どのような努力をするか.

超介です。

オリンピックのメダルの国別獲得数を見ていて、どのような努力をすべきかについて、再度考えさせられました。もちろん生まれついた才能の差はあったとしても、ほとんどのアスリートたちがメダル獲得にふさわしい、おそらくその範疇においては、時間と方法をかけたに違いないことを思いました。そうでなければ、そのような方法を取らなければメダルの獲得数が増えるわけがありません。

重要なことは単純に練習時間をかけることではなくて、どのように練習するか、です。このことは「超一流になるのは才能か努力か?」(原著PEAK Anders Ericsson & Robert Pool)という本で「限界的努力」という言葉で解説されています。

単純な精神論ではなくて、心理学的にも科学的にも的な根拠のある方法論での学びが大切であることをオリンピックは世界にPRしたように思います。

私は毎日の英語の勉強とギターの練習を、この観点から再度見直しました。

社会的適応

超介です。

 生前と死後、私たちの肉体を構成する分子、原子は自然の中に拡散していますが、生きている間、それらは独立し、まとまりを持って世界を動きます。生前と死後の意識も同様に宇宙の中に拡散、埋没していると考えれば、それは区別ができない大きな塊、宇宙と一体化しているといえます。それが生きている間は、大きな宇宙の意識の塊からこぶができるように、一部飛び出て独立して動き始めるのです。どこの部分から飛び出るかで、その特徴が生まれてきて、個性が生まれる。そう考えると、自分と他人が違って見えるのは当然であるし、違わないと存在しないともいえます。
 他人との違いが大きいと、不安を感じたり、さらにそれを指摘されるとその不安が大きくなったりすることもあります。でも肉体も意識も生まれてくる、つまり分かれて出てくるのは、それまで一体であったものと違いが出るというところに意味があるのですから、違いを感じて当たり前です。少し狭い意味に社会的適応を捉えるとその不安を解消するために、人は規範的なものを学び、部分的一体化しようとするのかもしれません。
 人と同じように感じることができない(正確に言えば他人の感覚と自分の感覚の違いが同じであるということは証明などできませんので)、人と同じように感じると信じることができない感覚はすごくまっとうです。たぶん程度の差はあってもほとんどの人が、このような不安を持っているか、持った経験があるのではないでしょうか。
 2016年度上半期芥川賞受賞作品「コンビニ人間」を読みました。この小説は上記のような生前、死後と生きている間の肉体と精神のイメージを僕に与えてくれました。

原理原則に従う

超介です。

 一日のルーティンのうちに、昨年9月から続けている英作文の暗唱と今年1月から始めたクラッシックギターの練習があります。合計で一日に、2時間から3時間くらいです。ほぼ毎日継続しています。停滞気味になって、上達が感じにくくなってやめようという気になるときの対処の方法は身に着けることができました。それは上達曲線の、自分の今の位置を頭に描けば、どうすべきか、やめることも含めて、見えてくるからです。

 しかし、今夏の不幸ごと(父の死)のように身辺に新たな出来事が派生して「それどころではない」という心持になった時には停止します。そのようなときには「停止してしまう」のではなく、新たな出来事に対処することを優先し、「停止することを選択」します。周囲の状況を見てどのような行動をとるのかを決めます。

 私の場合、決めたことを途中でやめてしまう原因の多くは、この新たな出来事などに「振り回されて、本来すべきことを見失う」でした。このことは、環境等の周囲の状況を根拠に生きていることになり、自立からは程遠いことです。

ルーティンも含めて、自分の生活を、使命やら、原理原則にに基づいて過ごすとき、ぶれず、振り回されずに生きていけるのだと思います。

言葉とその意味

 超介です。

 淋しい、辛い、という言葉を知っていても、それがどんな感情であるかは味わってみないとわかりません。そのように体験してみないとわからないことがたくさんあります。どちらかといえば、言葉が先行しがちな私にとってはよくよく注意しておきたい事柄です。知ってもいないのにわかっているように思いこみやすいのです。
 このことは、他人の立場に立ってみないとわからないということと同じです。さらに、考え方や見方で物事が違って感じられることもそれと近いと思います。そして、同じ人間が状況に応じて立場も考え方も変わります。
 以上のことを踏まえれば、人とコミュニケーションをとるときの自分の姿勢が落ち着いてくるように感じるのです。
 先日、突然に父が亡くなりました。ほんの数時間前に、母と父、そして私で外食をしていました。亡くなることは全く頭にありませんでした。私は、父がお世話になっている医院の先生から、そのように逝ってしまう可能性があることについて、何度も警告をいただいていました。
 私と父との関係は、18歳で両親から遠く離れて生活を始め、その後40年間をその地で過ごし、父の晩年の2年間と2か月再び同居しました。最後はあまりにもあっけない別れでした。
 この別れに思いをはせるとき、呆然としてしまいます。まだうまく整理がついていないのだと思います。私の家は曹洞宗の檀家です。法要の時を過ごすうちに、落ち着かせていきたいと思います。それが服喪だと。

