たび@小山です。

春は面白い。

動き出すものの多い季節。植物も、動物も、虫も、人も。

動き出す人あれば、動かない人もある。

動くこと・動かないことに、良い/悪い、正しい/間違っている、は無い。

問題なのは、そこに意思があるかどうか。

  ・が・・・だから動かざるを得ない
  ・が・・・だから動けない

これは外的コントロールに身を委ねる生き方。
環境次第の生き方。依存、他責の生き方と言っても過言じゃない。

動いて転んだら、あるいは動かなくて沈んだら、何かのせい、誰かのせいにして恨み、悔やむ。
自分は被害者。責任取らなくていい。楽ちん、楽ちん。

  ・が・・・だ。そして、私は動く
  ・が・・・だ。そして、私は動かない 

これは自ら選択する生き方。自分の人生、自分で舵を取る生き方。

動いて転んでも、動かなくて沈んでも、誰のせいにもしない。
すべて自分で創り出した結果。受け入れる。そして次の行動を選択する。

僕の周囲には、動く、動かないを自らきっちり選択した人たちがいる。
かっこいい!素敵だと僕は思う。
僕が関わる人たちにも、その先にいる子どもたちにも、
そんな生き方の素晴らしさを伝えたい。

そのためには、自分がその生き方に徹すること。

こうして書くことも、そこに向かう過程の一つ。

考え方の枠を広げる(火事から考えたことpart?掘

「教育コーチ」修行中の超介です。

ゼロベース思考、というのはそれまでやっていた思考作業を一旦ガラガラポンと崩して、最初からやり直すこと、とおもっていました。電卓計算でたとえるならばメモリも全部消してACボタンをおしてやり直す、算盤でいうなら「ご破算で願いましては」ではじめること、のようにです。

 でも、数日前に本を読んでいて私的(超介的)最良の意味に気がつきました。

皆さんは日々の生活の中で、困難なこと、できそうにないこと(それが公的なことであれ、私的なことであれ)に出くわすことはありませんか?ありますよね。

たとえば、私は人前で話すことがイヤでたまりませんでした。ですから、会社の全体会議などでスピーチをすることがきまると、1週間ほど前からでも憂鬱でした。準備をしていても不安がこみ上げてきます。それを気にすればするほど、そうなります。

これをゼロベース思考で捉えなおします。この場合のゼロベース思考は「思考の枠」を拡大することです。いやなこと、というのはそれにこだわるからいやなことなのであり、そのときは「思考の枠」がそのいやなことを中心にして存在しています。その枠を最大限に広げるのがゼロベース思考です。すると、その枠内で新たな事象が浮かんでくるので、それとの有意義な関係を作るのです(構造化する、とかいうらしいです。)。

たとえば、スピーチをすることの延長上に、1年後に20名くらいの保護者の前でトレーナーとしてファシリテートしている自分をイメージするのです。そうすると、目の前のいやなことがそこに至る(ちょっとたとえとしては悪いですが)までのトレーニングの機会として見えてきます。やるべきことを大きく捉えなおします。メンタルエネルギーが必要ですが。

こんなことを考えるのは次のような事情からなのです。

朝起きると憂鬱な気分にとらわれます。その原因を考えました。それは、一つこなせば、また次へと、次から次へと向かい合うべき困難な事態に遭遇しているとおもっているからなのです。これが憂鬱の正体かと。でもその都度思考の枠をひろげることができれば(ゼロベース思考で位置を捉えなおせば)、違って感じられるはず、とやっと気づいたのです(ずーと朝が憂鬱でした。これまでは、ごまかしてエイ、ヤーとそのような気持ちを切り捨てていました)。

私の「最大・最深の思考の枠」を死後の世界まで広げます。すると、『私の葬式のとき、知人達が私のことを「超介さんは、本当に誠実に生きたひとだったよね」といってくれること』、これがその枠の中で一番大切なこととして浮かんできます。そこから、次々と現れる困難(と思われる)な事象を捉えなおします。すると、憂鬱な気持ちがおさまり,少し前向きの感情につながるのです(きっと)。
このような思考を繰り返せば習慣になり生まれ変わることができると思っているのです。

