2009年2月5日全天自己開示

超介です。

朝、川べりをウォーキングしていて、空を見上げると、今日の空は全天、宇宙に向かって自己開示だった。(つまり雲ひとつない快晴)

大変気持ちがよい朝。宇宙から見れば地球の地形が、海も陸もくっきり鮮やかに見えているに違いない。

全部見せるのは気持ちがよいし、のびのびできる。(今日は地球も気持ちがよいに違いない。)

投稿するようになって、自分の感じたことやら、考えたことなど、悩みなど開示するようになった。
(もちろん秘中の秘は出していませんよ。ふふふ・・・。)

書く度に、こんなことを考えていたのか、と、自分の幼稚さに気づくことが多い。それでも表現する。心の中では自分に自信があるときでも言語化してみれば、妄想であることも多い、だからこそ書いてみる。表現してみる。

そのままを書く、その度に自分の窓がぐーと開く、レスポンスをもらうたびにまたぐーと広がる。だから正直にあらわす、なるべくありのままにあらわす、少々やばいと感じてもそのまま出してみる。

皆さんも「全天自己開示」しましょう。
(文章だけでなく、写真も出したいな。)

たのしいよ!!

私を動かす(?)もの

超介です。

大学は物理学を学ぶことを選んだ。結局まったく関係のない、違った道を歩んできているが、でも勉強してきてよかったと思える体験はたくさんある。

そのうちの一つ、教養学部(僕らの時代はどこの大学でもあったのです。)時代に物理のF教授の授業での一場面。

力学の授業で地球の回転に伴う「コリオリの力」というのを習った。この力は北半球では運動する物体に進行方向右向きの力が働く、それゆえ台風は地上付近で左回りの風の渦をつくる、進路もその方向に力を受ける、など習った。

そのときF教授は「私は思うんですが、風呂の栓を抜いたときの渦のでき方、あれもこの力が影響している可能性があると思うんですがね・・・」と話してくれた。(結局それは様々な条件が栓を抜くときに寄与するのでそう単純にはいえない、というように落ち着いたが)

その話を思い出して僕はゴルゴ13(超A級スナイパー)を読むとき、彼はこの力の影響も計算して北半球では若干銃を左に向けて狙撃するのか、など「あほう」なことを考えた事もある。

ゴルゴ13はともかく、私がそのF教授の話を覚えているのは(もう33年ほど前の話です)、大きな原理が私達の日常に影響を及ぼす、そのように物事を見つめると、思いがけない発見がある、その期待感からだと思う。

それからの発想。僕は丁度1955年生まれですが、高度経済成長を日本がはじめた年です。そして高度経済成長とともに幼年期、小中高とすごしてきました。

物心ついてから家の中には冷蔵庫、洗濯機、掃除機、テレビ、・・・と、徐々に電化製品がふえ、自動車も軽自動車が中型車にと、成長するのが当たり前の感覚、価値観にとらわれてきた。

で、今は、ここ15年ほどは、違う。バブルがはじけて低成長、不況が当たり前の時代になっている。

僕の心の中で、時折、もぞもぞ動く不快感は、集団主義的な価値観から、個人主義的な価値観の時代になって社会はそうなってきているのに(もう半世紀もいきてきた!!)、僕の中ではいまだ、それが意識してセットされていない、それを表しているのでは・・・、と妄想するのです。

風呂の渦と同じで、色々な条件が僕を取り巻いているのですが・・・、やはり誇大妄想かなぁ?

セルフコーチング2

超介です。
  
「あなたの心を強くするには何があればよいですか?」

この質問を発するウラには、私は心が弱い という認識がある。それはなぜか?ジェットコースターにすぐ乗ってしまうのはなぜか?(ジェットコースターについては1月 23日の日記 情緒人間 を見てください。)

原点がないからである。原点とは何か?私の価値観の原点である。何を中心にすえているか?中心に座っている私を見つけることができるかどうか?・・・・・・・

そんなことを考えていました。それは無人島で生活するロビンソンクルーソー(だったかな)みたいに
孤立した人の心を仮定したかのようでした。このことに気づいたのは投稿に対するコメントからです。(コメントいただいた皆さん、ありがとうございます。気づくことができました。)