上達のストラテジー(その2)

 超介です。

 コップの中に水を入れると、いつかは水があふれるように、目標に向かって毎日ふさわしい行動をとり続けると伸長があります。成長曲線上で、プラトーな、つまり時間とともに効果が上がらない部分が、ある時を超えると突然に立ち上がるのは、十分な水がコップにたまったからです。物事を始めて、途中で嫌になるときにはこのことを考えてみて、また再開します。このことは大変重要で、これを知っていると上達が進みます。あきらめない、効果が上がるまでやめないということです。

 上記のように学びが進まない人もいます。その人たちは、そもそもコップに水が入っていないかもしれないし、コップに穴が開いている場合もあります。が、それらの対処方法はわかりやすいのですが、さらにさかのぼって根本を探してみると、そもそもコップに水を入れることを本人が希望していない場合、これは根本的な問題です。塾のような子供たち対象の学びの場では、これは大変多い事例です。この場合も、本人は学びたいという意識が全くない場合は少なくて、それがどの程度継続できるかによる違いだけです。

 これは人により状況が違っていて、この時こそコーチング的な対応が有効になります。継続してコーチングしていて本人が自分の内側を見つめたり、未来の自分を想像、創造したりできるようになれば道が開けてきます。そして、このコーチングが有効に働く場合とそうでない場合の違いは、ある種の集中ができるかどうかによります。その違いは、マシュマロテストにおける我慢ができたことそうでない子の違いのように思えるのです。この内側の欲求をコントロールするようになることはとても大切なのです。

大きな魚が泳いでいる

超介です。

 未体験の、未知の世界を知った時、期待感が持てるか、それとも恐怖が先に立つか、どちらか。後者は未体験の世界を避けて、既知体験の世界にとどまろうとします。しかしながら、人が成長する時、いつまでも既知の世界にとどまることは許されないときが多いです。多くの人が体験する進学やら就職、転職、結婚等々に向かい合うときはまさにその時です。この2者の差は、したがってその後の人生に大きな影響を与えます。人の無意識の中には生物としての生存本能やら、プラス、マイナスの感情のもとになる原体験が潜んでいて人生の局面で意識をコントロールしようとします。しかしながら、意識と無意識の境目が緩やかになり、自分の心の中に潜んでいるものに光が当たると、気づきが起こり一歩前に進むことができます。コーチングはそのようなときに有効になります。
 10代のころは夢が持てる世界を探してそこに進んでいこうとしていました。60代になった今は夢との出会いを求めて探す生き方から少し変化して、夢は自分で如何様にも作り上げることができるので、そのことを軸にするようになりました。そしてそのようにしておれば、大きな魚が近くを泳いでいることに気が付くようになりました。

早起きは値千金

 超介です。

 塾を始めてから、やりたいことが増えてきました。でも身体は一つ、この増えたことをこなすためには工夫が必要です。これは、塾生たちにも有効なアドバイスをすることにつながるので、そのためにも、どう工夫すれば良いかはいつも試行錯誤しています。
 対応すべきは健康の増進、自分の活動量(学習やら塾の仕事)を増やすこと、活動の幅を増やす(自治会の仕事の増加に対応する)こと、この3点です。
 健康上の理由は、医師より降圧剤の服薬のアドバイスがあり、改めて体質改善する選択をしたこと。体質改善は、昨年から様々に試み、一定の効果はあるのですが数字(体重を減らして高血圧から健康血圧に戻す)が出せていません。
 活動量についての課題は絶対量の増加です。毎日もう少しやりたいことがあるのですが、自分で決めたノルマをこなすのが精いっぱい。何かを始めても数日で、ダウンして放棄せざるを得ない。習慣化したり、やり方を工夫したり、順序を変えたり、進化はしてきていますが、限界になってきました。
 仕事の幅は、自治会での新たな役割の遂行。これが増え他のやりたいことを圧迫、時間を食われつつありました。
 これらの現状に対処するために、本やらネットを調べ、検討し柱を一本立てることにしました。それは単純です。『早起き』です。早起きをして、自治会の仕事をやるついでに運動をして、という風につなげてそして、直後に塾の仕事の一つを済ませるという風に、一日の活動を再編成しました。それまでは、朝は8時起床でしたが、1.5時間早めて6時30分起床にしました。すると、余裕ができはじめました。早起きは3文の得、ではなくて値千金。

