた箇所を3箇所程度あげて、理由を書く。 3.教訓をまとめる。
というふうに。
本来なら、フレームをいくつか学べば、応用ができて、自ら枠を考えることができはじめると思います。小、中学生の間にその例をいくつか学んでほしいと思いました。
これは、論理的思考を鍛えることにつながるトレーニングだと思います。現行の学習課題を扱いつつ取り入れていきたいと思います。そうすればプログラミング思考につながると思います。
苦手なことに取り組む方法(その7)
苦手なことに取り組む方法(その7)
超介です。
苦手なことの中には、性格から派生することがあるかもしれません。
私の例です。
私は大変内気な子供でした。他人、特に同世代の子供と遊ぶことができなく、いじめられたり、保育園に行くのが嫌で泣いて駄々をこねたりと、ほとんど毎日でした。小学生になっても、誰ともほとんど口をきかず、休み時間もクラスメートと遊べず、びくびくし、我慢をしながら、じっとしていたことを思い出します。学校が恐怖でした。
そういった性格の子供でしたが、時間の経過とともに付き合い方を学習してそれなりの生活を送れるようになりました。が、しかし成人してからもそういった人付き合いに対する苦手意識はあります。還暦を超えた今も残っているように感じます。
しかしながら、そういった性格は両親やら、先生方の心配を引き起こし、いじめの対象になったり、クラブ活動やら、学校行事に消極的であったり、学習にも集中できなかったりと本人にとっても周囲にとってもつらいことが多かったのですが、一方で其処に所以する長所も短所以上に、年齢とともに、伸長してきたように思えます。
例えば、性格の、その弱さはある人たちからは優しさとみられて、年下の子供たちから慕われたり、あるいは年上の世代の人にも素直さと捉えられて、様々な支援を得てきたように思います。特に社会人になってからは世代が上の人たちで、私が尊敬する人物にかなり多く出会うことができました。自分が有していないからこそ、彼らが当たり前にふるまう逞しい行動や知恵にあこがれの感情を持ち、同時にそれらを滋養にし、私という、固有の性格を育ててきたように思えるのです。
そして、一例ですが、人の話をよく聞くことのトレーニングが自然となされ、様々な人やら場、機会の出会が生まれ、多種多様な仕事の体験やら資格の取得を得てきたことが、必然的な流れとして、今は良く理解できるのです。この辺りの事情は、たくさんのドラマを含んでいます。書ききれないので、何かの機会に表現したいと思っています。
性格上の悩みがあっても、それとどう付き合うかで大きく人生は変化します。その悩みは意味と意義がある悩みです。もし、そのような人がいれば、じっくり付き合ってほしいと思います。その方法の一つとしてコーチングを受けたり学んだりすることはとても有用です。
夏休み初日
皆さま、こんにちは。 大学院生教育コーチのいっすぃ〜です。
巷では、夏休みが始まりましたね
うちの子どもたちは先週の金曜日が夏休み初日。 その日は、いろんなことが重なりました。
息子が中体連の試合: 勝てば次の駒へ/負ければ最後の試合。 「ぜひ勝って。明日は応援に行くから」
午前の私は、なみちゃんと県の教育センターで小・中・高・特支の先生方を対象にした「11年次研修」。 なみちゃんは、朝早くの電車で三重まで来てくださいました。和気藹々とした実りの多い研修を実現でき、合格点。 午後は、私は大学院の授業でした。
授業が終わったのが、17時50分。 さて、帰ろうかと支度をしながら、クラスメイトと話をしていました。 その時です。娘から電話が入りました。
「にいちゃんばかぁ〜。 自転車で事故したぁ」
「どこで?」
「今、どこにいてるん?」
「どこの病院?」
びっくりしました。 これまで大きな事故にあっていないのが幸せなだけだったのですよね。 病院に着いたとき、息子は救急のベッドに横になり、意識は朦朧としているようでした。
顔が腫れて。 鎖骨と頭蓋骨を骨折。 脳には今のところは出血なし。 CTを撮りながら様子を観る。 死にはしなくとも、後遺症が残るかもしれない、と考えていました。
当初の入院予定は1週間。ですが、若いこともあり、出血が頭骨外にあるものの悪くはならないだろう。 ということで3日で退院することができました。
退院の日、警察署で事情聴取〜刑事さんもあまりにも早い回復にびっくりをしていましたが。
一緒に自転車で走っており、事故を後方から見ていた友人に挨拶〜死んだかもって思ったよって。
中学校にご挨拶〜ベッドの横で妹さんが泣いててねぇ。○○先生も泣いてねぇ。
よかった、よかった、大事に至らなくって良かった。と多くの人に労ってもらい、やっと【とんでもない事故をした】という実感が湧いてきたようです。 事故前後の記憶がまったく飛んでいることもあり、本人が一番あっけらかんとしていたんです。
さて、私の夏休みは私はまだもうちょっと先。 来週には試験というものが待っています
