ゆるす ということ

教育コーチングにより生きる力を掘り起こしている超介です。

自己承認(自分をゆるす)をおこなうと、自分が変わっていくように感じます。私は ゆるす というのになにか、方法があると思っていました。でも、そうではないようですね。私の場合はゆるすことの意味を書いた文章をじっくり読んでいるうちに、閉じこめられていた素の自分が出てきます。情動が起こり涙が出てきたり、嗚咽することもあります。ああ、我慢しているな、と思ったりします。

それから、特にストレスまみれになったときには、ひとりになれるところにいって15分程度横になり目をつぶってじっとします。そして何が起こっているのかを味わうのです。そのまま眠ることもありますが、でも起き上がるとリセットされていて集中力を取り戻すことが出来るのです。

この感覚は、これまでもなんとなくわかっていましたが、ゆるす という言葉で表現されて意識裡にあがってきて、さらにくっきり身についた、というふうです。お勧めの本は「ゆるすということ」(ジェラルドGジャンポルスキー サンマーク文庫)です。最近読みました。繰り返して読んでいます。

 その時々で 自分 が変わる、または こころが流れるように動く のような感覚があったので心象を書こうとすると途中でとりとめもなくなってしまい、ブログにも投稿しにくかったのです。それでしばらく投稿するのをやめていました。

 これまでより深く考えることができるようになりました。自分のことをより深く理解していけるような気がするのです。そのさきにあるのは、さらに自由に動ける自分です。いい意味で 軽くなった自分 それを感じます。

親の心から

教育コーチング普及活動推進中の超介です。

あるお母さんが小学校の先生からのメッセージを持参された。そのメッセージは連絡帳に書かれたものであったので、お母さんはそれを自分の手でメモ用紙に写し取り、それを私に手渡された。そこには、小学中学年のその子の今と将来に対する、先生の不安と悩みがつづられている。

翌日、メモに書かれた文章を何回か読み直すうちに、お母さんの心が想像できて、たまらなくなって、電話をして話をうかがった。でも、お母さんは現実(小4であるが小1内容程度しか理解できていない)をきちんと受け止められていた。その上でどうするか、迷われていることがわかった。

現実をきちんと受け止めている人は強い。受け止めているので、その現実に振り回されず、思考し判断し行動できるからだ。主体的に生きることができるからだ。お母さんは強い、そう感じた。

私がお答えしたことは2つ。一つはどの道を選んでも人生は様々に発展させることができること、あと一つはその子の長所を見てあげましょう、ということ。お母さんに言う必要は無かったかもしれない。

 その日、また別に、ある夫婦が相談に見えた。中3生の娘がまったく勉強しない、成績もひどい、ということらしい。1時間ほどお話をうかがって、家庭の様子が想像できた。感じたことだけをお伝えする。次はお子さんに来ていただいて、体験授業を受けてもらい、面談してからお話しすることを約束する。

 私が教育コーチングをも介しておこなうことは、人(自分自身も含めて)を信頼することである。信頼には勇気と責任が伴い、そのためには十分な知恵、知識、スキルも必要である。だから学ぶ。あらゆるチャンスを通じて学ぶ。人が信頼できれば、その人はぐんぐんと、のびのびと生きていくことができる。

 ご夫婦とお子さんをどこまで私が信頼できるか、試されると思っている。

 生きることの醍醐味を味わうことができる機会が、たくさん押し寄せてくる。

(最初で最後の)告白、そして節目

教育コーチングで自己開発していく超介です。

「素敵」という言葉を使うことはめったにありませんでした。ところがこの数週間のうちに「ああ、これが素敵ということか」、と言葉の意味を感じるようになりました。

「本音」と「建前」が分離してしまい、いつも我慢して、気持ちを押さえつけて生きてきたようにおもいます。

ある日何の前触れもなく、涙があふれてくる時があるのです。

日常の自分をゆっくり振り返ることなどしていませんでしたが、教育コーチングを始めてから、振り返りをする機会に恵まれました。色々なセンスを学ぶにつれ、私という人間がなぜ今、ここに、こうして、あるのか、その意味をずしんと感じる時があるのです。