上達のストラテジー

 超介です。

 クラッシクギターの練習時間は毎日1時間(30分×2)程度です。ほぼ毎日弾いています。最初は比較的スムースに弾けていたのですが、そんなに日々上達し続けるということはありえません。音階や和音を弾いたりする基礎練習と簡単な練習曲を2,3曲弾くぐらいです。つっかえたり、間違えたり、雑音が混じっていやになることもあります。同じ曲のそれを2〜3週間、時には4週間ぐらい毎日練習します。スムースではないですが、かろうじて練習曲が最後まで間違えつつも、たどり着けるようになれば次にすすみます。

 毎日少しずつ一定の練習を繰り返していると、時々うまく弾けるようになっていることに気が付くことがあります。そのような瞬間をめざして練習します。ここまでの合計練習時間は4ヶ月でざっと見積もって100〜110時間程度(毎日記録をしています)。今使っている教則本の初級編の6割が終わったところなので、後4ヶ月ほどで初級編をいったん終了。でも完全に弾けるレベルではないので、再度初級をやり直し、ある程度満足できるようになれば次に進めます。それには今のペースで進めればあと8ヶ月。次は様々なテクニックの基礎を学ぶ中級編に入ります。タンゴで使うテクニック、トレモロ奏法やらの基礎練習に入ります。そこを2年ほど終了して中級の曲に挑戦します。

 ある事を継続して4ヶ月ほども続けていると、その間に何ができたかのデーターが体験できるので次の見通しが立ちます。今はネット上に様々な情報があふれているので、そこからもヒントを得て、練習に取り入れます。なかなかやりがいがあって、楽しい経験です。

 そして、これは多くのことに通じる内容なのです。

習慣が生み出すもの

超介です

 英語の短文を暗記するトレーニングを7か月間ほど続けています。現在は、朝、目覚めた直後、ベッドの中で合計1700文ほどの中から、1日に150文〜170文程度ずつ40分ほどかけて口頭英作文の練習をします。始めた当初は1時間に100文やっていました。繰り返しているとだんだん慣れてきてスピードが上がってきます。トレーニング内容も簡単な構文から、修飾句、節等も含む文をも含めて増やしています。そのように複雑になった文では主語と述語そして英文に直すときの文型をさっと考えます。それを瞬間に考えて英語に置き換えます。これも簡単な構文を練習し、体得していくと自分の想定以上にできるようになります。

 このトレーニングを続けていくと、日常で出くわす日本文を同様に英語に言い換えたくなるのです。よくやたら英語に置き換える人が時々いますが、その心理が少し理解できます。次の段階は、短文ではなくて文の集合である文章を英語に置き換えるトレーニングです。それを始めることが楽しみになっています。やっていけそうな気がするのです。

 1冊の本を150回ほど繰り返して音読すると、そこらあたりに目につく英文を音読したくなりました。英語の勉強はスポーツと似ています。身体記憶、手続き記憶と呼ばれる要素が大きいので、そのようなことが起こりやすいのだと思います。

 少しずつスキルが向上するとともに、モチベーションが高まります。

これはすべてのことに通じる内容です。

情熱を持つこと(『心の発火点』)

 超介です。

 情熱を持つこととは、それが人であれ、物事であれそれに向かう愛と考えれば、愛するとは動詞なので、その対象が人であれ、物事であれ自ら繰り出す行動如何になります。対象に向かって自らがどのように能動的に行動するか、次第であると。つまり情熱が枯渇する状態はそのような行動が繰り出せない状況なのです。

 したがって、本人の自由な意志の発動がなくて、コントロールされた状態では情熱は生まれにくいことが分かります。私の生活している地方においても、人口減少、少子高齢化等々の変動にさらされていて、従来の枠組みでは不都合が生じ、うまくいかないことがたくさん表れています。そして、そのような事柄は一地方にとどまらず日本全体で起こっていることだと思います。

 仕事の種類にしても人工知能の進化に伴い、単純な作業から人が解放され、人にしかできない範疇の仕事は残りますが、そうでない仕事は機械に置き換えられていきます。この人にしかできない仕事の大本は情熱、つまり物事により組む姿勢が能動的かどうか、この割合が大変大きいと思います。

 一つの仕事、学びをするにしても、自らの意志でやるのか、強制されてやらされるのかの差は大きいと思うのです。結果は同じでも、それが意識されているかどうかは継続していけば大きな差となっていきます。この意識を「心の発火点」として大切にしたいと思っています。