これもセルフコーチングだと思います。
「無意識の海から思考・判断・感情型を引き上げ、リストラクチャ、ブラッシュアップして再度無意識の海にそっと沈める」です。

おしょうさんの娘育ち日記(4月その1)

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うちの爆走娘です。
おうちのベッドではありません。
某○トリの寝具コーナーです。
リビングのモデルスペース、素敵なベッドの数々に、
娘はいつも大興奮。
本格的なママゴトができる場所だと思っているようです。

本日もパパの出勤前に、
娘「○トリに行く!」
私「いっしょに行こう!△時には、おうちに帰ってくるよ。いいかな?」
娘「(大丈夫という感じで)いいよ。二階に行くときは、パパおんぶしてね。
ゆずはエスカレータ怖いから。」
私「わかったよ。エスカレータはおんぶで行こう。」

○トリに到着。
娘と私は○トリの二階へ。
リビングルームコーナーで、娘はおもむろに靴を脱いで、揃えて、食器棚へ。
娘「パパはそこにいてね。」
娘「お帰りなさい。いまご飯作ってるから、ちょっと待っててね。」
私「はーい。」
娘「ああ、忙しい。忙しい。(ママの真似だね)」
そこへ、○トリの店員さんが・・・。
(あ、ままごと遊び注意されるな)
店員「お客様。靴は履いたままでよろしいですよ。」
私「あ、はい。」(あ、そうか!)

おうちの玄関では、なかなか靴を揃えられず、
何度も何度も声をかけて、ようやく、自分でできるようになったんだなあと、
改めて実感しました。
習慣として、自らできるようになる。
まさに自立ですね。

教育コーチングの学びを生かして・・。

○「教育コーチ」修行中の「そら」です。

○明日から、新年度です。
 明日は、新任の先生方を交えての
 新年度準備職員会があります。
 
 学年会もあります。
 新しい1年間をどう展開しようかといろいろ考えて、
 学年会のレジメをつくりました。

 教育コーチングの学びが方針のあちこちに
 生きています。

 楽しみです。

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○みなさんも
 素晴らしい新年度をお迎え下さい。

春の妄想(火事から考えたことpart?供

超介です。

意識の下に広がっている無意識の海、そこを豊にすることが自分を変えることにつながります。

無意識の海から習慣化してしまっている私の思考型、判断から行動型、感情型などを取り出し、意識の光を照射します。その光で骨組みをあらわにし、清浄なブラシと水で垢を落とし、欠損、ゆがみを直し、理想形へ組み替えます。そして再度、そっとそれらを無意識の海へ沈めてゆきます。

これらの行為を私はコーチと合意しながら共同で進めていきます。日々それらの作業を繰り返せば、リストラクチャされブラッシュアップされた思考型、判断から行動型、感情型がたゆとう豊饒の海が広がります。そして生まれ変わりつづける私。

(海からの連想、ここからは現実の春の海。)

春、桜の開花とともに外洋から鯛の群れが宇和海の沿岸に入り込んできます。陸地から急峻に落ち込んだ先の海、リアス式海岸に産卵のためにのっこんでくるのです。桜鯛の季節です。

カゴに撒き餌を詰め針先にオキアミをさし、棒ウキのついた仕掛けを30mから50m沖合いのポイントへ投入します。着水して針先が15m・20mの海底より50cm・1m位の位置につくまで道糸を送り込み、白地にオレンジの蛍光色の棒ウキが海面に立つのを待ちます。糸ふけを取ってあたりを待ちます。

それから緊張する時間が始まります。

鯛のあたりは突然やってきます。ウキが海面から一瞬のうちに消えるのです。ゆるやかに張られている道糸からさお先に荒々しい生き物の動きが伝わってきます。ほんの一瞬おいて竿をあおって合わせをいれます。このときから取り込みまでの数十秒・数分間が釣師にとっては至福のひと時です。

