味方をつくる、同意を得る

教育コーチングに対する同意を得ることに努めている超介です。

職場の人たちに2時間のセミナーをやらせてもらっています。今年度は5,6名から20名弱の4グループが対象、回数は多いグループで6回、少ないチームで2回、合計14回28時間実施できました。貴重な体験でした。いつも参加者との 『一緒に居る』度 はどうであったかを振り返ります。参加者が自分の可能性を開いていけるセミナーにしたいと思っています。ETCも他のセミナーでもそう感じるときが、よかったと思えたからです。

アンケートの感想に、考えが明るくなった、気持ちが楽になった、とあると一番うれしいです。その人自身が明るい未来に向けてあゆみを強める、そうなることが一番の希望。そのためには『参加者と一緒に進んでいく』セミナーの運びを目指します。そのとき『人は成長したい生き物である』やら『ひとは答えを自分の中に持っている』、『ひとはそれぞれ』が感じられるセミナーになると思います。ですから、自分に意識が向き、知識の提示に気がいってしまい、参加者と一緒に居ることが出来ていない、そんなときが無いよう注意します。

同じ集団に所属の ゆうみトレーナー もはじめています。彼の試みは数名の集団の一人ひとりにじっくりとコーチングをしていく、という切り口。つまりコーチング自体をおこなうのです。コーチング集会、安心安全な場作り、人数がポイントです。参加者からは好評を得ています。

できることからはじめています。コミュ二ケーションの質と量を増やし高めていく活動を。振動の中心が動きをやめなければ、どこかで共振が始まったり、波が広がっていくだろうと。その動きも節目ごとに改善し、仕事にしたいと思うのです。 

認知行動療法セミナーを受けました。

職場の労務管理に教育コーチングの有効性を感じている超介です。

 第1種衛生管理者(数年前にとったのです)の登録をしているので労務管理に関するセミナーを時々受講します。ある団体主催の認知行動療法のうち論理療法、アサーションの研修会がありました。?〕菽娘埣羶肝屠 ↓?交流分析、?G?知行動療法?機頁?知療法)、?で?知行動療法?供箆斥∠テ法、アサーション)た4回シリーズ(2時間/回)の最後の回です。

 基本的な考え方を無料で教えてもらえる機会なのです。30名ほどの会場には色々な職域から受講生が集まります。そのセミナーでの話。2時間のうち80分ほど豊富な実例を交えた講義、残りはワークです。論理療法の4段階のステップに従って受講者自身が自分の出来事を分析するワークです。

 ワークでは、ある出来事に対する感じ方を思い出し、それを自己分析します。それからペアになって出来事を説明し、分析結果を話すのです。

   (ある出来事で自分がどのように感じたかを話した後で)
超介:『私には失敗すれば認めてもらえない、という強い不安がたぶん、無意識裡にあるのです。それは・・・の期待にこたえられていない自分、せめて・・・・、と。』
相手:『もう十分にあなたは・・・・の期待にこたえられているのでは・・・。私はそう感じます。』

 相手の50代後半くらいの看護師の女性がそういってくれたとき、私は強い情動を感じて、それ以上話を続けることができなかったのです。内側に潜んでいる、基本的な考え方を言葉に出して、味わってみるといつもそうなるのです。こみあげてきて。

 そうであったとしても、私にはその想いを突き抜いて、なにかを成し遂げて変わって、そして生きていこうと思ってしまうのです。

イボの話

教育コーチングでストレス反応をプラスに変えている超介です。

(目下文体変身試行錯誤中です。)
いまから2年ほど前のこと。いつの間にか左足かかとに大きなできもの(500円硬貨大ほどもある。50円玉ではない。)ができ、医者に見せると『巨大なイボです』と診断される。まだなおっていない。治療は液体窒素で焼く(冷やす)こと、月2回ほど通院している。紙コップの液体窒素に綿棒を浸し、患部に押し付ける。『ジュ』という音とともに皮膚が硬化し白色化する。こうすることによって脳に『ココニイボアリ』というメセージが送られて、脳からイボウィルスを殺す命令が発信されるそうである。

 『こんな大きなイボはじめてです。』と驚いてもらう。正直な看護婦さんであるが、そういわれて喜んでよいのか悲しんでよいのか・・・・。焼いてもらった後、薬をつけてテープをはって、数日間そのままにしておく。3日後テープをはがすと皮膚がぼろぼろになって、こすると落ちる。それで皮を薄くするのであるが、しばらくすると、また元に戻ってしまう。

 そのイボが最近痛み出してきたのである。あるかなければ痛みが無かったが、数日前からは歩かないときも痛み出したのである。右足中心に進み、左足そろりとそろえて進む。他人が見れば痛みが分かるあるき方。走ればかかとはつかず、痛みはあまり感じない。でもずーとは走る程の体力は無い。

 朝のウォーキング時の最初は痛むので、右足に力を入れて歩き出す。痛みをこらえながらあるいていると、徐々に痛みが和らいできて30分もすれば痛みが無くなる。慣れてきて痛みがなくなるのはよいことなのだろうか?刺激はあっても分からなくなるのはよいことなのだろうか?

