超介です。
故郷丹波に移住して、良いとこ探しをしているうちに、少しずつこの地に対する捉え方が変わりつつあるようにおもいます。捉え直しができそうです。18歳までは、いや生まれてからの58歳になるまでの58年間、私を捉えていた丹波に対する感情は、狭いところ、何もない、だからつまらない、早く出て行きたい、すみたくない、でした。
もちろん、今でも「私のすむこの家からは最短のお店は1キロほど離れたヤマザキデイリーストアだけでコンビニは8kmはなれたところにローソンがあるだけです」。そして、このとき、事実に即していえば「最短のお店は1キロほどはなれたヤマザキデイリーストアで、コンビニは8kmはなれたところのローソンです」です。この2つの複文の前段と後段に、前の文章では「だけ」がはいり後ろの文章には入りません。「だけ」を入れると、そこに私の「だから少なすぎるんだ、さみしいんだ、不便なんだ」という考え方が入り込みそうな余地があります。
しかし、「事実」を述べる後ろの文章に注意を振り向ければ、そこからどのような「思考」をするかは自由です。好きになるか、嫌いになるかは私が決めることができます。この決めることができる、ということに気がついて、それが実行できれば捉え直しができます。
例えば「お店が遠いので、お金を使う機会がないので、無駄使いしにくい、お金が節約できる」「簡単にものが手に入りにくいので、身の回りにあるもので工夫をし始めて、それが楽しい」「甘いもの等を買って、食べる機会が少なくなっているので、たまに買うことのできる100円のお菓子がおいしい」というように。
そして、丹波が嫌いになった、のも、丹波が好きになった、のも、どちらも決めているのは私自身であることに気がつきます。気がつけば自由になります。
「事実」と「概念」をきちんと分けて捉えていけば「概念」にふりまわされて疲れてしまっている自分に気がつくことがあります。それを捉え直しする方法の一つが苦手なもの、人に対する「良いとこ探し」です。このことはコーチングで学んでいましたが、最近自分の身に起こったことに対して気がつくことができました。そして気がつくことでわたしは、自由になりました。