海上に姿を現す。ピンク色から白色までのグラディエーションのかかったうろこにちりばめられたブルーの斑点、それらは海の宝石のように美しい。さお先に感じる魚信から取り込みまでの高揚した気分時間はその魚体をしげしげながめて、そしてナイフでえら下を〆、海水の入ったバケツに放り込んで終了します。

★★★★

海にはいつもあこがれます。なぜなら現実の海も、無意識の海も奥が深く、何者が潜んでいるかわからなくて、そしてどこかとつながっている感じがするからです。豊な海との対話がフィッシングでありコーチングであります。春の私の妄想。

火事から考えたこと

超介です。

その日の数日前に、国内外の数件の火事のニュースを耳にしていたためか、枯れ草の生い茂る川原を朝歩いたとき、ここに火がつけば一面焼けてしまうな、と思いました。

その日の日中に、知人が携帯電話での地元の事件報道ニュースで「M(私の住んでいる地区名)の公園で火事があったようだよ。」と教えてくれました。「公園、小学校の北にあるよ。でも田んぼの真ん中だし、燃えるようなものはないとおもう。」と私。

翌日の朝歩いていると川原の土手下に消防車が一台とまっていて、消防士がホースをまき、丸めたそれを架台に積み込んでいます。「朝から防火訓練?」と思いました。

土手に上がり、川原を見下ろして、「あっ」と声が出そうになりました。昨日、燃えるかも、とおもっていたその箇所がもえていて一面真っ黒になっているのです。

「昨日の火事のニュースはこれか、公園というのはS川公園のことか。」と全部がつながりました。

私に予知能力がある、などと考えているのではありません。でも偶然と割り切ってはしまえないものが残ります。それから人の潜在的な力について考えはじめたのです。

脳科学者によれば、人の行為はそれを当人が意識する以前に、脳の中でその行動の元になる回路が発火しているそうです。すべての所作を人は意識して行わず、無意識の行為(たとえば習慣化したものなど)など、ふと気がつけばやっていたというのはその証明です。

ある言葉や考えが浮かんできたり思いついたりすることを、無意識の海、そのあるところから泡のように浮かんでくる、このようにたとえて説明されます。その思いつき、気づきの内容を選択することはできません。無意識の海に意識の釣り針はたらせません。

そうであるなら、アイデアや考えをたくさん思いついたりする人になるためには、この無意識の海を豊饒の海にするようにすればよいと思います。天才モーツアルトも過去の名曲を徹底して学んだとか、読んだことがあります。その豊な曲想の海から多くの楽曲を世に出したと。

無意識の海を豊にするため、そのためにたくさんの栄養を海に投げ入れます。未来に向かう、上昇志向のコトバの塊、映像、五感から入る自然物も、どんどん取り入れて無意識の海を豊饒の海にするのです。春の私の妄想。