 イボの痛みがなくなっているように、心の痛みも本当はあったはずなのにいつの間にか感じなくなっていることもあるのだろうか?ストレスがあたりまえになって感じなくなってしまうこともあるのだろうか?感じなくなってイボみたいに噴出することもあるのだろうか?

朝の読書から

教育コーチングの本を朝読書することもある超介です。

(目下文体変身試行錯誤中なのです。)
書店には10時頃到着。時に、朝の書店に入ると、新刊本のにおいが漂う。平積みの本を眺め、何冊か手にとり、ページを繰る。内容に引き込まれ、10ページ以上立ち読んでしまう本に時々出会う。5冊に2冊くらいの割合。これを繰り返して購入したい本を決める。店内を10分ほどでざっと回る。休みの日には1時間程度かけてじっくり店内を見て回る。

車に戻り、10冊ほどの本が詰まったバッグを持ち併設のコーヒー店へ。席につき、赤いボールペン、オレンジの蛍光ペン、シャープペンシルをぱらぱら、読みたい本3,4冊をテーブルにどさり、おく。集中して読む、ひたすら読む、ミルクと砂糖を入れたコーヒーをごくりと飲みながら読む。至極愉悦を感じる時間。誰も気にせず読みふける。この調子で普段は1時間、休みの日は5時間から多いときは7時間ほど過ごす。

 これはとか、どきんと感じた箇所は蛍光ペンで塗る、大切であると思ったところは赤で傍線を引く。そして関連事項等を思いついたところは図、文言等を付記する。ただし、これらは2回目以降である。1回目は何もせずに通読し理解に努める。3回目以降、読むときに、しるし、図、文言をみて理解内容をチェックする。

 知人の本読みの達人はただ読むだけでは意味が無い、自分のものにするのは要点をチャート化するのがよいと。彼はそのような方法で100冊の本を読み込むことを目標にしている。今は4,50冊こなしているらしい。彼の思考は論理的なので話は分かりやすく説得力がある。それはこの習慣から得られたものらしい。私も今読んでいる本をそのようにチャート化する予定だ。

朝のコントロール

教育コーチングを日常に生かす超介です。

(目下文体変身試行中です。)
まどろんだ、ぼんやりした意識の世界にピピピピー、ピピピー、・・・という異質な世界からの電子音が響く。
『ああ、もう8時か。もうすこし夜が長ければいいのに・・、昨晩も2時だったな・・・。』
夢の記憶は無い。深く眠れたようだ。

 布団から手を出して携帯電話のアラームを解除する。足元から胸元にかけては温かく心地よいが、今朝は首あたりから冷気が伝わってくる。起きる気になれない。今日の予定を思い浮かべその煩瑣さを想って億劫になる。  

あと半時間くらい寝ていたい、そんな気分で数分間を“いじいじ、ぐずぐず”過ごし、ようやく『全ての仕事は学びのチャンス、この仕事も・・・の体験財産につながる・・・・』と、少しずつ考えを切り替える。(ここでセルフコーチング、いや自己説得かなぁ・・・。)不安といらいら感を眠ることで逃れようとしていたが、それも少しずつおさまり、気持ちが切り替わり始める。15分後くらいにようやく布団をはねのける。

枕元から5,6冊の本をかばんに入れる。読みたい本をいつも持ち歩く。全部は読めないが、時間が見つかるかもしれないので詰め込む。(これも一種のセルフコントロール、楽しみを身の回りにおいておく。)

  イヤホンで音楽を聴きながら、40分の散歩にでる。近所の河川敷まで往復、玄関前に戻る9時頃には体はぽかぽか。それから、『速攻』で自宅を出る準備を始める。テレビ、ヒーター、エアコン、温水器のスイッチを入れる。牛乳と豆乳をまぜてレンジで暖める。お弁当を作る(おにぎりをつくって入れるくらい、時間がある時は惣菜を作っていれる)。テレビのニュースを見ながら、薬箱から常用の薬を3錠、錠剤型の青汁30錠を数えて小皿に並べる。

 30錠の青汁を5・6,7錠ずつ飲み物と一緒に飲み込む、青草っぽいにおいが口中に少しひろがるが嚥下する。繰り返すうちにほどほどのおなか具合に。それから着替えて洗顔。自宅を出るのが10時少し前である。ハンドルを握り、車を走らせると気分が切り替わる。車中で、会議でのプレゼン内容のしゃべりを練習する。(車道でシャドゥイング?)