先日京都に行き、駅前の雑踏のなかで、黒い石のベンチに座り、帰りの夜行バスを待つ3時間ほどの間にテキストの文章の1箇所(「許す」)を何度も繰り返して読みました。すると、急にこみ上げてくるものがありました。それは何回も波打ってきます。「建前」と「本音」の境目がとれて、情動が動き出す。何の前触れもなくあふれてくることがあった涙の意味にはっきりと気がついたのです。

その翌日も同じ文章を繰り返して読みました。そうして前日の京都の夜のことを振り返りました。そのときも、そのままを受け止めて「許す」をおこないました。そこで私は深く感動しました。昨日よりもくっきりと自分のことが理解できたからです。そして、いままでより強く主体性が発揮できそうな予感がしました。

起床時の憂鬱をコントロールできそうな気もしたのです。新ためてECTPのテキストを読み直しています。以前は読み飛ばしていたのに、ああ、ここにこんな意味があったのか! と気がつきます。「信頼」の項目を読めば、現場で対応していた子ども達との関係がなぜうまく進んでいるのか、より深く理解できるようになりました。

うまくいっていないと感じる関係の理由も理解できます。解決できるかどうかは別にして。

同様なことはECTPのテキストだけでなく、他の本でもそんなことが起こりはじめました。言葉の意味が立ち上がってくることが増えてきています。そのことを感じながら読書を楽しみます。

いつの間にか不機嫌になったとき、時間をとって自己観察をします。すると刺激にそのまま反応している私に気がつきます。コントロールされている私に気がつけば、(時間はかかりますが)対処の仕方が見えてきます。こうしようと、そういう気持ちがわいてくるのです。

「日常の中に学びを落とし込む」これができれば、私はさらに自由になり強くなると思うのです。
これが「素敵」の意味!!

もうすぐ1年ですね。

教育コーチングを普及させたい超介です。

 このブログが始まってからもうすぐ1年たつのですね。私の最初の投稿は「挨拶」でした。「挨拶とは相手の気持ちにさっと入る」ことだ、そして「教育コーチング」を通じてであった人は「挨拶の上手な人が多い」というような内容でした。

 9月19日の京都での「トレーナー総会」でもそれを強く感じました。初対面である人ともすぐに自然に会話ができるのです。それは、「教育コーチング」の学びを通じてどんどん自然体であることの強さが出てくるから、のような気がします。

 今回の総会の研修からも、より強くなる手がかりを掴みました。自然体であることの強さは、より私を自由にしてくれるのです。ですから読書をしていても、言葉の意味がよりこちらに届いてきます。

 このブログの超介日記は今回が74回目になります(数えました!)。 次回は2年目の始まり、これからはテーマ、というか、スタンスというか、もう少しまとまりのある内容にして、超介らしさを見つけ、表現したいと思っているのです。(無理かな?)
 

農作業を終えて

教育コーチングの普及に努めている超介です。

9月6日(日)のセミナー終了後ふるさと丹波に帰り、農作業をおこないました。一反七畝(だったかな)ほどの田んぼから773kgの玄米が収穫できました。30kgの袋26個を保管庫に積み上げて作業は終了です。これを精米していただく新米が楽しみです。新しいお米をたくと、つやつやと光り、粒がたち、よい香りがするのです。

ほとんどの田んぼは稲刈りが終わり、黄金色であった平野部の風景は薄茶色の入った肌色やら、その後に生えた稲の芽(これを ひこばえ というらしいですね。)で薄い黄緑色になっています。その奥にはそれほど高くはない(でもたぶん海抜400メートル以上はあったと思います。幅広く広がっているのです。)丹波山地が深い緑に包まれてあります。ふもとにある家々も秋の収穫の大仕事を終えて、一段落ついているかにみえました。

 今日(9月13日(日))は所属する企業の宿泊研修がありました。土曜日から泊り込み、未来に向けてのあり方をデスカッションする時間を数グループに分かれておこないました。自らを信じる力を強くするきっかけにしようと呼びかけました。そのために未来を想像し、今、これからやるべきことを話し合ったのです。

