苦手なことに取り組む方法

超介です。
  勉強でも仕事でもそうですが、苦手なことでもやらねばならないことに出くわします。締め切りあるいは期限ぎりぎりまで、手を付けることができず、逃げていて直前で何とかやりすます。
そのような経験を沢山しやっと引き出したのが、すぐに着手すること。たとえば、作文だったらテーマと名前と一行だけ書くこと。あるいは問題だったら一問だけとくこと。動き出せば継続するのにはエネルギーは、そんなには使わなくて済みます。だから、すぐ手を付けて置くことです。
すぐ着手するのは良い方法ですが、それだけでは済まない時もあります。資格試験とか、入学試験のように準備の範囲が広く、そのレベルも高いような場合です。数ヶ月、あるいは何年も時間がかかるような場合はどうするか。
このような場合は戦略が必要です。必要な準備は何ができるようになれば良いのかを明確にすること、そして継続性の確保です。その次にやるべきことを分解して小さな単位に落とし込むこと。つまり毎日行うべき作業を決めること。
この毎日行うべきことは、内容・量ともにいやにならない程度に決めること。これぐらいならできる、というようにすること。
日々の作業が決まれば、継続性が確保できるように仕組みをつくること。いつするか、どこでするか、できたらどうするかを考えて継続性を確保します。
このようにして、苦手なことに取り組んできました。すると実践していくうちに、苦手なことが何でもないことに変わり、ちょっと楽しみなって、さらに得意なことに代わることもあります。

本を読むこと

超介です。

書棚を置くスペースが十分確保できたので、これまでに読んできた本も、読んでいない本も書棚に並べられます。これからは購入しても当分は処分したり、見えないところに保管する必要がなくなりました。幸せな気分です。

いろいろんジャンルの本を読んできたな、という思いがあります。同時に、手にとってページを繰ると、当時は感じたり、理解していなかったことがたくさん出てきて、なんだ、読めていなかったじゃないか、など思うのです。

サーと一通りに読んだ本が多いのですが、背表紙を見るとその内容の残骸が浮かび上がります。読書していた当時は、その時の問題意識があったからその本を読んだのですが、その後関係する範疇の体験が増えたので、新たなことが見えてくるのだと思えます。過去が新しい意味を帯びて蘇ってきて、ついつい読み耽ります。

現在自分が取り組んでいる事項についても、本にあたって振り返りをすると、うまく進んでいない事項の答えを見つけたりします。一冊の本だけでなく、様々な本にあたると時に、どんぴしゃりの答えを得ます。こんな時は、本当に嬉しいのです。

命名

超介です。

石や植物、虫の名前を調べるのが好きです。その名前の由来が面白いからです。最近、近所の野で観察していて、スズメが冒頭にある「スズメノエンドウ」「スズメノテッポウ」「スズメノヤリ」を見ました。大きさやら、形からなずけられていて、納得させられます。

石やら植物、虫以上にとても興味深いし、もちろん比較にはなりませんが、とても大切なのは人の命名です。世に生まれてきた命に名をつける時に、その命にどのように生きて欲しいか、その祈りからくる行為だからです。私も二人の子が生まれてきた時、それぞれに想いを込めて命名しました。

その想い通りにその人が生きるかどうかは構わないのです。ただ想いを込めるという、その命名する行為が人が生きていく上で最も基本的な生き方に通じるから、とても大切なのです。心の中で、こうあって欲しい、あるいはこうありたいという願いを持つことができるのは誰もが有する、基本的な、そして自由で豊かな行為だからです。

命名はそれが最も端的に行われる行為です。

習慣つくり(その2)

超介です。

 外圧をつかって、例えばだれかに「勉強させられる」ことから習慣を作る道は、どこかで「自主的に学ぶ」に移行していかないと「抜け道」を探しがちになります。

 本来やりたいこととして求められていればその傾向は小さくなるし、ちょっと寄り道しても戻りやすくなるのです。

 宿題をする際、答えを写しその場をやり過ごす。英単語、漢字の練習を文字の練習的にやる、など「抜け道」はそこいらじゅうに見つけることができます。私も時に無意識にそれをやっていてはっと気が付くことがあります。

 いわれたことをただやる、という習慣だけが身についてしまうと思わぬ失敗を起こすことがあるのです。ただやると同時に、あるいは後からでも行動の意味を確認しておかないと思わぬ陥穽に落ち込むことがあります。