 

問をたてる・・・・から変わる(変化の中にチャンスを掴む 3)

 問を立てる、主体的である、立命する、選択することの重要性を再々教育コーチングで感じている超介です。

 答えが初めからある問題(数学の問題のように)に対処していると、いつの間にかそれを探す習慣が身についてしまいます。不都合なことがあれば、その原因の犯人探しを始めたりするのです。でも世界はそんなに単純ではなくて、どのように『問をたてるか』『答えをたてるか』が重要で、そうすればより創造的な関わり方をすることができます。

 誰の本に書いてあったかは忘れてしまいました。
『人生にはじめからは意味は無い、人生があなたに意味をつくることを求めている。』

 過去、何人かの首相の指南役でもあった陽明学者安岡正篤師の講演集から、知命と立命という言葉を知りました。次のような意味です。安岡師は『命』とは宇宙の本質たる限りなき創造変化であり、絶対的なものではあるけれども複雑な因果律がある、それを探って知り(知命)、因果の関係を操作して新しく運命を創造変化させていくことを『立命』、と説明しています。

 スティーブン・R・コビー著『7つの習慣』のうちの第一の習慣は『主体性を発揮する』です。主体性を発揮するとは、条件反射とは違います。つまり(外界からの)刺激をうけて考えもせずに無意識で反応、行動することではありません。人は刺激があれば、それを自覚、想像力、良心、自由意志により反応を選択することができる存在です。それが主体性を発揮することであり、人と動物との本質意的な違いなのです。

昨年末に『選択理論』を読み始め、「ああ、ここにも同じことが書いてある」そのように感じました。我々は環境から『情報』を得るだけで、その解釈はその人がそれぞれにすることができる。だから環境にコントロールされずにいることができる。行動を選択することができる。うつ状態も、落ち込みもそれは本人がそのように選択しているのである。だから、それ以外の選択も可能である。

 誰もが様々な悩みを抱えているように、私にも立ちふさがる壁があって、超えられない、どうしよう、そう思うことがあります。その解決法をいつも探しています。それで多くの本を読んで考えてきました。過去と他人はかえられない、けれど未来と自分は変え放題、を理解し、さらに自分を変える糸口も少しつかめてきたように思うのです。多くの人が同じことを伝えてくれています。

 立ちふさがる壁があっても、可能な範囲で一歩踏み出せば、気持ちが少し変わります。そこから新たなエネルギーが生まれ、まったく超えられないと思っていた壁、その高さが少し低く感じられます。さらに一歩踏み出し・・・・。

続けることから変化が生じる(変化の中のチャンスを掴む2)

教育コーチングを継続することで変化を見つけている超介です。

毎朝のウォーキングを2007年10月14日から始めて2年3ヶ月ほど経過しました。変化を感じるのは変わらないものがあるからであり、続ける(変わらない)ことにより変化を感じることが出来ます。以前は4km歩くのに疲れていた体がウォーキングを続けて、いまは10kmあるいても平気になったように。

 変化の中にチャンスを見出す方法の一つに続けることがあるのです。チャンスは自信となって私の目の前に現れてきました。ここ数年続けていることからいくつかの自信を得るようになりました。人様の前で話をすることも、そのうちの一つです。コミュ二ケーションについて20名弱の人たちと一緒に学ぶ機会を得、都度準備して運営することからもたくさんの学びがありました。続けることから人との関係も変化します。人間関係が変化して深く話すチャンスがつかめます。

 読書習慣もこれまでの乱読から、これはと思った書物を繰り返して読み、内容を身につけるようにし始めました、これも習慣になりつつあります。いくつかの範疇では、これはとおもう書物を繰り返して読みます。すると、徐々に知識がつもり、自分の体験と重ねてみたりして熟読していくうちに知恵となり、仕事、生活の様々な局面でパワーを感じることがあります。根気よく続けていくと知識が知恵に変化します。変化してチャンスがつかめる。

 このブログへの投稿も、継続すれば何かのチャンスがつかめるのでは、そう思います。日々の様々な事象との出会いの中で、気づいたことを種として、文を作ることは楽しみでもあり、更なる気づきを得るきっかけにもなります。書くことは『描くこと』に通じていて未来をかいま見ることもありますし・・・。
続けると未来が変化してくるかも?

 誰もが持っている多様な可能性、人には本人も気がつかない可能性の種を持っていて、何かのきっかけがあると(そしてエネルギー注入が継続されると)その種から芽吹くものがあるとおもうのです。熱帯のジャングルのような多様性に満ちた存在、それが人だと(おお、変な比喩!)思います。そこかしこ歩くジャングル!?