孤立するのではなく、私と周囲の人たちの関係がどうであるか、これが大切なのですね。それをどのようにできるかが重要ですね。「作りたい人と作りたい関係が作れる」(足袋師 だったですよね。)に注力すること。強くなるポイントだと思いました。

それでさらに気づいたことは「一緒に居れるかどうか」、(足袋師の日記、おしょうさんの日記で感じました)これが強さがあるかどうかの表れかということ。私も小さな子ども相手に仕事をすることがあります。これがなかなか手ごわい。私のリクエストなどすぐけられてしまいます。

(私)「○○君、九九をやろうか?」
(彼)「いや!」(強い拒絶のニュアンスで)
(私)「じゃあ、△△は ?」
(彼)「いや!」
・・・・
・・・・
((私)「とほほ・・・」)(という具合です。)

こんなやり取り。彼(彼女)・・小学1年・4年生が多いのですが・・・の攻撃を激しく受けます。
(このあたりは幼稚園の先生とかはうまいのだろうな?)

こういうときにはリクエストをたくさん準備しておいて選択してもらいます。これで何とか進めます。子どもと一緒に居るのはなかなか大変!!

セルフコーチング

超介です。

    「あなたにとって人生の幸せとは何ですか?」

とメモ用紙に書いてじっと眺める。

人生の目的を考えるとき、不謹慎かもしれないが自分の葬式に愛する人たち、知人にどんな風に自分のことを語って欲しいかを想像する、というのがある。(「7つの習慣」に書いてあった ように思う)

“「超介」さんて、本当に真摯に人生に向かい合って生きた人でしたよね。”
“そうだったよね、誠実だったよね。”

僕は、このような会話が交わされるのなら、これ以上の幸せはない。焼かれて骨になり、石が建つ。どんな人でもそれは同じ、そうであるならばこの様に偲ばれることを期待する。

過去を振り返り、心の底から羅針盤を取り出し、ガラス面をぬぐいながら幸せに感じたことを思い出し、そのときの向きに北をあわせる。その針先の向こうに、上記の会話はありえるか?

踏み出さないと幸せはつかめない。しかしながら変化は恐怖だ。この恐怖に打ち勝って進むために?

毎朝、30分ほど歩くという新しい習慣を身に付けるために、単なるベルでは動けなかった、「人生の目覚しベル」(これも「7つの習慣」に)が必要であった。

2007年9月16日にある農作業をしていて体力の低下を感じ、「人生の目覚ましベル」がなり始め、2007年10月14日からその行動をはじめ、ほぼ毎朝継続している。計算してみるとその合計距離は3.5km×(365+90)≒1600kmになる。足が少し太くなって、階段を上がるとき、息切れもしなくなった。

身体を鍛える、心も体も頭も。頭と体を鍛えるのは比較的簡単だ。でも心を鍛えるのは・・・。心はどうすれば・・・・。次の質問。

「あなたの心は何があれば強くなるのですか?」

答え求む!!

羅針盤をカチンと合わせる

超介です。

感動して、胸を打ち震わせているときが充実感を感じるとき。そのような自分であるときを大切にする。

自分の価値観を示すその心の針に羅針盤の北をカチンとあわせるのだ。これで、もう迷わない。

僕は、人生の充実感を得るためには遠い目標を決めてそれに向かうことが必要であると思っていた。それで進んできて、いつの間にか、義務感やら責任感等を背負って生きているようになった。そう思う。

そして迷って、疲れてしまう。エネルギーが生まれてこない生き方になったようだ。

だから、これからは、もっと生身の自分が感じていることを大切にしようとおもう。

たとえば、季節毎に咲く花に感動する自分がいる、その自分の感性を大切にするのだ。これを掘り下げていく。そうすると磨かれてくるものが出てくるはずだ。そこにカチンと羅針盤の北をあわせる。

これでもう迷わない、疲れない。

子どもが変わる。ある日突然に子どもが熱中して学び始める。学ぶことに集中し始める。何が変わったか?子どもの中で何が変わったのか?そのことに充実感を覚え始めたに違いない。

充実感を支えているのが価値観である。僕が大切にするもの、しないといけないもの。充実感はそれをほのめかしてくれている。そこを掘り返せば価値観の座標軸が現れてくる。その軸のプラス方向に羅針盤の北をカチンと合わせる。

さらに、クライアントと共に彼(彼女)の中の「大切なこと=価値観」を掘り起こし、生きるエネルギーを強化できるコーチでありたいと思っている。

きついですな!!

