ありのままを受け容れる

栃木は雨が続いています。教育コーチの修業僧です。
 雨が降ったとき,傘を差すという行為をよく見かけます。私はよほどの雨,長距離ではないときは傘を手放して,雨を感じるようにしています。
人は不快にであうと,防御のために鎧や盾を装備して回避を試みようとします。怒り,絶望,あきらめ,といった怖れの感情から逃れようとします。
私の中にある自立は,「自己を受容する」があります。自己受容は,いい自分,イケていないと感じる自分,不快な感情になっている自分,それらがすべて自分であると認めていくことでもあります。
自己受容のトレーニングとして,雨に抵抗せず,ありのまま受けてみよう。雨が不快と決めるのは早いのかもしれない。なんて考えながら少々の雨を受容しています。
 そもそも,人,雨は原子や素粒子レベルまで分解すれば同じエネルギー体として見ることができます。すると,「自分と同じものを拒否する自分って何だ?」と自問が沸いてきます。
 雨に抵抗することは,ひょっとしたら,自分に抵抗していること,世界に抵抗していることなのかもしれないな…。と思ったりしています。
「雨の日は傘を」という常識の中にも,自己を探求する素材はあります。
みなさまも,日常の中から自己を探求する気づきにたくさん出会えますよう…。

対等な関係

教育コーチの修業僧です。
長女の観察日記です。
ピアノを弾きたいと願いながら,手つかずで,娘が習うことで,その夢がプチ実現中です。
「お父さんここだよ」。ヘ音記号の「ド」の音符の位置をはじめてしりました。ト音記号のさらに続きとして見るんだそうです。教科書で見たはずなんだけどな…。
音符をみても,鍵盤のドの位置とすぐにリンクしない。時間がかかる,間違える。思いどおりにできない。
一緒に娘が同じ鍵盤で,となりで練習している。
おんなじじゃなか。
どこかの社会的な一面で見たら上かもしれないけれども,ピアノは同格,いや,練習量からすでに負けている…。
人は多面的に見ると長短それぞれで,全体としてみたときに,平等で横の関係からできている。上や下を決めつける自分は安心や承認,居場所がほしいのかもしれません。
上で居たいということは,誰かを下に見ていること。下にみられた誰かは,居場所づくりに,他の誰かを下にみることがあるようです。生き方は連鎖しています。
個とは上も下も社会的な立場も超越したところにある根源的なもの。そこでは,すべてが同じ生命として同じ立場で尊重されるのだろうと思っています。
真の平等とは凸凹をならして平らにしていくことではなく,互いの凸凹を受容して同じと思える感覚と先にあるようです。
自分もまだまだこれから。修業が足りないな。

愛の力

教育コーチの修業僧です。
次女(2)の観察日記です。
次女は部屋から,ネックレスや指輪などの装飾品を見つけては,誰が教えたわけでもなく  適切な場所に装備することができます。
 そんな,次女をみてドラクエを思い出した私は,冗談めいて「○○ちゃん(次女)は,素早さとか,みのまもりをいつく高めることができたの?」
と問いかけると,次女はすぐさま,「ちっが~う!」と,決めつけに反発して怒り出す。
人は育とうとする生き物です。自分を輝くことを望み,よくなることを望み,そのためにいろいろな思考や行動を選択します。2歳の次女であっても例外ではありません。
光るものを身につけることで,自己の内面の輝きを受け取ってほしかったのかなぁと思っています。
当然,手放すことに猛烈な抵抗を表現します。逃げる,泣く,怒る,反撃する…。ありとあらゆる手段を選択して,自己の輝きを表現する装飾品を守ろうとするのです。私がボスキャラにみえたのかな?何が起こると手放すのかなと私が思考をしているときのことです。
母親が長女とお風呂に入りました。抵抗していた次女は当然おいてきぼりです。
すると,あれだけ手放すのを抵抗していた装飾類を一気に手放し,「おか~さ~ん!」と泣きながらお風呂場へダッシュしていったのです。
人は育とうとする生き物です。すべての生命の根源は愛なのではないかと思っています。
どんなに,自分を輝かせるものが目の前にあったとしても,愛されている,自分はここに居てもいいんだという,安心感や所属感を充足する愛にはかなわないようです。
コーチングのスキルや理念に傾倒することなく,あり方から人の育ちを支援したいと改めて気づく瞬間でした。