皆さんは元気に健康に夏を乗り切ってください
Honesty is my policy! いっすぃ〜でした。
苦手なことに取り組む方法(その6)
超介です。
苦手なことの学びは、長続きしません。しかしながら、5分間だけの内容なら、あるいは一日に1問だけなら、いやにならない内容、時間、量であるのならこなせることがあります。それを始めます。条件は毎日継続してやることです。そのうち日々の作業は習慣化してきます。「できない」という無意識の中の固定観念は揺らぎ希薄になります。
ある時点で、作業内容の見つめなおしを行いまたそれを継続していきます。そうやってギヤチェンジを行いながら持続させていくときに無意識の中の「できない」は消えていきます。最初は、細心の注意を払ってできることから始めればよいのです。教科の内容に限らず、様々な人生の有用な習慣は、そのように始めることができます。
このできることから始める習慣を継続させている、すばらしい実例を沢山見てきました。そのうちの2例をあげます。
それはある塾生のノートです。学校の先生の指導でしょうが、宿題・課題を必ずノートに書いていて、それをいつも見ながらこなしています。おそらく、当たり前のように多くの学校で指導されているのでしょうが、できたら自分でチェックし、感想を書く、それを先生が毎日読んでコメントを入れる、それが習慣化していました。その生徒は様々な面で力を蓄えていきました。
もう一つは、受験生での例です。ある科目の得点が平均の半分程度の生徒の例です。苦手科目の答えをノートに写すことから始めて、クリヤーしていった例も見たことがあります。生徒自身ができることとして見つけて始めたことでした。そして、基本的なことから質問をし、学習を進めていきました。私が用意したのはたっぷりの時間、そして質問に答えることだけでした。起点は自主性です。それをはぐくんでいくときに有用なのは自己承認です。
このように人が変わっていくときに、強制をすることは効果をなさないばかりではなく、有害になります。
作業を継続させていための仕組みは様々な書籍の中にも、偉人の伝記にも、あるいはネット上にもヒントがあります。あるいはコーチングを受けてそれを導き出すこともできます。
エジソンでもビルゲイツでもあるいはイチローでも世界で活躍している人たちは、どの人も生まれつきの才能も少しはあるかもしれないですが、その抜きんでた頭角を支えた、あるいは育んだのは他を圧倒する努力、トレーニングの量であることは間違いないと思います。一つの、基本スキルを身に着けるまでの時間は、才能の差が寄与するところが顕著かもしれませんが、そこからはそこにどれだけの時間、エネルギーを投資しているかの違いです。
苦手なことに取り組む方法(その5)
超介です。
苦手なことに取り組むには継続力が必要になりますが、さらにそのことを得意にするためには、こういっては身もふたもないですが『必死になって、夢中に取り組む』ことがないとものにはなりません。周りから強制されて、しぶしぶトレーニングをする程度ではものにはなりません。学び方、トレーニングの方法を自ら研究しつつ、あるいは周囲から盗むくらいの積極性がなければ話になりません。
あるところで、面白さがわかるようになり、いつの間にか苦手意識が、無意識から消えて目的意識が明確になってくる瞬間を迎えなければなりません。教科にしても、それが学校の限定されたカリキュラムではとても太刀打ちできないほどの量と内容をこなしていくことが必要です。
そのような機会は突然にやってくることが多いようです。私の狭い経験でもそうでした。新商品を開発する部署に配属されたとき、身に着けた計画作成能力もそうでした。締め切りが迫ってくるけれども着手できず、悶々とした日を過ごし、ある夜、突然、できる予感がし、深夜に事務所に行って一気に数時間で書き上げ、それでまさに開眼し、分析眼と全体をまとめる能力が身についたことをはっきり意識しました。
それから上司より指示を受けて国家資格を取ったのもそうでした。民法やら建築基準法など全く未知の分野の知識が必要でしたが、大ほぼ毎日1,2時間問題集に取り組んでいると、4,5か月目ぐらいにうっすらと全体像が見えてきて、苦手意識がなくなり、後は一気呵成にできました。職場でのほとんどの体験財産が最初は「えー、そんなのできない」から始まっています。このコーチングもそうです。コミュニケーションが苦手でしたが、取り組んでいくうちに意識が変わりました。それにはかなりの自主的なトレーニングが必要でした。
趣味でもそうです。ほとんど小説を読んだことがなかったのに、ある年の6月頃「村上春樹」の「ねじまき鳥・・・」を読んで、面白かったので、3ヶ月ほどでほとんどの作品を読みました。それいらい、読書の世界が一気に広がりました。
数年前から学び始めた英語も、昨年から始めたクラッシクギターも同様な経緯をたどっています。
ジョハリの窓とリジリエンスと私
埼玉の教育コーチ Gao!です。
私は週5日、自分のピアノ教室でピアノを教えています。
