j.スクール開校2年目

 超介です。
 
 情熱を持ち続けることが習慣になれば、その習慣がさらに人を変えていくことを知っているので、その習慣を作りあげることは本当に重要なことです。そして、さらに愛情を支えるものは情熱であることに気が付けば、愛情が枯渇しているように見えるのは情熱がその人の中に顔を出したことがない、隠れているからではないかと思うのです。

 人が、若いうちにこの習慣を身につければ、とても大きな財産を手に入れたことになるので、これを提案する塾として「心の発火点」を理念としました。開業して4月で1年が経ちました。一人の塾生から始まって12名の塾生が学びに来てくれました。半数の人たちが中3生、高校受験をし卒塾した人もいて現在8名の人で2年目を迎えました。

 「あなたは何をしたいのか?」というように、問うことを中心に場を運営してきました。
塾生の自立的な学びに対応できるように場を整備し、私自身の対応の能力も増えるように努めてきました。学ぼうという気がないように見える人もいましたが、でも心のどこかでは意識は必ずあるので、リクエストはしますが、コントロールはしません。環境が整えば、彼、彼女らも必ず自主的に学びます。

 通塾に抵抗がないように、各講座の料金も抑え、学べる時間数を増やすこと、教室も過ごしやすい環境にしました。今年は、どこにいても自立的に学べるようなネットを使った学習システムの導入、HPを使った情報の公開、場の拡充等の整備を進めていきます。

 春季講座が今日終了しました。明日から通常講座を再開します。これからの新しい人たちとの出会いも楽しみです。

本音と建前

超介です。

「本音と建前が自在に使えること、彼はそれができる。」と大先輩からある人物像の解説を聞いたことがあります。この場合の「建前」とは「あるべき姿」に近い意味を持っています。その当時、すぐにはその意味が理解できませんでした。後年、改めてその意味を考え直す時、その言葉の奥深さと、それを兼ね備えていた人物の大きさを感じました。

 問題を解決するのに本音が話せる場が必要、といいますが、本音を語れば、わかりあえて問題が解決するとは限りません。心の中にある、本能に近い欲求を掘り下げて自覚しても、自己責任の範疇ではそれで済みますが、他とかかわりあう、社会的存在としては解決できないことが大変多いです。他者の本音は自分の本音と異なるからです。自己責任の範疇ですら、未来の自分は他者ですからそれとのかかわりでは解決できません。

  「あなたの本音はわかった、それでどうするの?」と問いかけるとき、本音を超えた「あるべき姿」を見つけることができます。本音は、この質問に人が答えを見出すために必要です。本音を話せば、その束縛をほどく糸口が見つかることが多いからです。人が自由になるときこそが、さらに深い思考を始めるときです。

  コーチングはそのためにとても有用です。

ひそやかな夢

 超介です。

 毎朝、目覚後に、寝床の中で、その日のやるべきことが期待感を持って確認され、一日の終わりに振り返れて、納得して眠りにつくとき、幸福な一日であったと感じます。その日の行動は、習慣化されたルーチンワークであることも、その日にしかしないイベントであることもあります。いずれにせよ、人にはあまり公言していないけれども夢があって、そのことにつながっている行動であれば最高です。
 行動と夢の2つの関係は、夢から逆算したルーチンワークやら、イベントであったり、あるいは行動から夢が描けたりして出来上がります。月単位で流動的になることもあります。でも数日単位ぐらいではその関係が出来上がることはありえません。
 私の一日も、いくつかのルーチン学習、トレーニングメニュー、公私の仕事、イベントからできあがっていて、それはひそやかに夢とつながっています。それらの関係が私を動機づけ、日々の生活を豊かにしてくれます。

品性(その2)

