壁にぶつかる(その後)

「教育コーチング」のセミナーを6月14日に開催予定している超介です。

3月下旬に投稿した「火事」跡には青々と草がはえ、焼け焦げ跡はほとんど見えないほどです。焼けなかったところはそのまま枯れ草で覆われていますが、焼けたあとのほうが若い草が大きく伸びていました。

小学3年生の男の子がわがままをいって、前週の約束をまもりません。約束をたがえたことを注意して守らせます。頑固に彼は拒否しますが、ここは負けてはならぬと、許しません。

頬をふくらませて不満をあらわし、うろうろします。で、うろうろはしましたが、彼はしぶしぶ、我慢して約束を守ります。「お、これで、一つクリアしたな」と。ここで関係を壊してしまうような行動を彼がくりだせば、私の負け。どきどきものでした。毎回、これはいけるかな、とぎりぎりの負荷をかけます。負けるときも結構あります。

大人でも、失敗した後、再スタートし、新たなよりよい位置に立つことができます。人に反省を求めるときには相手が了解できるところまで傾聴したり、時には激しく想いをぶつけたりして、立ち位置を確かめます。

相手が了解できるところまでいかず、こちらがあきらめ、途中で追いかけを放棄して「もういいや」と逃げ出してしまう。たとえば、上司にその癖がつくと、もう彼の部下は変われません。

でも、追いかけて、「ああ、あなたはそこに居るのか」とわかるとその場所に、的確な質問/傾聴/承認を繰り返すことができて、そして、前に進めるように思うのです。

忙しいと、ついつい間に合わせと妥協の関係に終始してしまいます。でも、いつまででもそれでは進化がありません。

どのような人間関係が作れるのかも、自分次第であると思い始めました。

壁にぶつかる

「教育コーチング」をつかい悪戦苦闘人生の超介です。

壁にぶつかることはよくある。

彼がぶつかっているのは勉強の壁だ。
壁にぶつかっても、倒れても、時間はかかるけれども手をついて起き上がる。
でもまた、倒れて、またふらふらしながら起き上がる。
必死でやっているわけではなく、ただそれが当たり前のように繰り返している。
そのように勉強の壁にぶつかり続けている小学4年生がいる。
私は彼を尊敬する。

思考の壁にぶつかる中年の男がいる。
彼は今、概念のかたまり、否定のサングラスで世の中を見る。
彼の周囲で起きる事象は彼にとってはすべて自分を責める波動に見える。
受け止めた波動を悪意の波動で周囲に撒き散らす。
たった一度サングラスをはずせば世界は違って見えるはず、
私は、そう信じて彼の波動を受け止める。

心の壁にぶつかる私がいる。
日常で感じる無力感やら、感情の振れの底に何があるかを探す。
人に指摘されたことに落ち込み、前を向いて歩いてきたと思っていたら、
一歩も前に進めていなかったと感じてしまう、そのときの心の底にある壁。
その向こうに何があるかを探す。
壁の向こうにふわふわした頼りない白いものがある(たぶん)。
意識のピンセットを研ぎ澄まし、そいつをつまみ日の下にひきづりだしてやる!

壁にぶちあたっている人たち、彼らが壁を乗り越える、潜り抜けるために
「教育コーチング」は有効な武器になる。

「質問」が意識を変え・・・人生を変える。

「教育コーチング」普及活動ing の超介です。

模擬テストの答案を生徒に返却し訂正していきます。50点満点中の25点が数学。間違えているところを一緒に見直します。

「?,老彁嗣簑蝓△海海派箙罎良佞永№ナ間違えた2点減、数字の転記ミスで2点減 ?△漏領─⊂豺腓凌瑤里?ぞえ間違い(図はあってる)で2点減 ?H屬亙∫?式の文章題で式たたたず0点でも、ここを思いだせばできる(4点取れる)、・・・・・・・・・・、つまり43点は取れていてもおかしくないね、もうひとがんばりすればできるね。」と私。