それ以外に週1日、午前中つばさスクール・つばさ高等学院で、午後はナカジュク越谷教室で働いています。
どちらも教育コーチング認定校です。
今日は、つばさの行事と、そこで気づいたことを書きます。
5月につばさでは、スポーツ大会がありました。
あいにく朝は雨が残る天候でしたが、何とかほぼ予定どおり開催することができました。
最初の方で、グリコをやったのですが、本気を出しすぎた私は(昔の遊びって燃える)、見事にすっころんでしまい、
その後はみんなの様子を見学していました。
そんな私ですが、公園のある遊具を見て、居ても立ってもいられなくなりました。
「登りたい!」そんな心の声が高まり、
「怪我、悪化しちゃうんじゃないの〜。やめた方がいいよ」というウィスパーの声を上まりました。
「よし登ろう!」
一歩一歩登っていきました。
周りのほとんどの生徒や先生はその高さに怖さを感じていて、だんだん高く登っていく私に驚いていました。
正直、怖さはほとんど感じませんでした。
おしりの痛みに耐えながら、最後まで登り切ることができました
後日、このことを振り返って「ジョハリの窓」の中の「自分が知らない」×「他の人が知らない」窓って、これなんだ
と気づきました。
自分が高いところが平気という強みを、これまで意識していませんでした。
高層ビルに行くと、なんかテンション上がるな〜、とか
家の中で、脚立に乗って作業するのは自分の役割だったり、
吊り橋で怖がる娘を見て、ビビリだな〜とか思ってはいたのですが、
周りがビビリなのではなく、周りが普通で、自分がとくに高い所が得意らしいということに
初めて気づきました。
これまで、ジョハリのこの窓って、自分も他人も知らなくて、どうやってわかるんだろう〜と思っていたのですが、
実は潜在的に持っており、その窓が開く時があるんだなって興味深く感じました。
もし自分ひとりで登っていたら、この強みには気づかなかったかもしれません。
人と一緒にやることで、まだ自分も他人も知らない自分の強みに気づくチャンスがこれからもあるかもしれない
って思うと、ちょっとワクワクしませんか
登れた達成感とだんだん増してくるおしりの痛み・・両方をたっぷり味わいました。
ちょっと嬉しかったのは、私が降りている時に、昨年はこの遊具に登らなかったYちゃんと新しく入ったTくんが
私の近くまで登ってきてくれたことです。
太って怪我してるおばさん先生がなりふり構わず登ってる姿に、自分も行けるんじゃないか・・と思っていてくれたかどうかは
わかりませんが、二人は半分くらい登り、自力で降りることも何とかできました。
逆境の時に踏ん張る体験は、リジリエンスを高めることにつながります。
1年半前には、こんなこともありました。
足を骨折した次の日にピアノ演奏の舞台に立ち(車イスのお世話になりながら)、その次の日には、階段を這い上がって
塾のクリスマス会に参加しました。
やりたいことができないかもしれない状況に追い込まれると、それができることがどんなに幸せなことか、どんなに恵まれていることか、気づかされます。
そして「何とかしてやりたい!」「やるための方法は何だろう?」となっていきました。
リジリエンスを高めると同時に、自分への信頼も高まっていきます。
リジリエンス〜これは子どもの成長を見守る時にも、重要です。
人生には、あぶない橋や過酷な砂漠が必ずあります。
そこでめげそうな時、倒れて立ち上がれなくなっている時、みなさんはどんな言動をされますか?
親として「子どもにそれを乗り越える力がある」ことを信じ、「大丈夫!」「あなたならできる!」声をかけることが、立ち上がる力につながっていくと思います。
子どもが辛そうな時、親として悲しかったり、自分のことのように辛かったりします。
でも、それって、本人が感じている感情とは別物。自分が過去の体験から作り出しているもの。
自分の感情なら自分で処理できる・・最近の私はそんな風に思い、信頼の器をもっと広くしていこうと思っています。
先日参加したパパ・ママコーチングの講演会で、幼稚園児が多くの友達や先生に見守られ、励まされながら、何度も跳び箱に挑戦し、
ついに10段をクリアする映像を見ました。
最初は、とても飛べそうに見えないんです。
見ながら「無理なんじゃないの?」という判断も湧いてきます。
でも、最後には円陣を組んで「できる!できる!」って友達に励まされ、自分に対し大きく頷いた後、跳び箱に向かい、見事クリアしました。
「その子が絶対飛べる!」という周りの信頼、そして「僕はできる!」という自分への信頼がこの結果を産んだんだなと思いました。
親や先生が子どもの自信を高めることはできません。
でも、子どもへの信頼はいくらでも高めることができます。
子どもへの信頼を高めることで、結果的に子どもが自分で自信を高めるということが起こってきます。
信頼 大事だな〜
↓こちらはスポーツ大会について書いたつばさのブログです。よかったら読んでください。