 教育コーチングの活動も、仕事も常に期待をこめて、種まき、水遣り等々せっせとおこないます。運動会もたけなわ、秋祭りも始まります。日ごろの努力、練習がそのとき開かれるように、私達の活動も継続的に行い、方々で花開くようにしていきたいと思います。

セミナーをやりました

お母さんから「教育コーチング」を通じてエネルギーをもらっている超介です。

9月6日 9名のお母さんと一緒に「子育ち」について学ぶセミナーを開催しました。

100分の会は穏やかに始まり、お母さんの積極的な参加をいただき、最後は「承認のコトバ」が
持っている強さを象徴したムービーを見て終了しました。

 実施前は 予定通り来てもらえるかな、うまく話せるかな など不安もありましたが、はじめてみると、感想を述べていただいたり、発表をしていただいたりしているうちにだんだん私にもエネルギーが満ちてきて、最後はやってよかった、と心から思えました。

 アンケートには、良かった点は?(に対して)全員が日ごろの行動の反省と、今後の決意を書かれていました。100分では短い、もっと。という意見も頂きました。

 また、遠くから同じトレーナ仲間も応援に来てくれました。心強かったのです。

 日本の各地で、人に対する思いをもった人たちが活動している姿を思い浮かべています。
それに触発されて多くの人たちが、人の可能性に改めて気づかれる、そんな青写真を思います。それは現実に動いていることなのです。(きっと)

 

「ゲーム」をやめて「名人」をめざそう!!

「教育コーチング」の名人をめざす超介です。

元商社マンであった人と出会い、話しているうちに体験談になりました。ヨーロッパ、アジアの国々からアパレルの買い付けを担当していたとのこと。彼の経験に興味をおぼえ、いくつか質問しました。「海外の製品を買い付け、国内で販売するためには、日本人の好みを考えて商品の買い付けをするのが大切でしょうね。」とか。すると「フランスではボタンは付けてある程度で、すぐ取れてもみんな気にもしないですよ。」とか、日本文化とある国のそれとの違いについて色々と話をしてくれます。

彼は次に不動産(住宅)の販売に関わったそうです。「これがね、ポイントを知っていると、本当に面白いほどうまく契約が取れるのですよ、それはね・・・・。」「読めるようになったんです、世の中がね。」と教えてくれました。それができるようになるまでの過程は聞きそびれてしまいました。次に聴こうと思っています。住宅販売の「名人」の彼に、どのようにしてそうなれたのかを。

「ゲーム」をしないこと、私はこのことを教育コーチングの研修で学びました。新しい能力を身に付けたり、新しい仕事をはじめるときに、「邪魔するもの」が頭をもたげてきて「わたしにはできない」とか「私の仕事ではない」とか、自身の心の中で「ゲーム」がはじまることがあります。これをきちんとコントロールするのです。

格調高い漢文調の日本語で文をつづる作家の「中島敦」の「名人伝」(弓の名人)を読んだことがありますか?小説の中ではほとんど不可能かと思われるレベルの五感の力が、訓練により引き出されていきます。私は「名人伝」を読み進むうち、ひょっとしたらこういうことも可能かもしれない、と思わず引き込まれていきました。そして主人公は厳しい鍛錬を重ね、ついには弓を使うことも忘れた名人になります。

私もまったく「教育コーチング」のことを忘れた人になりたいと思います。身体の一部になっていて、無意識に使え、自由自在。

「ゲーム」をやめること、これが少しずつできるようになれば、自分がやりたいこと,或いはできることがあることに気がつきました。社内で研修をやりましたが、受講者の様子からもそのコトに気がつきました。

 「ゲーム」をやめて「名人」をめざそう!!!  