この「もうひとがんばり」が「私」にはわかる「もうひとがんばり」、でも中3の彼女には見通しにくい「がんばり」であるので、このままでは、ここまで踏みこめそうにありません。なぜか・・・、仮説を立てて進めないからです。可能性はある、実行はできそうにない。そこをうめるのがコーチング。

自ら、何があればできる?と質問して学習を進めることができれば、できる。コーチングでそれをやります(これが自立学習mineの目指すところ、ちょっとPR)。前向き、開いた質問からはじめます。
これで、彼女はずいぶん変わってきました。

コーチングしながら、自分もそうかも、と気がつきます。生徒と一緒ではないかと。もう少し見通しの立つ人が見れば、もうひとがんばりできれば可能性が一気に広がるのに、それができていない自分かも?・・・・・。

仮説を立てます。もう一歩踏み出せば、できるようになるはず、自身の内側に能力は潜んでいるのであるから。たった一歩踏み出すだけでよい、そこから新しい体験が生まれ、さらに次々とカスケードに体験がすすんで知恵が生まれて・・・と。

あるベテラン講師が「授業中でやった問題が模試にでてる、自宅でも復習していれば得点できていたのに・・・」と、家庭で自主学習できない生徒を嘆いています。

「でも、先生、あなたは自分の仕事のための勉強を、自主的に、プライベートの時間を使ってやっていますか?」と、問いかけます。自分のためになるとわかっていても、やれるひとと、やれない人がいます。やれるひととやらない人の違いはどこにあるのか?

やれるひとは「何があればできる?」と問うて、それで「どうする?」と詰めていける人。本当にできる人は習慣的にやれます。

何があればやれるのか、できていればどんな気分か?と自分にも生徒にも未来に向けての質問をします。

焦点(ピント)をあわせる

「教育コーチング」普及活動中の超介です。

松山の桜は満開を過ぎ散り始めました。毎日、桜の木の下を通る度に、まだ咲いているな、と見ていましたが、今朝は路上にピンクの花びらが点々と散らばっていました。我慢強く咲いていて、早く見にきてね、催促しているようでしたが、そろそろ限界、今週中に散ってしまいそうです。

ピントを合わせて、日常と異なる世界を探検するのが中学生の頃の楽しみでした。

顕微鏡で淡水プランクトンの観察をする。丸い視野中のぼんやりした像がくっきりして浮かび上がる。
この瞬間に本でしか見たことのない世界が広がります。

暗夜、懐中電灯で星図を照らしファインダーを覗きながら、ターゲットの天体のある場所に望遠鏡を運びます。突然に見える何十万、何百万光年の先にある星雲やら星団。

その他に釣りやら、昆虫採集やら、植物採集やらを楽しみました。

コーチングを習ってからは人間関係にピントを合わせています。

特に子どもとの関係では、ピントの合った瞬間、これは突然にやってきます。今日はちょっと違うな、と思ったらふるまいが変わっていたりします。

子どもの行動が変わるときがあります。それは付き合ってみないとわかりませんでした。色々と試行錯誤してリクエストします。

このピントの合わせ方、一番大切なことは「一緒に居る」ことができるかどうかだと思います。相手に合わせつつ、時々こちらからもリクエストします。

小学低学年の子たちは特にどんどん変化します。脱皮していきます。濃密な時間を生きています。生きていくことは変わること、動くことだと教えてくれているようです。

自分の生活にピントを合わせます。やるべきこと、やりたいことを整理してリストアップ、スケジュールに落とし込んで、時々それを眺めてなすべきこと、やれているかチェックします。

うーむ、ピントの合っていない文章に・・・・。

考え方の枠を広げる(火事から考えたことpart?掘

「教育コーチ」修行中の超介です。

ゼロベース思考、というのはそれまでやっていた思考作業を一旦ガラガラポンと崩して、最初からやり直すこと、とおもっていました。電卓計算でたとえるならばメモリも全部消してACボタンをおしてやり直す、算盤でいうなら「ご破算で願いましては」ではじめること、のようにです。