自分が何とかしなきゃ・・

埼玉の教育コーチGao!です。
私はどちらかと言うと、責任感の強い方だと自分では思います。そしてそれが長所でもあり、短所でもあると感じています。
時おり、「自分が何とかしなきゃ・・」モードに陥ります。相手が窮地に追い込まれている時、相手のマイナス面が見えて、このままではマズいと判断や不安が湧いた時、自分が親だから、先生だから、リーダーだから何とかしなくちゃとプレッシャーを感じた時、この「自分が何とかしなきゃ・・」モードが発動します。。
そのモードにある時は、一生懸命過ぎて自分の姿が客観的に見えなくなっています。
苦しいです。自分が苦しいだけでなく、相手も苦しめているようです。
たぶん相手を変えようとして「させる」かかわりをしているんだろうと思います。
最近、仕事の上で、また自分の子どもとの関係で、そんな自分を観察しました。
相手のためにしてあげたいという愛情からしているのですが、これは相手を思っているようで、実は信頼していないからしているとも言えます。
相手が力を持っていないと思うから、自分が力を貸さなくちゃと思う。
本当に相手を信頼していたら、力を持っていると信じられていたら、その必要はないはずです。
それに、本来その問題は、私の問題ではなく、相手の問題。
相手が一番の専門家のはず。
以前は、コーチング・セッションをしている時に、こんな自分がよく出ました。
解決策をつい自分が考えてしまう。答えは相手が持っている(「人は自分の中に答えを持っている」)のに。。
「自分が何とかしようと思わなくていいんじゃない・・」
そんな言葉が自分から出てきたら、ふっと力が抜けました。
「そうそう・・焦って答えを出さなくてもいい」
「相手の中に答えがあるし、力もある。私は、それに興味を持って、聴けばいいだけ・・」
判断を手放し、興味から問いかけると、自分もワクワク、相手もワクワク・・ふと気づくと場が盛り上がっていて笑顔があったり、自分自身も自由に楽しんでいる・・そんな時間が生まれていました。
相手への興味がコーチングの始まりと改めて実感しました。
「何とかしなくちゃ」と立ち回ることが徒労ばかりか、相手を追い詰めていたことに気づき、無力な自分を感じました。
そんな嫌な自分もちゃんと見ました。
悲しみも、虚しさも、がっかり感もたっぷり味わいました。
「そんな自分を許します。」
無力な自分だとしても、できることはある。
相手を信じて見守ること
相手には力があるのを信じること
相手を丸ごと愛すること
相手のありのままを認めること
「させる」を手放して、「育とうとする生き物」として相手を見ること
自分への信頼が高まってきました。
相手への信頼、もっともっと高めていくことが、今の自分の課題だなと思います。
 

未来はどっちに?

皆さま,こんにちは。 教育コーチのいっすぅぃ~です。
ご無沙汰をしていました。 このページが新しくなってから初めての投稿です。
8月,多くの人たちと再会することができました。わくわくの3日間。
2泊3日での東京出張があったおかげです 😎
1日目は,卒業生と会い私が大学生の時によく行っていた喫茶店へ。その卒業生の現在の活躍ぶりをいろいろと聴けました。
そしてその後,大学サークルの友人たちと懐かしい居酒屋へ。昔は貼られていた【薄利多売】と書かれた紙はありませんでしたが,集まった輩はなぜか【ロックTシャツ】でキメている。居酒屋でなく,酒を持ってスタジオの方が良かったって 🙄
2日目は,大学の学部の友人と。2人でスペアリブのお店へ。ビール&ワインとともに美味しく,楽しい時間を過ごしました。
3日目は,大学寮の先輩や後輩たちと。その中には4半世紀ぶりに再会,という先輩もいました。この時は,ほんとに「支えられて生きている」って身体の芯から感じました。
が,SNSの時代,どこへ行っても[隔たり]を感じることがありませんね。だいたいこんなことをやっているを知っていて,おそらく昔はその[隔たり]を取り除くところから始めなければいけなかったんだろうな,と感じていました。
と同時に,[時間の感じ方]を面白く感じていました。時間の積み重ねがあり自分自身がいるという感覚です。「地球上の多くの人たちは過去を自身の後ろに感じ,未来を前方に感じ,未来に向かって進んで行く。だけれども,ある国の文化では,未来を自身の前方向に感じるのではなく後ろに感じ,過去を受け止めながら後方へ進んで行く」という入試出題英文から得た情報を密かに楽しんでいたのでした。
というわけで,この場所とこの方から受け取っているものもあろうか,ということで,最後にこの写真を。
museun syouyou
Honesty is my policy!
いっすぅぃ~でした。
 