 学習面においてもよくおこることです。実力の伸長が努力と伴わないことの原因の一つになることがあります。

 そして、仕事をする社会人の中にもそのことから派生する不祥事を起こす人のなんと多いことか。社会で起こる事件には、その逃げ道(→いいわけ)がいっぱいあふれているように思えるのです。

習慣つくり (その1)

超介です。

 良い習慣つくりは幸せな人生を産みだすための一つの、しかし確実な方法であると思います。習慣が身につくとまさに人生が変わります。

 塾を運営する際に、塾生たちが良い習慣を身に着けることができるようにと願っています。この習慣つくりのためには2つのアプローチが考えられます。それは外圧を利用する方法と自らの力でそれを獲得する方法です。

 しかしながら、外圧を使う方法、例えば「勉強をさせる」にしても、それはどこかの段階で「自らの課題として取り組む」というようにシフトしていかないと習慣化はできません。習慣化ができないまま、外圧を使って課題に取り組んでいるとき、その効果は限定的です。

 どちらの方法でも結果として習慣化ができればよいのですが、それは個人により、さらに何を習慣化するかにより異なってきます。

 私は、塾生たちがどこかで自分の課題として学習やら受験に取り組み、その時に塾の場を外圧的に意識して使ってもらえるように心がけています。コーチングはそのためにとても有効です。そのように取り組めるようになった塾生たちは確実に実力を蓄えていきます。彼らの行動、態度を見ているとそのさまがよくわかります。

過剰は習慣作りに禁物

超介です。

「人生の良い習慣作り」が学習活動を通じてできれば素敵だなぁ〜と思います。もちろん其れは結果として、必ず成績の向上につながります。習慣が人柄を作り、その人柄の上にすべてのものが乗ってくるからです。塾での学習と学校・家庭での学習を通じてそれをコーチングしています。

「やる気」になってしばらくは、学習を続けるけれども、長期に亘って、となると結構むずかしい。テスト前はできるけれど、テストが終了すればできない。それらの原因の一つに、量や質の過剰があります。短期間、短時間の大量の内容の詰め込みの効果は一時的です。

簡単に、短い時間で可能な作業、学習から入って、それを続けることに充実感やら楽しさが発見できると習慣化への道がぐいっと進むのです。だから一日には、ある一定以上の学習をしないようにします。自分で決めたノルマを達成すればそこで終えます。もちろんそのためには長い期間が必要です。

受験前、あるいはテスト前になってさあ、やろうとしても習慣が身についていないと苦労します。逆に習慣が身についていれば、テストも効果的に学べるチャンスです。

まず、低学年からは言葉に触れる機会(例えば読書)や考える機会(なぜ、と聴くだけで良いのです)から始めてほしいです。そして、小学生の高学年、中学生では自分で学ぶ習慣をつけてほしいです。高校生では自分で学ぶことが基礎的な技術として使えないと学習の上でも自立できません。

内容、結果について、周囲はもっと、もっとと期待を込めたくなりますが、そこに焦点をあてず、ノルマを達成した時の気持ちと、その時の姿勢を大切にします。その人の進化を期待し、そこでエネルギーを充填してほしいからです。そのあり方を心に刻んで欲しいのです。

学習の内容、量と質、それから方法、それら全部が向かうのは良い習慣作りです。

「の間」にあるもの 続々

超介です。

これまでも、これからもなすべきことや、その方向の選択を考えて生きていくのは変わらないと思う。少し成長したのは、その道の選び方だ。

昔は、「きっと、あるところを越えれば考えなくとも悩まなくともよい峠がある」と、一人合点して思い、そこと目標を重ねていたように思う。峠の上にある雲を目指していたわけだ。そして、そのような思いとは逆に、僕の前には次々と難題が現れてきた。その度にジタバタして焦ってきた。

そのうち、現れる課題はまともに向き合えば、想定ほどは悪い結末には至らないことに気が付き、僕は暗い夜道を照らす光を手に入れた。そのことは、今にして思えば、中年を超えて、家庭も仕事も変化し、必然枝分かれしていく道がそれまでとは比較にならぬ程大きくなって、学んだ事の一つだ。granted searchlight、 神が与えてくれた。

其れと同時に枝道では「決断を迫られる」から少しずつ「選択する」風に変わってきた。自由になったわけだ。でも気ままとは異なる。慎重に深く考えつつ、ひょいと決める。道を選べばしばらく猪突猛進。この道はスピードが出しやすい。かつて、敬愛する大人の人生の進め方に驚いた時期があった。彼らはこうしていたのかもしれない。