 でも、数日前に本を読んでいて私的(超介的)最良の意味に気がつきました。

皆さんは日々の生活の中で、困難なこと、できそうにないこと(それが公的なことであれ、私的なことであれ)に出くわすことはありませんか?ありますよね。

たとえば、私は人前で話すことがイヤでたまりませんでした。ですから、会社の全体会議などでスピーチをすることがきまると、1週間ほど前からでも憂鬱でした。準備をしていても不安がこみ上げてきます。それを気にすればするほど、そうなります。

これをゼロベース思考で捉えなおします。この場合のゼロベース思考は「思考の枠」を拡大することです。いやなこと、というのはそれにこだわるからいやなことなのであり、そのときは「思考の枠」がそのいやなことを中心にして存在しています。その枠を最大限に広げるのがゼロベース思考です。すると、その枠内で新たな事象が浮かんでくるので、それとの有意義な関係を作るのです(構造化する、とかいうらしいです。)。

たとえば、スピーチをすることの延長上に、1年後に20名くらいの保護者の前でトレーナーとしてファシリテートしている自分をイメージするのです。そうすると、目の前のいやなことがそこに至る(ちょっとたとえとしては悪いですが)までのトレーニングの機会として見えてきます。やるべきことを大きく捉えなおします。メンタルエネルギーが必要ですが。

こんなことを考えるのは次のような事情からなのです。

朝起きると憂鬱な気分にとらわれます。その原因を考えました。それは、一つこなせば、また次へと、次から次へと向かい合うべき困難な事態に遭遇しているとおもっているからなのです。これが憂鬱の正体かと。でもその都度思考の枠をひろげることができれば(ゼロベース思考で位置を捉えなおせば)、違って感じられるはず、とやっと気づいたのです(ずーと朝が憂鬱でした。これまでは、ごまかしてエイ、ヤーとそのような気持ちを切り捨てていました)。

私の「最大・最深の思考の枠」を死後の世界まで広げます。すると、『私の葬式のとき、知人達が私のことを「超介さんは、本当に誠実に生きたひとだったよね」といってくれること』、これがその枠の中で一番大切なこととして浮かんできます。そこから、次々と現れる困難(と思われる)な事象を捉えなおします。すると、憂鬱な気持ちがおさまり,少し前向きの感情につながるのです(きっと)。
このような思考を繰り返せば習慣になり生まれ変わることができると思っているのです。

これもセルフコーチングだと思います。
「無意識の海から思考・判断・感情型を引き上げ、リストラクチャ、ブラッシュアップして再度無意識の海にそっと沈める」です。

春の妄想(火事から考えたことpart?供

超介です。

意識の下に広がっている無意識の海、そこを豊にすることが自分を変えることにつながります。

無意識の海から習慣化してしまっている私の思考型、判断から行動型、感情型などを取り出し、意識の光を照射します。その光で骨組みをあらわにし、清浄なブラシと水で垢を落とし、欠損、ゆがみを直し、理想形へ組み替えます。そして再度、そっとそれらを無意識の海へ沈めてゆきます。

これらの行為を私はコーチと合意しながら共同で進めていきます。日々それらの作業を繰り返せば、リストラクチャされブラッシュアップされた思考型、判断から行動型、感情型がたゆとう豊饒の海が広がります。そして生まれ変わりつづける私。

(海からの連想、ここからは現実の春の海。)

春、桜の開花とともに外洋から鯛の群れが宇和海の沿岸に入り込んできます。陸地から急峻に落ち込んだ先の海、リアス式海岸に産卵のためにのっこんでくるのです。桜鯛の季節です。

カゴに撒き餌を詰め針先にオキアミをさし、棒ウキのついた仕掛けを30mから50m沖合いのポイントへ投入します。着水して針先が15m・20mの海底より50cm・1m位の位置につくまで道糸を送り込み、白地にオレンジの蛍光色の棒ウキが海面に立つのを待ちます。糸ふけを取ってあたりを待ちます。