超介です。

2年ほどまえからロジカルシンキングの本を何冊か読んで勉強しているつもりですが、なかなか身につきません。読んでいて眠くなったり、一応理解はできても、実践で使えそうになかったり、学習効果が実感できていませんでした。

でも数日前に少し開眼しました。(やったぜ!)ほんのちょっとしたことですが、それは,つぎのフレーズです。

「So what?」です。つまり、(それで なに?) という意味です。これを繰り返すのです。

日々の生活の中で、様々な事象に出くわして、ついつい感情や概念にとらわれてこもってしまう、
そんなときに自分をつつきまわすフレーズ「So what?」、それでなに? あんたはどうするの?です。

 感情やら概念にまみれ、「サングラスをかけたタカシ君」になってしまっているとき、「So what?」と問いかける。きついですけど、あんた次になにするの?と次をうながす。

十分、感情を味わい尽くしたあとで、「So what?」 それでなに?ときく。

「So what?」→「むにゃむにゃ・・」→「So what?」→「あのね、そのね・・・」→「So what?」
と繰り返して、結論を追いかける。

ロジカルシンキングというものはなかなか手厳しいですな。ほんの少しわかりました。それで、コーチングにとりいれていきます。詰問にならぬよう、「So what?」。

裸の王様

超介です。

 雑談をしているときに、その相手から少しショックな指摘を受けた。

 「話しかけにくいときがあります」そういわれて、自分にその自覚がないときのほうが多いようにおもったので、もう少し聞いてみると、「私には関係ない!」というような表現(キレているようにみえる)をとっているらしい。裸の王様の心境。

もう20年以上前のこと。ある人に「相手(生徒)理解」という言葉を教えてもらった。簡単な言葉だが、その意味を実感理解できた。

勉強ができなかったり、素行が悪かったりする中学生をお預かりして悪戦苦闘しているとき、悩みをきいてもらっていた業界の先輩からである。生徒指導の大ベテランだった。

「相手のことを一つ理解して、それまで、と終えるとダメだよ、どんどん人は変わるし、見えない部分もあるので、踏み込んで、踏み込んでわかろうとしていくんだよ。相手の一つの言動だけで相手を、決めつけてはいけない、どのような意味を含んだ言動であるのか常に理解しようと心がけなさい。」

そのような意味だった。相手への理解が深まるにつれて、関係がしっかりしてくること、そのような効果があることが意識できるようになった。理解が深まるにつれて信頼関係が強化される。

それは相手が子どもでも大人でもおなじこと。

そうであるのに「話かけにくいときがあります」といわれる人では、信頼の関係は強化されないし、エネルギーも生まれない。

なにか元気が出ないな、自身のエネルギーが低調であるな・・・・と感じていたら、その原因は自分自身・・・・? うう・・・。

「あなた以外にあなたを傷つけられる人は誰もいません」

超介です。

正月休みに、近所の書店で「偉大なる選択」(スティーブン・R・コビィー:「7つの習慣」の著者)という本を見つけ購入しました。リーダーズダイジェストに記載された数々のストーリーやら名言が選ばれて7つの主要なテーマ毎にまとめられています。

その中の話、インドのマハトマ・ガンジーがある女性に与えた言葉。

「あなた以外にあなたを傷つけられる人は誰もいま せん」

読書習慣があると、気づくことですが、そのとき抱えている問題への解決の糸口につながる言葉やら、文章によく出くわします。きっと(人は自分の中に答えを持っている、し人は育とうとする生き物 だから)無意識裡に本を選択しているのでしょう。この言葉が私の心の釣り針にかかってきたのも、その一つ、たぶん。