組織での仕事を辞めて、子供も自立し、家族とも別れて、還暦を超えてなお道は広がりつつある。ふるさとで始めた塾の仕事、丹波の自然との付き合い、小さな自治体での務め、まだ手つかずの自宅の農業、英語やら数学の学び、guitar、読書もある全部楽しみたい。

Guitar事始め その2

超介です。

 昨年の1月からクラッシクギターを手に入れて練習を始めました。ちょうど1年になります。およそ1〜2時間/日程度の練習時間ですが、たくさんの学びがありました。そのうちの一つです。

 音楽やら、芸術に触れている人にとっては当たり前のことでしょうが、私にとっては驚きでした。それは、よく考えれば当然のことですが、曲は演奏者の考え、解釈があって、それにより演奏されていること。その自由さです。

 譜面があれば曲は一つに決まる、考えていました。だから演奏には正しい解があって、それを求めて練習し、それは一つであると考えていたのです。譜面は一つでも、解釈は何通りもあって、したがって同じ譜面でも演じられる様は多様であることに感じ入ったのです。

 こんな当たり前のことが、やっとわかったのです。そして同時に音楽の奥深さ、自由さに感動をしたのです。私は独学で学んでいるので、譜面をみて音を拾いながら読み、左右の手の運指を確かめながら練習するのです。数分で弾けるような短い曲ばかりですが、何とか指の運びが理解できるのに3,4日はかかります。そして、途中でミスを何度もくり返しながら、かろうじて弾けるようになるのが、2,3週間。そこからミスが1,2回で済むようになるのがさらに2,3週間。一日に一曲を5回繰り返すので、ざっと200回くらい。

 そこまでくると今度は音の出し方、強弱等を考える余裕ができてきます。そこからがまだまだ先があるのです。こんな世界であったのか、と驚き入っている次第です。

「の間」の事 その2

超介です。

クライアントが問題解決に気持ちも、頭も向かっていて、それをコーチが感じている時はコーチングはスムーズに進みますが、そうでない時が結構あって悩みます。でもそれは、コーチの方になんらかの「強制」の意図が背景に潜んでいる時なのです。つまり、クライアントをそのまま承認できていないからです。「そんな状態ではいけないので、なんとかしてやろう」とコーチがどこかで考えていて、そこに立ってクライアントと対峙しているからです。

私の場合は塾で塾生と向かい合う時にそれがよく起こります。そして、その度に自分の立ち位置を確かめます。この人の今を認めて許し、そこからコーチとしての言葉を出すのです。「そうか君は……なんだね〜。」「うん…そうなんだ。」何回も、相手をありのままにみます。

時には、それからクライアントが自動的に動き出し次の一歩を踏み出します。そしてその時は、それを確認します。それを繰り返します。それを繰り返していくことでコーチングが進みます。

でもそう出来ないときもあります。何をすれば良いか、何をすることが可能なのかを悩みます。そして、見つけた事柄を試します。具体的なマニュアルはありません。私の場合は、コーチングに方法も、答えも一つではありません。そして、やりがいがあるのです。

の間の事

超介です。

コーチ自身が何かができること、と、それを相手に、その方法を伝えうること(相手に-伝えることができ,相手がそれができるようになること)「の間」には大きなギャップがあって、歯がゆい思いをよくします。

それには、クライアント側が「ここ迄はできるようになった、ここからはできない」ということが理解できていれば、コーチ側からすればあとは時間の問題で解決出来ます。「何があれば、それができるでしょう」というような方向でクライアントに問い続ければ良いからです。クライアントと試行錯誤して、問い続けていければゴールが見えてきます。

ですから、クライアント側に到達点が設定できてそれを目指せるか、とそれに対して今どこまできているかと、考えてもらえるかがポイントになります。そのためには、クライアントの気持ちがリラックスしていることが必要なので、安心して考えてもらえるように環境を整えたり、言葉がけをします。

クライアントがそのポイントに来ることができれば、人の持っている可能性は私が想像する以上に、大きく、子供達の変化にも(もちろん成人のばあいでも)驚かされ、そして感動させられます。

なのでコーチングでよく私が悩み、重点を置くのは、いかにクライアントとそのポイントを共有できるかなのです。