それから緊張する時間が始まります。

鯛のあたりは突然やってきます。ウキが海面から一瞬のうちに消えるのです。ゆるやかに張られている道糸からさお先に荒々しい生き物の動きが伝わってきます。ほんの一瞬おいて竿をあおって合わせをいれます。このときから取り込みまでの数十秒・数分間が釣師にとっては至福のひと時です。

海上に姿を現す。ピンク色から白色までのグラディエーションのかかったうろこにちりばめられたブルーの斑点、それらは海の宝石のように美しい。さお先に感じる魚信から取り込みまでの高揚した気分時間はその魚体をしげしげながめて、そしてナイフでえら下を〆、海水の入ったバケツに放り込んで終了します。

★★★★

海にはいつもあこがれます。なぜなら現実の海も、無意識の海も奥が深く、何者が潜んでいるかわからなくて、そしてどこかとつながっている感じがするからです。豊な海との対話がフィッシングでありコーチングであります。春の私の妄想。

火事から考えたこと

超介です。

その日の数日前に、国内外の数件の火事のニュースを耳にしていたためか、枯れ草の生い茂る川原を朝歩いたとき、ここに火がつけば一面焼けてしまうな、と思いました。

その日の日中に、知人が携帯電話での地元の事件報道ニュースで「M(私の住んでいる地区名)の公園で火事があったようだよ。」と教えてくれました。「公園、小学校の北にあるよ。でも田んぼの真ん中だし、燃えるようなものはないとおもう。」と私。

翌日の朝歩いていると川原の土手下に消防車が一台とまっていて、消防士がホースをまき、丸めたそれを架台に積み込んでいます。「朝から防火訓練?」と思いました。

土手に上がり、川原を見下ろして、「あっ」と声が出そうになりました。昨日、燃えるかも、とおもっていたその箇所がもえていて一面真っ黒になっているのです。

「昨日の火事のニュースはこれか、公園というのはS川公園のことか。」と全部がつながりました。

私に予知能力がある、などと考えているのではありません。でも偶然と割り切ってはしまえないものが残ります。それから人の潜在的な力について考えはじめたのです。

脳科学者によれば、人の行為はそれを当人が意識する以前に、脳の中でその行動の元になる回路が発火しているそうです。すべての所作を人は意識して行わず、無意識の行為(たとえば習慣化したものなど)など、ふと気がつけばやっていたというのはその証明です。

ある言葉や考えが浮かんできたり思いついたりすることを、無意識の海、そのあるところから泡のように浮かんでくる、このようにたとえて説明されます。その思いつき、気づきの内容を選択することはできません。無意識の海に意識の釣り針はたらせません。

そうであるなら、アイデアや考えをたくさん思いついたりする人になるためには、この無意識の海を豊饒の海にするようにすればよいと思います。天才モーツアルトも過去の名曲を徹底して学んだとか、読んだことがあります。その豊な曲想の海から多くの楽曲を世に出したと。

無意識の海を豊にするため、そのためにたくさんの栄養を海に投げ入れます。未来に向かう、上昇志向のコトバの塊、映像、五感から入る自然物も、どんどん取り入れて無意識の海を豊饒の海にするのです。春の私の妄想。

レッドロビンの赤い芽

超介です。

庭先のレッドロビンの赤い新芽が目につきます。あちこちの庭にあるレッドロビンにも、結構個体差があって、新芽はやわらかい赤色からほんのちょっぴり赤みがある緑色のものまで、様々です。

松山ではもう数日前から桜の開花の時期を迎えています。ウォーキング途中の土手の桜の木にもいくつかの花がついています。ここは市の中心部から少し外れた河原なので、温度差からか毎年開花は市中心部と比べると1週間ほど遅れます。

枝先についた先端が楕円形のつぼみ、これが木全体に満遍なくあるのです。葉っぱなしの精彩を欠いた黒っぽい開花前の桜の木、でもあと数日で、このつぼみからいきなり春が訪れ風景が変わります。

春の山道を歩きます。頭上の新緑が陽光を透き通らせている、その若葉色に見とれてしまう季節です。さらに、樹間をわたる風の音、湿った土のにおい、五感に伝わる新しい季節の情報を受け取ります。