邪魔するもの

教育コーチの修業僧です。
今日は私の4歳になる長女の観察日記です。
父「くもんの宿題おわそっか?」  娘「・・・・(聴いてないふり)
 ここで,娘が言ったことをやらないことや,自分の思いどおりにならないことに腹を立てると,つい怒りたくなるものです。
 でも,娘には娘のやらないを選択する事情があるようです。そんな事情は何だろうと思うと興味がわいてきます。
 父「くもんたのしい?」  娘「つまんない」                    父「何がつまんないの?」                             娘「だって,○○ちゃん(自分のこと)小学生みたく,足し算できるから。」             「お父さんとお風呂で練習してるからできるのに…」                         「数字(読みかき)ばっかりでつまんない…」                      父「そっか。足し算しよっか?」  娘「うん!」
 娘は数字を足し算に活用したくて,それがいつまでも実現できないことに不快を感じていたようです。そうわかれば,父はさっそく足し算の問題づくり。
娘の顔はニッコニコ。もちろん,数字を読み書きする基礎があっての足し算。くもんは○○ちゃんの役にたってたみたいだねと伝えると「うん」といって,その日は足し算とくもんをいつになく自分から進んでやっていました。
 最後には,「先生(父)はもう何も言わないでね。自分でやるから。」と一人で黙々と足し算を解いていました。
 やっぱり,子どもは育とうとする生き物なんですね。

時代のビリーフ

埼玉の教育コーチ、Gao!です。
ブログがリニューアルしてから初めての投稿です。
子どもの頃、こんな出来事がありました。
小2の頃です。
父と日曜日遊んでいたところ、勤務先の大学から電話があり、父が急に出勤することになりました(当時、大学紛争でそれに対処するために、父に呼び出しがかかったようです)。
「日曜日なのに、なんで学校へ行くの?」と問いかけた私に、
父は「子どもに言ってもわからない」と吐き捨て、出勤していきました。
私は父の前に立ちふさがり、「子どもだって、人間だ!」と主張したそうです。
自分では、覚えていません。
子どもだって、ひとりの人間としてちゃんと認められたい。
こんな叫びを内に秘めて成長した私。
教育コーチングに出会った時に、一番引っかかった言葉は、あり方のトライアングルのひとつ、「尊重」でした。
web講座でまず学び、リアルな講座に出て、出会ったトレーナーはまさに愛情・信頼・尊重の人たちでした。
大人も子どもも、男性も女性も、地位も、人種も関係なく、お互い尊重し合える社会を実現したい。
私が教育コーチングを学び、実践し、普及活動を続けるエネルギーは、その思いから来ています。
私が小中学生の頃は、忘れ物や私語をしたりすると、教室や廊下に立たされたり、ということが日常的にありました。
自分も何回か立たされたことがあります。
今思うと理由も聞かないで立たせられるなんて、屈辱的です。
現在は立たせることはなくなっているとはいえ、部活でコーチの指示に従わなかったから、罰として何回も走らされ、熱中症になったというニュースをこの夏も耳にしました。
「生徒は先生の言うことを聞くべきだ」「生徒には厳しくしなければ、ちゃんと育たない」
そんなビリーフは今も根強く残っているのでしょう。
この夏、目的地までどうやって行くか、父と話していました。
私が調べたプランを父に提示したところ、「あんたは間違っている。私の言うとおりにしなさい。子どもは親の言うとおりにすべきだ」と、全く聞く耳持たずでした。
無力感を感じたし、せっかく調べてもこんなんじゃ言われるままにしていた方が楽。そんな気持ちも湧いてきました。そして悔しいというよりも、そんな父が笑えてきました。
父や母は「子どもは親の言うことを聞くべきだ」という価値観のもと、育ってきており、それは一生変えられないのだなと思いました。
父は、そういう形で愛情を表現し、私を守ってきたんだと思います。
父がそういうビリーフを持っていることを私が尊重することも必要かもしれません。
その時代時代の価値観やビリーフがあります。
「親や先生の言うことを聞くべきだ」「妻は夫に従うべきだ」「長男が家を継ぐべきだ」「男子 厨房に入らず」「一人っ子は嫁に行くべきではない」「男は泣くべきではない」「女性は家にいるべきだ」「男性は家族を養うべきだ」「女性は家事をするべきだ」
そうした価値観やビリーフは、変化していきます。
若い夫婦を見ていると、細かいことも相談し合っていたり、「こうしようと思うけど、いいかな?」と同意を求め合っていたり、いいコミュニケーションがとれているのを感じます。
夫婦で家事や育児を分担し合うことも増えています。
抱っこひもで子どもを抱えているお父さんの姿を見ても、最近は驚かなくなりました。
先日は、花屋で働く男性が抱っこひもで子どもを抱えていて、少し衝撃でしたが。
お互いの意見を出し合い、それぞれ違っていても、話し合って解決していく・・今の若い世代はきっとこれからそれがさらにできるようになっていく、明るい未来を感じています。
若い人は、経験豊かな上の世代の意見に耳を傾け、年老いた人は、若い人の自由な発想に耳を傾ける・・お互いに認め合いながら成長していけたらいいなと思います。