些細なことが引き金になり、マイナスの感情にまみれ、そして自動的に被害者意識を派生させてしまう。さらには、その被害者意識から、敵意、憎悪を周囲に対していだいてしまう。本当は他の反応も選択できるはずであるのに、そのように自動的に受身の反応をしてしまう。

マイナスの感情を持つことはあってもおかしくない、事情によってはもって当然、持たないとおかしいこともあると思います。問題はその次、それをどう捉えるか。流されていくのか、それとも踏みとどまり強い人としての反応を選択するのか、その精神の分水嶺に立とうとする時に勇気をつけてくれる言葉。

寛大というテーマの中に収められた文章にあるこの言葉をここ数日、反芻しています。

存在承認の希求

超介です。

今日は皆さんに愚痴を聞いて(読んで)もらいたいです。でも具体的にはかけないのですが・・・。

仕事が進まず、周りの協力も得られなくて「どうして私ばかり、こんな目にあうんだ」など、被害者意識満杯で、あたりに鬱憤を撒き散らす、そんなときはありませんか?

私は1日の70%くらいそんな気分のときがあります。で、我慢して我慢しているので、よい知恵も浮かばず、やるべきこともやる気になれない。ほんといらいらして、誰かコーチングしてくれェィ、と。

ストレスがかかってくるのは当たり前、重々承知ではじめたことばかりなのに、いざ現実に向かい合うとたまらなく・・・。

そこいらじゅうで孤立している感じ、で誰も話しかけてくれない。これは絶対、存在承認の欲求の裏返しに違いない。攻撃的に発散的にストレスをだせればよいのですが、それが出せないのでこもってしまう。困ったチャンになってしまう。

優しい言葉、一言で解決するかもしれない・・・。赤ちゃんでも、ばあ とすればにっこり笑うくらい人は生まれつき、認めてほしい生き物なんだよう。うう・・・。

でも、いまさら認めてほしいなど、誰にもいえないし、期待もできないので、やはり被害者意識は捨てて、主体的に動いてやっていくんだ。(ほんと、こんなとき困った事態が起きて、助っ人で動けば自分の悩みはすっきりして客観的になるときもあるよネ・・)

 酒を飲む人もいる、遊びにいく人もいる、色々ですが、なるべく生産的にいきたい。このブログにかいてぽいと捨てて、主体的にやる。被害者意識は捨てる。ぽい、ぽい、ぽい、・・・。

 新年早々、つまらないこと書いてすいません。教育コーチ日記にふさわしくないかも・・・

私の2009年を考える

超介です。

 皆様
明けましておめでとうございます。

2008年4月実施の検定時に課題として 場を信じ、場から行動やら言葉が引き出される感覚を身に付ける をいただきました。そのことを意識した2008年でした。場を信じる、その始まりはそこに居る人を信じる。さらにそのためには、自らの可能性を信じる、そうであろうと思いました。

おかげさまで、資格習得の研修、自分で始めたいくつかの習慣、職場での実践を通じて従前より、自分の可能性を信じることができてきたように思い、そのこととあいまって一緒に居るという感覚が少しずつ身についてきたように思えます。でもまだ 場を信じる までは・・・。

一緒に居るということ、クライアントの人生のドラマに向き合う、よどんだり、激流があったりするその中で ぶれずに一緒に居る、ということは結構精神的エネルギーが必要であると感じました。マイナスオーラだしまくり時も、ありのままに受け止めて返す、このありのままに返すことでクライアントが変容することがあることも実感しました。

子どもと一緒に居るのが難しいことを体験しました。その子の人生で心中に派生する、様々なまだ名前のないマイナスの感情、君が感じているそれ(これをクオリアというのかしら)が「つらい」ということ、「我慢しないといけない」ことなんだ、そう理解してもらうことは、誕生の際にかけられる祝福の言葉と同等に重要です。そのうちに彼は「つらい」「我慢する」そういった言葉を見つけたかのごとく、劇的に変わる、そのような場面もありました。

めぐり合わせでしょうか、私の職場での09年度の役割は 場を信じる ことの上に成立させるべきチームビルディング、これが鍵をにぎりそうです。一人ではできないけれど、チームであればできる、組織であればこそできる、この実感を体験できる年にしたいと思います。