朝出かけるときのウォーキングの服装も、おとついから半そでのポロシャツ、半ズボンに切り替えました。アレルギーで荒れた肌には適度な紫外線が有効、と医師から日光浴をすすめられているので、軽装に切り替えて歩きます。(出会う人はまだ長袖、長ズボン、さらには上着着用が多いのですが。)肌に触るひやりとした風も気持ちがよいものです。

早すぎる軽装、と思う人もいるかもしれませんが、きにせず、さっさと歩きます。樹木もそれぞれ、人もそれぞれ、迷惑のかからぬ範囲で好きなように生きていきます。

人それぞれ、というのは安心して自分を生きていくことだと思い始めました。できるかどうか、と不安にかられることは無用だよ、といってくれていることに気がつきました。そういえば、昨年起こった出来事も、それまでのことも、結局何とかなっているのです。

あなたができると思えばできるのだよ、と。あなた次第だよ、と。この言葉、独り歩きをさせるには(他人にそのまま伝えるには)少しおぼつかないですが、僕の中ではその意味を示し始めました。

過去と他人は変え放題?(新入社員へのメッセージ)

超介です。

入社式が終わり、新入社員が現場に赴任していきました。

30年ほど前の自分を思い出します。当時も就職難の時代でした。具体的な能力も、体験財産もなく、社会的な能力にも自信がない私は不安だらけでした。

それで、学生時代、就職してからの数年間、不安にたいして「どんな仕事でも、やってよかったという、やりがいに変えることができる能力」これを身に付けることをひそかに目標にしていました。それがあれば生きていけるだろうと。

入社後の数年間は「作業ではなく仕事をする」ことがその目標達成のための方法でした。それがやりがいにつなげる方法であると。身の回りの様々な事情をどう捉えるかは、その人の考え方次第である。そのことにぼんやりと気がついていました。

「意味のないことは起こらない」、たしかにそうであり、調子の悪いときも、めぐり合わせが悪いと思うことも、自分と波長が合わない人と仕事をすることも、何かの意味がある、というか意味を立てることができます。

「過去と他人は変えられない」といいますが、客観的事実(そのようなものがあるかどうかはすこし疑問ですが)としてはその通りです。しかし過去起こったいやな出来事も、自分と合わない他人もその意味を立てることができれば、つまり自分が変われば「過去も、他人も変え放題」になると思います。

入社前のコーチング研修で若い人たちにそのようなことを伝えようと思っていました。必ずしもスムーズに進む人ばかりではないであろう、人たちに、あなた次第だよ、と伝えたかったのです。

春の兆し?(ぶつぶつ・・・)

超介です。

2週間ほど前から鶯の鳴き声が聞こえ始めました。朝のウォーキングの途中の川原でのことです。土手にはもう菜の花も今を盛りに咲き誇っています。先日8日の日曜日には故郷丹波の里に法事で戻りましたが、そこでもタンポポの花を見つけました。

花粉症の症状やらそのための薬の副作用のためか、いまひとつ頭も身体もすっきりしません。春先はどうも体もだるく、眠くなったりして、考えがまとまりにくいのです。

こういうときには、時間をかけてゆっくり休んだほうがよいのですが、今は新年度準備の多忙な時期、扱いにくい身体を無理やり、公私にわたる雑件に向かい合わせねばなりません。

なすべきことを拾い上げて、TO DO LIST をつくり優先順位をつけて、スケジュール化する。そして一つ一つこなしていく、これが必要。

そのように考えてパソコンに向かいます。

もう、やめてしまいたいのに、ちょっと無理してでも動き始めると、なんとかすすむ。このおんぼろの体と頭でもまだ動く。

そのように、調子のよいときはできてあたりまえ、調子の悪いときこそやりぬく、習慣が身についていないとき、ここはやりきらないと、などうじうじ考えつつ・・・。

明日は会議でその準備もしないと・・・。これを超えれば本当の春が来るはず。