超介です。

「正直であること、あるいは素直であることを数値化はできませんが、品性を構成する大切な要素だと思います。己に対しての正直さを持ち得ている人は、正しい努力の方向性に気が付きやすいからです。コーチングをさせてもらっていると、そのことに気が付くことが多いのです。この正直な発言をクライアントができるかどうかは、クライアントがコーチを信頼できるかどうか、におおきくかかわってきます。それは同時にコーチがいかにクライアントと、(コーチとしての)自分自身、そしてコーチングそのものに信頼を置いているかによります。
人は、仕事の場でもプライベートの場でも、自分の内側にある思いにはっと気が付くことがあります。コーチングは、そのように人が自分の内側にある思いやら、考えに気が付くことができるようにできる手段の一つです。
何にどのように向かうかは品性のレベルによります。コーチングはそのことの有効な手段です。」

品性

超介です。

「努力の方向性について意識できはじめると、その人の品性が高まると思う。目標は数値化したり、具体的にしておかないと、動き出すことはできないけれど、たとえその目標数値やら、具体的項目を達成しても十分でないときがある。組織で働いているとき目標数字は達成しているけれども・・・何かが不足している部署、人があった。品性がない、敬愛する上司はそのように表現し、それはその人の中にあるもので、育てることはとても難しい、と言う。今努力しているその方向性について、その人がどう意識して捉えているかだ、と。
ある一定の期間、目標を達成するために努力を継続することがそれらを生む土壌として必要だと思う。自らに我慢を強いることができることが最低条件かもしれない。ある時期、強制されて始めたことでも、途中からでも自らの意志で行動していることが必要だと思われる。
品性を大切に、そしてそれを高めていきたい思う。」

セッション(出会い)

超介です。

『 いつもここから始まる。そこは、意識されないスタートライン。全く0から、時にはマイナスの目盛りから始めているのかも知れない。それをあなたがどのように感じるかをその時、私は知らない。それが出会いだ。

しかし、そこから始まり、努力を継続し、ある高みに到達した時、私の内側には確かに喜びに近いものを感じるので貴方にもそれが有るだろう、と私は考える。それが私が今の人生の様々なことを継続している理由だ。

けれども、矛盾するかもしれないが、これが一番大事なことの一つ。人はそれぞれに居場所が異なるので、私の感覚と才能(もしそういうもがあるのなら)と貴方とのそれは違うはずだ。それで同じように感じたり、考えたりしていないかも知れない。だからこそ、いろいろな考えと生き方がこの世界に満ちていて、それらが地上を豊かにも、混乱させたりもするのだと思う。

だから 、セッションの際にも、普通に生活する時にも、謙虚な人がそうするように、行動はもちろん、感想を述べたり、考えを述べたりする際に少なくとも言葉選びは慎重にしたいと思う。』

内省する

超介です。

 「(自分が)どの高校に進学したいかわからない」と、中学1年生が話しかけてくれました。彼は自分がどの学校に行きたいのか、あるいは行くべきかという思考をしました。このような思考ができるようになったこと、あるいは質問をしてくれたことをうれしく思いました。周囲と自分との関係を思っている彼を、確かな手ごたえとして感じたからです。

 人は瞬間的な思考、感覚的な言葉で生活し、そこからの限界を感じて、内省を始めます。
その人の内側に育ってきているものがあると、発する言葉の質が変わり始めます。

 その時、まさにコーチとして向かい合うことが有効になります。彼の心の中に何があるかを同じ視線に立って探していきます。今回、結論は出ませんでしたが、今後何かの時に同じような思考を彼はすると感じます。そして、そのときに立ち会えれば、「選択すること」の意味を伝えようと思います。

Guitar事始め

超介です。

久しぶりに、40年ぶりにギターを手にし、保管していた音叉で調弦をしました。購入した中古のギターは弦が(多分)古く、押さえにくいので新しい弦を購入して張りなおしました。初めは弦の張り方も忘れていて、うまく張れず、すぐ緩んで音程がくるいました。今は小さな調整具もあるようなので、それを買ってきて弦単位で合わせてみようとおもいます。

