「あなたの中に答えは必ずある」と信じています。

超介です。

ちょっと宣伝文的に今年やりたいことを書きます。

「昨年春、あらたに自立学習のコースをスタートさせました。この1年間で「答え」を見つけた子ども達が何名もできました。教室内でうろうろしていた小学生が自発的に発問し、机に向かって集中して学ぶことを始めました。数ヶ月で、定期テストの得点を100点以上アップした中学生もいます。もちろん志望校合格を果たした中3生もいます。

彼らはなぜ、「強制されずに」、「自ら学んで」がらりと変わっていくのでしょうか?それはそのことに充実感を覚え始めたからに違いないのです。その奥に「自から学ぶこと」への楽しみが潜んでいます。

その楽しみは、学内順位をアップさせること、高校合格、にとどまらず、そのように自己を磨くことの感動に直結していると思います。

これは 生きる力を強くすること そのものです。

 そのためにこそ、このコースをスタートさせました。今年はこの考えをより広げていきます。保護者対象のコーチングのセミナーも実施します。

このコース「mine(マイン)」は子どもの中の鉱脈(答え)を発掘する場所です。潜在意識の奥深く、それは眠っているかもしれません。しかし、どんな人にもあることを私たちは知っています。」

健康と不健康

超介です。

前回、学習することが困難な人ほど勉強になる、ということを書きました。

似た意味で(不謹慎かもしれませんが)少しは持病のある人のほうが健康に気をつけるので、健康的である、という人がいます。(高血圧で、肌に持病もある私としてはこういうことを聞くと少し安心。いや、安心すればもうそこで、不健康?)

落ち着いた環境で、安心して生きていくのが幸せだと考えて、無意識に争いの少ない関係を求めたり、
関係を拒絶したりする。

でも、身体の健康と同様、心の健康もそういった環境で生きていくことから生まれるものではなくて、激変の中でもしっかりと進んでいける状態をいうのだと思うようになりました。

前が見えなくても、ぶつかっても、倒れてもよい、起き上がって羅針盤をしらべ、進む向きを確認できる状態が健康的。そして再度、一歩を踏み出す。

そうそう、今日も2つほど失敗、労働意欲がぐーと低下しました。

(いやな気分から逃げずに、ちょっと無理して)これは(労働意欲の低下は)健康な証拠、と思い直し、じっと、自分の心を見直して、そこからはじめます。

すると、見えてきたのは、相手軸で考えていたはずであるが、いつのまにか、相手の気持ちではなくて
自分の気持ちよさを求めって突っ走っていた自分の姿。

(大義名分をかざして実は自己満足をひた走る私でした。ああ!!)

学習過程で得るもの

超介です。

言葉が示しているイメージがお互い違うときがあります。こういうときは、重ねる努力をすればコミュニケーションが成り立つのでしょう。

でも、相手と自分が一緒にいることができないと、それはできません。週1回乃至は2回程度、子ども達に学習してもらう仕事をしています。(他にもやっていますが、現場ではこれです。)どうにかして学習する力を身に付けてもらえるように工夫を凝らします。

うまくいかない場合は、子どもが学習することと向き合えないときですが、こういうとき、無理やり学習を提示するとゲームが始まります。だから、今この子は何を見ているのだろうと、想像し、理解しようとします。それがコーチの役割です。理解できれば次の行動がみえるので。

子どもが学習に対して「イヤ!」と拒否するとき、その「イヤ!」の中には色々意味があるように思うのです。「イヤ!」を一旦受け止めて、それから質問します。「何がしたいの?」とか「そう、それで今日はどうする?」そこからの反応は様々。心の扉にノックすべく試みますが、ことごとく拒否の場合もあるし、中には急に扉が開く場合もあります。

(このことは何回か書いたことでもあるのですが・・・。)理解すべく、悪戦苦闘しているうちに子どもとのドラマが始まり、時間が経過し終了となります。最後に、お話をします。「今日はどうやった?」等の質問で振り返りをするのです。そこで話ができればよし、できなくてもよし。

そういう情報を保護者とお話しします。幸い、そのような内容を前向きに受け止めていただく場合がほとんどなのでありがたいと思っています。会話を重ねていくと、保護者のほうからも、その子に関するお話をしてもらえるので、理解が進みます。

で、そうやって学習することが難しい子ほど、学習することが(子どもにも、私にも)勉強になると思うのです。なぜかというと、そのときの試行錯誤からわかることがあるからです。

クロガネモチの実

超介です。

近所にクロガネモチの木があります。クロガネモチは毎年9月頃赤い実をぎっしりつけます。近所のその木はもう2月下旬になるというのにまだ、ぎっしりと、9月頃の赤い実がそのままなっているのです。