眼に見えないもの(成長或いは生まれ変わり)

教育コーチングにかかわると人生が変わるな、と感じている超介です。

環境の変化が大きいときにはそれまでの生き方が通用しなくなり、生まれ変わることが必要な場合があると思います。たとえば中学生、高校生の時代、学生から社会人への移行期、そして中高年のとき、それから私は体験がまだですが、晩年。これらは人生の変曲点であり、時には成長というより生まれ変わりが必要なときもあるかもしれません。同窓会で生まれ変わりを感じ、見違えるような人がいるでしょう。

中年の危機というのもその時期のひとつで、生まれ変わりは大変で時には生死にもかかわるので「危機」というのだと思います。それは、卵から孵化して幼虫、蛹さらに羽化して成体になるような完成形に向けての進化ではなく、激変する状況に適応するように、それまでの身に付けたものは脇に置いて、裸からスタートするのです。それまでに身に付けたものが邪魔をするぐらいだと思います。今までの延長上に未来はなく、まったくゼロからはじめていると思った方よいのです。

こんなことを考えたのは いっぺんやりなおさんとあかん と思うぐらい多方面で順調でないからです。ここ数年で生活習慣をかえ、頭と心と体のリフォーミングを試みていましたが、おッこれは生まれ変わりか、と。コーチングと関わるのもそこからきています。

(中高年でメタボの私はそんなことを感じているのですよ。)

皆さんは、そんなことありませんか?

(そうか、私より、もっと若い人がほとんど・・・・うう!!)

眼に見えるもの(青写真)

9月からの「教育コーチング」に関するイベントにドキドキしつつ効果を期待している超介です。

ありたい青写真をえがけばその通りになる、といいますが、うまく描けません。理由は2つあって、一つは青写真が明確になっていないこと、もう一つは絵を描く力が弱いこと、だと思うのです。

寝てもさめてもその理想図のことを考え続け、アイデアをたくさん結び付けて、細部まで具体的な絵にしていきます。その絵の解像度が高まることは、同時に絵を描く力が引き出されいる状態であるので、2つの理由はつながっています。つまり青写真を明確にすることがより重要だと思うのです。

でも、絵を描く力(右脳の力)も鍛えます。「利き手」と同じように「利き目」というのがあります。私は右目が利き目です。体の右半身は左脳がコントロールしていて、そこは論理的な思考をするところだそうです。私は、絵を描く力(右脳の力)は弱いと思うのです。

 それで右脳を鍛え、青写真を描く力を強くするために左手の運動をします。散歩中に左手にもった物をくるくる回したり、掴みなおしたりします。また歩きながら、景色を見て直後に目を閉じ、まぶたの裏の残像を意識します。(ぶつからぬように注意)最初は像が反転し白い像ですが、繰り返していくと、ふとその白い像の向こうからカラーの映像が浮かんできそうな感じになります。今はそんな感じ、もうすこしではっきりと描けるようになりそうです。

 こんなふうに、色々な工夫を重ねて自分なりの習慣(方法)を作ります。

皆さんは自分の力を高めるどんな工夫をしていますか?

眼に見えないもの(壁)

「教育コーチング」研鑽中の超介です。

日中はぎらぎらと照りつけがありますが、朝の空気からは肌に心地よいすがすがしさを感じます。
9月の空、秋の予感。

「眼に見えない壁」に気がつくのは他人からのフィードバックから。物事がうまく進まないときはどこかに壁があるのではと疑ってみることが必要。そして多くの物事はうまくすすまないので、きっと僕の周りは見えない壁だらけに違いないのです。

 他人に見えて自分に見えないものがあるのは自然なこと。特にコミュ二ケーション上の障害は眼に見えないことが多いのです。壁の中には莫大なエネルギーが潜んでいて、壊れると開放されたエネルギーはコミュ二ケーションの流れをぐんぐん進めるに違いないのです。

 だから、まず壁を可視化するためにコトバの力を磨きます。他人からのフィードバックやら、書籍によってわかった認知のゆがみやら、揺らぎを確定させるために記録します。記録をすることで希望を確認し、目標の「星」を見失わないように「星図」を描くのです。ブログへの投稿、手帳への記録、日記、計画書・報告書作成もその一つです。

 壁は時には越えがたい、深くて幅広い溝の体をなすこともあり、思わず引き下がることがあります。「そんなことは僕にできない」、とおもったり、「それは僕のせいではない」と防御して原因を外側に求めたりします。

 9月は運動会のシーズンです。心身ともに鍛え、壁も溝もブチあたったり、飛び越えたりして阻まれているものを自由自在に交流させ、エネルギーを開放していくのです。

 朝のすがすがしさはそれらの季節の予感なのです。(きっと)