呼び方と心の距離

こんにちは。
教育コーチのうみです。
昨日、塾生と卒業生ママで恒例のアレンジメントの
レッスンがありました。
2か月ごとの開催で、気づいたらもう2年ほど続いています。
いつも塾生ママたちは私のことを「珠先生とか珠美先生」
呼んでくれます。それはそれで心地よく、受け取っています。
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そして、昨日はレッスンの時にあるママが私のことを
「たまちゃん」と呼んでくれ、他のママが一瞬、「???」。
そのママとは、この夏は塾生保護者としてだけでなく、
他の場面でも一緒に過ごす時間が多く、
気づいたら昔から知っているお友達のようになっていました。
「たまちゃん」と呼ばれて
昔はいやだなって感じることが多くありました。
最近は心の距離が近さを表している感じ。
昨日もうれしいと素直に感じました。
そして、ふと周りを見ると少しびっくりした顔のママがちらほら。
(それもおもしろい!(^^)!)
今日はアレンジメント教室で私が先生じゃないし、
いいんじゃん♪って。
 
もう10年以上のお付き合いになる別のママのことも
昨日は、名字でなく、下のお名前で「○○さん」って
よんでいる私がいました。
そして、恒例ランチもなんかいつも以上に和やかに。
 
呼び方って、アフィニティに違いを創るのですね。
ちょうど今週、トレーナー仲間にも同じようなことを
言われましたね。みんなは、「○○さん」って呼ぶのを
「うみちゃんはどうして〇○って呼ぶの?」って。
そっかそれ心の距離なのかなと昨日、感じました。
 
確かに講座や授業では、意図して呼び捨てにしたり、
「○○さん」ではなく、「○○ちゃん」って呼んだりしていますね。
普段の生活の中でも少し意識してみよう!
 
 
 
 

調和

教育コーチの修業僧です
自然体験授業がありました。そこで得た気づき「調和」について整理します。
自然の中にある「木」「草」「水」がそれぞれが邪魔をせず,無意図,素朴,自然に存在しています。それでいて,互いを邪魔せず森という全の調和を生み出しています。
どの場所やどの角度から見ても違和感のない,感動や癒やしを与える調和のとれたものです。エネルギーといった波動さえ感じさせるほどの見事な調和です。
それぞれ形や姿,色,年齢どれ一つ同じ物はない確立した個でありながら,その個が1つの全をなしている。全でありながら,それぞれが個として輝いている。
そんな個でありながら全,全でありながら個であるという調和の素晴らしさを体感しました。
教育コーチとして私が目指す自立も同じです。互いが個として邪魔せず調和する社会。共同体感覚にあふれた社会。個でありがら全,全でありながら個として輝ける社会。
見たい社会はすでに目の前に存在していたんだなぁと気づきました。       自己を知り,自己の調和と統合を図り,自己と世界の調和を目指す。その先に目指す自己実現が待っているような気がしました。

社会の中で活きる個

教育コーチの修業僧です。                                我が家の日常の一場面です。
階段から姉妹が降りる。妹が一番に降りたくて,先に降りようとしている        姉を降りないでと怒る。
 父が姉に「妹にゴールを譲ってあげようか」 姉「うん。わかった」
 ところが,妹はゆずろうとする姉の服を引っ張り妨害する。                      すると姉は先に階段を降りきってしまう。
 「なんで降りたの」と約束が違うと問い詰めることもできますが,          それぞれに事情があると尊重しようとするといろいろな興味が沸いてきます。
 父「どうしたの?」  姉「服をひっぱたからバツを与えたの」
正そうと,個をむりやり矯正するダメ出しはお互いにストレスになります。        社会で得た「バツを与える」常識を娘が書き換えるお手伝いをしました。
まずは,そんな姉の思いをそのまま受け取りました。                 父「そうか。バツを与えたんだ。」「○○()ちゃんはバツするのが好き?」      姉「ううん。きらい。」                              父「そっか,きらいなんだ」「これからバツいる?」                 姉「いらない。」                                 父「これから○○()ちゃんの毎日から,バツがなくなったら,すごくうれしいな」
 すると,姉はギューっと抱きつき,「わかった」と一言,父に届けてニコニコしていました。
 姉は4歳です。4歳にして自分の能力や常識で世界や他人に影響を及ぼしたいとか,正しく評価したいという承認の欲求にもとづいて,自分にとって気に入らないことにはバツを与えるという社会に知らず知らずにうちに組み込まれているんだと実感しました。
4歳にして,ダメ出し,評価,罰が渦巻く社会の中で日々育っていると思うと,家庭や学校における教育の重要性がますます再認識できました。
幸せな社会に生きる自立した人へ育つために支援をし続ける教育コーチでこれからもありたいな。