毎日2回ほど合計1時間ほど教則本を見たりCDを聞いたりしつつ練習をしています。
どのフレットを抑えればドかも忘れていましたが、4,5日すると単音で簡単な曲を弾けるようになりました。2週間ほどで左手にタコができて固くなりました。

3週間ほどはすこし難しめのパートやら、曲を前日に練習しておくと、寝ている間に何かが起こって翌日はうまく弾けるようになっていることに気が付きました。身体記憶がよびさまされるようです。意識している、頭には残っていないのですが、身体のどこかに学習履歴が記憶されて、睡眠中に芽吹いてくるような感じです。

でも、昔学びきれなかったところ、高音部の音階のおさえやら、セーハ(1本の指で複数弦を押さえる)はうまくはできた記憶がなく、やはりスムーズにはいきません。でも、このままいくと2か月ほどで40年ほど前の技術(たいした技術ではないですが)は取り戻せそうです。(あくまで予想ですが。)
 
 ここまでは何となく教則本に従って練習しているとスキルが戻ってきましたが、これから、以前よりうまくなるためには工夫が必要です。今、思いついて実行している工夫は、一つの技術、曲のパートの集中練習をすること、それもちょっと難しめである内容を、です。できていることはより良い音を出すように、と目標を決めてやります。以上のように、3つほどの練習課題を決めてやっています。

 ギターの練習からいろいろと学ぶことができます。

なにを学ぶか

超介です。

 理解できていることと、それが使えることとは全く別なのに混同してしまう場合があります。「数学が苦手」な人の場合、ある問題が解けない、でも、説明をしていくと多くの人が理解できるようになります。説明方法の適切さにもよりますが、「そうやって説明してもらえるとよくわかる」といいます。数学の場合には、基本的には「答えは一つ」であるので、誰でもふさわしい考え方にさえ出会えばそれを解くことができます。

 問題のパターンはいろいろありますが、答えはそれぞれに一つ、その問題に解くのにふさわしい考え方(概念)とを組み合わせる力、これを鍛える必要があります。したがって、例題とその演習からはじめて、次に様々な問題があって、その中の一問を解く、という練習が必要になります。そこを意図した学びができるかどうです。できることを繰り返すのではなくて、です。

 一方で、できることを繰り返して定着させ、そのレベルやら、スピードを向上させるのはスポーツとか、芸術系の学び、あるいは語学系の課題に有効です。様々な概念の使い方をトレーニングするのと、身体のもっている力を研ぎ澄まし、身体を道具化したり、道具を身体化したりすることが必要です。

 コミュニケーションの「答えは一つ」ではありません。でも往々にして数学の問題と同じように「客観的な答えがあるものとして」解こうとしてしまうときがあります。

『流暢性の罠』

 超介です。

 新しいことを学ぶことについて、他人を見ていれば『それはだめだろう』と、よくわかることがあります。例えば私の主宰する塾でも、学習の方法に関してそれを見受けることがあります。

 課題を「ノートつくりが目的」かのようにやっている生徒もいます。そのように生徒に誤解されやすい「宿題」を学校から出される場合もあるようです。理解できて、定着していると思いこんで、実は作業しているだけとか。それを指摘すると、それに気が付き超えていける人もいますが、気が付きにくい人もいます。私自身も仕事において「ノートつくり」をしていて進んでいない、とハッとすることがあります。適切な方法とタイミングで自身に対して理解度、定着度をチェック(テスト)できるかどうか、覚醒している必要があります。

 自分が何をしているかに意識が向いていて、それが合目的かどうか判断をしつつ行動を継続することは意外と難しく、『フリ』だけしている、そのような事態が起こりがちです。

 最近読んだ書籍「脳が認める勉強法」(べネディクト・キャリー ダイヤモンド社)の中では『流暢性の罠』という言葉で紹介されています。