同じ時期に赤い実を付けたピラカンサも南天も12月頃には風にあおられたり、鳥達についばまれてほとんど実がなかったのに、近所のそのクロガネモチはそのままなのです。

命を引き継いでいく旅に出ることができないでいる実です。

コトバもそうです。コトバの中にも旅に出ることのできるコトバ(中身があって、意味が満タンで、イメージが広がっていく、想いがある)は世の中でぱっと広がり、芽吹いて花が咲きます。

でも、その人にしかわからないコトバもあります。その人にしか意味がわからないコトバ。子どもはそんな言葉を持ちやすい存在です。

僕は、仕事柄そんな言葉によく出会います。

大人でもいます。その人独自の言い回し、あれはどこから来るのでしょうか?初めてその言葉を使ったときに何か、独特のことがあったに違いないと思うのですが。どのような場面で初めてそのコトバを彼(彼女)は使ったのでしょうか?

言葉について大学時に先輩に教えてもらったことがあります。内陸で狩猟採集生活をしていた人類が始めて海を見つけたときに沸き起こるものが言葉の始まりだ、と。象徴的な言い方ですが。

何人かの太古の人たちが青くどこまでも広がるそれをはじめて見て心の中に沸き起こるものが言葉の始まり。一つの事象を同時に見ている人々の胸に去来するものが言葉の始まり、そう教えてくれました。

そうであれば、彼(彼女)がどこを見ているのか、それを探すのが私(コーチ)の役割です。言葉が示しているものがどこにあるかを懸命に探していくのが「傾聴」という行為だと思います。一緒にクライアントのキャンバスに向かい合って探す作業。キャンパスに向かうのが「一緒にいる」という意味。

以上の内容は金曜日に書いたのですが、驚いたことに今日(日曜日)はクロガネモチの実はほとんどなくなっていて、樹の下にはつぶれた赤い実の残骸が散らばっていました。本当に私はどきりとしました。

これは何を意味するのでしょうか?

世界を変える人(その2)

超介です。

2月16日に「世界を変える人」という題で投稿して、その2日後の18日、帰宅途中、深夜の古本屋で一冊の本を見つけ、まさに「世界を変えた人」の話に出会います。私はこういうシンクロ(共振)現象に書店などでよくでくわします。

「人は成長したい存在」「人は答えを内包している存在」で無意識下に課題解決を求めているからでしょうか。本を読んでいても、自分の抱えている問題の答えに出くわすことが結構あります。みなさんはどうですか?

1989年初版の「木を植えた人」(ジャン・ジオノ著 こぐま社)という本です。(以前にも読んだことがありました。50ページほどの小さな本です。有名な本なので読まれた方もいらっしゃると思います。絵本にもありました。創作のようですが。)

ヨーロッパの荒れた野原、一人でこつこつと地面に穴を掘り、どんぐりの実を植え、その後林になり、森にそだち、小川が生き返り、ついには人々を住み始め、生態系を一変させた老人の話。彼が行ったのはどんぐりの実を植えるぐらいまで。

毎日拾ってきたどんぐりの実を水につけて洗って、傷がないものを100個選び翌日に備える。鉄の棒で地面に穴を開けて、どんぐりの実を毎日播種し続けます。数年たって身の丈ほどの林ができ、さらに数十年たって何ヘクタールもの森ができる。ほとんどの人が彼のことに気がつきません。

世の脚光を浴びることなく、質素な生活だけれども、心豊に夢を持って生き抜いた人。よみがえった美しいフランスの高原の森。ほとんどの人に知られないまま世を去ります、がおそらく充実した人生であったと、思ったのではないでしょうか。

私はこんなことを連想しました。

地球が誕生して46億年、そこから10億年たって生命が誕生し、さらに36億年たって人類が誕生しました。つまり人は、自然の先っちょ「空極に進化した自然」です。(これは養老孟司さんがどこかで書かれていました。)

生きて出合う人(空極に進化した自然)に、継続的に「ある種の働きかけ」をすること、持続する志を持ち、行為を継続することの期待感。出会う人に、或いは自分自身に、どのような関係つくりの種をまきましょうか、何が生まれてくるか、楽しみです。

あなたはどんな「どんぐりの実」を播種しますか?