親愛なる子どもたちへ・樋口了一

年老いた私が ある日 今までと違っていたとしても

どうかそのままの私のことを理解して欲しい

私が服の上に食べ物をこぼしても
靴のひもを結び忘れても

あなたに色んなことを教えたように
見守って欲しい

あなたと話す時 同じ話を何度も何度も繰り返しても
その結末をどうかさえぎらずにうなずいて欲しい

あなたにせがなれて繰り返し読んだ
絵本のあたたかな結末は
いつも同じでも私の心を平和にしてくれた

悲しいことではないんだ
消え去ってゆくように見える私の心へと
励ましのまなざしを向けて欲しい

楽しいひと時に 私が下着を濡らしてしまったり
風呂に入るのをいやがるときには
思い出して欲しい

あなたを追い回し 何度も着替えをさせたり
様々な理由をつけていやがるあなたと
お風呂に入った あの懐かしい日のことを

悲しいことではないんだ
旅立ちの前の準備をしている私に
祝福の祈りを捧げて欲しい

いずれ歯も弱り 
飲み込むことさえできなくなるかもしれない
足も衰えて立ち上がることさえ
できなくなったら

あなたが か弱い足で立ち上がろうと
私に助けを求めたように
よろめく私にどうかあなたの手を
握らせて欲しい

私の姿を見て悲しんだり
自分が無力だと思わないで欲しい
あなたを抱きしめる力がないのを知るのを
知るのはつらい事だけど

私を理解して支えてくれる心だけを持っていて欲しい
きっとそれだけで それだけで
私には勇気が沸いてくるのです

あなたの人生の始まりに
私がしっかりと付き添ったように
私の人生の終わりに少しだけ付き合って欲しい

あなたが生まれてくれたことで
私が受けた多くの喜びと
あなたに対するかわらぬ愛をもって
笑顔でこたえたい

私の子どもたちへ
愛する子どもたちへ

東京に暮らす兄からのメールに
涙がとまりませんでした。

目覚めは

いっすぅぃ・です。
昨日は息子(琉太朗)の卒園式に行ってまいりました。
三重県という田舎もあってか、卒園者は16人だけ。
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こじんまりとした、良い卒園式でした。

というわけで、4月からは小学生。
早く、しっかりと目覚めなきゃと、あるプロジェクトを実施。
(って言っても、妻と私と琉太朗の3人のチームですが)
名付けて、「6時30分にはおはよう」(実際は名付けてなんかいないですが)

現在のところ、とっても良い出来です。
副産物としては、しっかりと時間を守って寝るようになりました。

今まで、寝るときには「パパが本を読んで聞かせる」が習慣でした。
なので、それを利用して「6時20分に本を読み始める」
をすることにしたのです。
きちんと身体を起こしてから読み始める。
もちろん?! ひざの上に座る。朝からラブラブです。
時には、「ここからここまでは琉くんね」と変わりばんこに。

寝起きの悪い子どもに一度お試しあれ!

レッドロビンの赤い芽

超介です。

庭先のレッドロビンの赤い新芽が目につきます。あちこちの庭にあるレッドロビンにも、結構個体差があって、新芽はやわらかい赤色からほんのちょっぴり赤みがある緑色のものまで、様々です。

松山ではもう数日前から桜の開花の時期を迎えています。ウォーキング途中の土手の桜の木にもいくつかの花がついています。ここは市の中心部から少し外れた河原なので、温度差からか毎年開花は市中心部と比べると1週間ほど遅れます。

枝先についた先端が楕円形のつぼみ、これが木全体に満遍なくあるのです。葉っぱなしの精彩を欠いた黒っぽい開花前の桜の木、でもあと数日で、このつぼみからいきなり春が訪れ風景が変わります。

春の山道を歩きます。頭上の新緑が陽光を透き通らせている、その若葉色に見とれてしまう季節です。さらに、樹間をわたる風の音、湿った土のにおい、五感に伝わる新しい季節の情報を受け取ります。

朝出かけるときのウォーキングの服装も、おとついから半そでのポロシャツ、半ズボンに切り替えました。アレルギーで荒れた肌には適度な紫外線が有効、と医師から日光浴をすすめられているので、軽装に切り替えて歩きます。(出会う人はまだ長袖、長ズボン、さらには上着着用が多いのですが。)肌に触るひやりとした風も気持ちがよいものです。

早すぎる軽装、と思う人もいるかもしれませんが、きにせず、さっさと歩きます。樹木もそれぞれ、人もそれぞれ、迷惑のかからぬ範囲で好きなように生きていきます。

人それぞれ、というのは安心して自分を生きていくことだと思い始めました。できるかどうか、と不安にかられることは無用だよ、といってくれていることに気がつきました。そういえば、昨年起こった出来事も、それまでのことも、結局何とかなっているのです。

あなたができると思えばできるのだよ、と。あなた次第だよ、と。この言葉、独り歩きをさせるには(他人にそのまま伝えるには)少しおぼつかないですが、僕の中ではその意味を示し始めました。