世界を変える人

超介です。

なすべきことに真剣に取り組まずに、逃げたり、言い訳をしたり、気を紛らわせたりすることを「ゲームをする」といいます。そのように自分を操作するものをウィスパーといいます。(旧準上級、今は中級、で教えてもらいました。)

 子どもはゲームが大好きです。特に手に負えないことにぶつかったときによくゲームになります。ゲームのことをよくわかっていないとき、僕は一緒にゲームをしていました。

 でもいまは、そのことに気がついたので、相手がゲームを始めると巻き込まれたり、加熱しないように離れて、さまそうとしてみたり、質問をしたりします。ゲームから本来の課題に取り組むようにフォローするのです。(大人に対してもそうしたいと思っています。)

 その場に存在するだけでゲームをやめさせるパワーを持った人がいます。いわゆる空気を変えることができる人です。ある種の「雰囲気」を持っている人です。

 このような人のパワーはどこから来るのでしょうか?

 情報とは言葉ではなく、言葉にぶら下がっている内容物、さらに音にならない言葉(その人から来る印象とか)もあります。それらが空気を通して凛として伝わってきます。放射能みたいにそれを浴びると影響を受けてしまいます。

 このパワーは知識だけからでは出てこない、行動に結びついている知識(胆識?)までも備えていないといけないようです。よい意味で自分中心に物事を考えることができていて、そのことに完全にコミットしていて、責任を取りきる人、こういう人が世界を変えていく人だと思うのです。

こういう人の持っている色を「VSOP」(very superior old pale、深沈厚重)で捉えています。

青年警察官

超介です。

24歳の警察官と話す機会がありました。勤務先の派出署に農家の老人から無人野菜販売所の窃盗被害について相談があったそうです。野菜を盗んだり、料金箱から売上げを盗まれると。

彼は、考えた末、休日も返上し、先輩にも協力してもらい、1ヶ月ほど張り込み、犯行現場を見つけ、注意・指導したとのこと。しかし、同じ人物が再度繰り返したところを後日見つけ、今度は厳しい処分をしたそうです。

若き警察官はこの件でずいぶん悩んだそうです。相談に来た農家の老人の気持ちを考えると、何かしてあげたい、心をこめて作った野菜を安い値段(1個100円)で販売している農家の気持ち、でも無人販売というのはそもそもそういったリスクを背負ってやるべきこと、自己責任であるのではないか、税金を使ってそこまで対処すべきではないのでは、とか。また、注意しただけではとまらなかった、繰り返された行為についてとか。

彼は結局上記の様に行動した。そのことを話してくれて、「話せてよかった」といっていました。僕は聞けてよかったと思ったので、その通りのことを伝えました。「真剣に考えて、行動している若い人がいるのを知ることは勇気付けられる。そういう人がいることは、大変ありがたいことだと思う」などと。

「知行合一」という言葉があります。知っていることに行動が伴うことを重要視する、陽明学の言葉です。東アジアの国々で発達した学問は、勉強することの目的を自己の鍛錬、人物ができることにおくことを目的とする傾向にあります。学んでその人が変わらなければ学問したということにはならない。(コーチングの目指すところと同じ!!)

僕が勤務する学習塾もそのような意味を込めた理念からスタートし現在に至っています。その理念があったので、入社することができた、そう思っています。

「知行合一」・・・青年警察官の話からはその言葉を思いました。彼は考えた、先輩にも相談した、そして行動した。自分が置かれた状況を十分に考えて、そして現実を知って、そして・・・(so what?)・・・行動した。そのように真摯に自分の職務と向き合っている人がたくさんいます。

眼に付く風景

数年前にそれまで使っていた車が動かなくなって、黒のWISHを購入しました。それ以来、街を走っていてやたらWISHが眼に付くようになりました。

中学生の頃天文少年でした。望遠鏡の作成に関心がありました。それで、丸くて中が空洞のもの(望遠鏡の鏡筒に使えないかと)が眼に付きました。丸くて、軽そうな筒状のものがあると、たたいてみて質感を確かめてみたり、そういうことをよくしました。

子どもが生まれて親の気持ちがわかるようになった、そう強く感じたことがありました。兵士が戦場で負傷したぐったりしている子どもを抱き、じっとその子を眺めて立ち尽くしている写真、週刊誌に掲載されていたその写真を見て、目が離せなく、こみ上げてくるものがありました。子供が生まれるまでは見過ごしていた写真であったと思います。

人はそのときの関心にしたがって風景を見ます。そのときに眼に飛び込んでくるのは自分が選択したものです。自分の概念で事象を捉えます。もし概念がなければその物事は存在しないと同じ。(これは中級研修で習ったんですよね。事実と概念。)見るもの、聞くもの、味わうもの、感じるもの、・・・たぶん全部そうなのでしょうか。

ここまで書いてきたのは理由があります。それは、このごろ人の会話が気になってしまうのです。会話だけではなく、ある人に関わる人の、その関わり方が僕の神経を刺激します。(「そんな話かたはダメだろう!」「もっと、相手の話を聞いた上で話さないと・・」と心の中) 刺激されます。

批判的に人の言動を見てしまうようになっています。その度に不機嫌、不愉快になります。今はある程度我慢していますが、それだけでは・・・。(So what?の出番だ!)

なぜか?少しコミュ二ケーションについて知識が増えて、そのために意識がそこに集中しているんだと思っています。こういうふうに人はあることを身に付け、それまでずーとあったことを急に意識し始めて、行動を起こす、戦って周囲を変える、逃げる、我慢する、八つ当たりする、元に戻る・・・・・・・・・。

(So what ? それで、あんたはどうするの?)

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・・・・・・

色について

超介です。

 伊予の地では2月1,2,3日は椿祭(椿さん)という数万人の人出がある大祭がありました。ここを過ぎると寒さが揺るぎ始め、春が訪れるようです。

 まだ少し寒さは残っていますが、それでも空気の芯には冷たさではなく春の予兆の暖かさがあるようです。今日は2月8日(日)、松山市ではマラソンがありました。懸命に、真摯に走るランナーの勇姿は沿道で見ている人の胸を熱くします。

春の色といえば新緑と、桜色を思う人が多いかと思います。コーチングでも心境等を色で質問します。

「今の気持ちはどんな色?」とか、「色であらわすと何色に染まりたいですか?」とか。

最初、研修でそう聞かれたときに「そんなん、無意味やろ!」と一瞬思いました。心に色などついているはずがない、そう思ったのです。が、よく考えてみればそうでもないなぁ、と。赤とは激しい感情を表している感じやし、気持ちがいいのは透きとおる水色、薄い青とか、たしかにあるな、と。

それで今では「何色になっとる?」と聞いたりします。

色で思い出すのは、上司に教えてもらったもの。10年以上前、深夜の酒場のカウンターで紙ナプキンにボールペンで書いて教えてもらいました。very superior old paleつまりVSOP。very superior old pale、VSOPというのはこの略、と教えてもらい、お、これはかっこいい、と感じました。

なぜ好感をもったかはよくわかりません。それは宇宙の恒星の色で、深さ、遠さ、大きさにもつながるからかもしれません。夜空に輝く恒星は表面温度が上がるにつれて赤色から黄色くなり、白色に変わり、最後に青白く輝く。気が遠くなるほどの時間をかけて移りゆく、高温の星の色。

また、僕の中では、very superior old pale=「深沈厚重」。深く沈んで重厚で、どっしりと存在感を示す。何も言わないがそこにいるだけで空気が変わる。無言のコーチングができる人のイメージ。

これにつながります。

皆さん、どんな色の人になりたいですか?

情報を共有する

超介です。

話されるコトバ、書かれたコトバは単なる記号である。だけれども情報はその記号の下にたくさんの意味、内容、マインドやらなにやら(こういうのをコンテクストというらしい)をぶら下げている。つまり海に浮かぶ氷山で言えば海面上に出ているのがコトバ、それの何倍もの体積をもって海面下にあるのがコンテクストだ。

チームで仕事をする時、それが会社であれ、何であれ、このコトバの底にあるコンテクストを共有していればコミュ二ケーションがスムーズにすすむ。

コーチングに出会うまでは、そのことを意識していなかった。正しい考え方、進んだ考え方、適切な考え方(記号としてのコトバ)を示せば人は動くと考えてきたようにおもう。(ずいぶん冷たい奴だと、思われたこともあったに違いない。)

コトバのみで動いてくれる人、動ける人もいるが、でも大きな力、或いはえられる喜びは薄いのではないか?

人と一緒にいるためにはその氷山の一番下まで感じることが大切だ、とわかった。阿吽の呼吸で仕事ができるのはお互いにそのレベルまで情報が共有されているときである。

それで、僕は仕事のやり方をもっともっと情報を共有できるようにと変えている。プロセスから関係者と一緒に進むようにしたい。そうすれば情報の共有具合が高まり、成果も高まるし、得られるものが大きいと考えるからだ。(もちろん時と場合によるが。)

コーチングはみんなと「一緒にいる」ことの重要性を教えてくれた。「私達が・する」このフレーズの使い方の大切さを教えてくれた。(もちろん「私が・する」も大切であるが。)

それが広がり、多くの人と大切なコンテクストを共有できることができれば、もっともっと生活しやすい環境ができるに違いない。コーチングが広がっていくその原動力の一つはそこにあるに違いない。人と社会が進化していく道の一つに違いない。