変化を作り、変化になれ・・・変化の中のチャンスをつかむ

教育コーチングを通じて変化の中にチャンスを見つけて掴み取る超介です。

 30日から久しぶりに丹波市に戻り正月を迎え、今日3日、松山に戻ってきました。故郷で正月を迎えるのは、もう何十年ぶりかになります。両親と3人で過ごす年末、餅つきも、おせちつくりも手伝うことの無いまま大晦日を迎えました。

 31日の夜から正月にかけて近所の神社では焚き火をし初詣に来る人を迎えます。お神酒、昆布茶、お菓子などを用意しておきます。その際に父と一緒に少しお手伝いをしました。丸いお月さん、しんしんと雪がながれてきて、寒い大晦日。元旦の朝には1・2センチの雪が積もっていました。

 2009年より少し変えるぞ、変化にチャレンジ、変化をつくる、日常から、少し異なる体験をと、帰りの高速道路も少し変えてみましたが、見事に道に迷い大阪の市内でうろうろし1時間ばかり余計に時間がかかりました。ナビはつけていないので、地図を見て道を探しましたが、30日の夜の大阪の幹線道路は車もおおくて大変、戻るのに苦労しました。帰郷中は時間もゆっくりとれたので、朝の散歩にも時間をかけました。ちょっと遠出して10kmほどあるきました。少し自信が付きました。普段は4km程度です。年末から少し意識して日常から変化を作り出そうと。

 帰路もいつもは瀬戸大橋ルートを通りますが、明石大橋淡路ルートで帰りました。風景が新鮮、気分が変わります。

 年頭のテーマこのように・・・

  変化を作り、変化に慣れ、変化を楽しみ、変化の中にチャンスを見つけ、掴む!! 

 『ゆでカエル』にはなりたくないのです。(いきなり熱湯の容器に入れられたカエルはびっくりして飛び出して生き残る。でも、ゆっくりと熱せられた容器の中に入れられたカエルは、その中の水がお湯になって、そして熱湯になるうちに、いつの間にかのぼせて死んでしまう。)なかなか見通しのきかない(ただ、見通す能力が無いだけ?)泥の中のような状況でも、足と手でかき回し、たしかなものを探して掴む、それを足し合わせてチャンスとするのです。

庚寅(こういん/かのえとら)の年

2010年も教育コーチングを地域に深く理解,浸透させることを希う超介です。

 みなさま明けましておめでとうございます。 お正月はいかがお過ごしでしょうか? 私は、休み中にこれまで断片的にしか読めていなかった本を通読しました。(といっても、これを書いているのは12月27日なので、これは予告と期待をこめています。)

 さて、今年 庚寅(こういん・かのえとら)の年であります。この干支の意味を調べてみました。
(干支の活学 安岡正篤著 プレジデント社から引用します。)

  庚:この文字は次のような意味があると解説されています。
    『この「庚」には三つの意味がある。第一は継承・継続、第二は償う、第三は更新。つまり庚は、前年からのものを断絶することなく継続して、いろいろの罪・汚れを祓い清めて償うとともに、思い切って更新していかねばならぬということである。』(同書p108)
  寅:この文字には次のような意味があると解説されています。
    『「寅」の字は宀は建物、組織、存在を表し、真ん中の(ウ冠とハを除いた部分) は人が差し向かいになっておる象形文字で、手を合わせる・約束する・協力する意を表し、下のハは人です。だから<つつしむ>、<たすける>という意味がある。しかし助け合うには一人ではどうにもならない、志を同じにするものが助け合うのです。そこで寅には同僚という意味があって・・・』
                                     (同書p167) 
それで、この二つの文字の意味から、西暦2010年、庚寅の年の意味を解釈すればつぎのように
なるのではないでしょうか。

2009年に筋道がついてきて方向性がきまってきた。翌2010年はこれを断続させること
なく、継承することが大切である。ただしよりよいあり方を求めていくときに、一人の力ではどうにもならない、やはり構成員が力をあわせ、心を合わせて助け合ってやっていくことが必要である。そして変えるべき部分は思い切って更新すること。但し変化にともなう色々な犠牲もある。それらに配
慮しつつやっていくこと。

 非常に玉虫色の解釈ですが、どうでしょうか?国家の運営も新体制となり、筋道がつきつつある(と思いたいですね)2009年でした。今年はそれを断絶させること無く・・・・。と解釈します。みなさんの所属されている団体、或いはご家庭に適用されると、どのような指針が得られるでしょうか?

試してみてください。

 

この世に自ら決断して生まれてきた私

教育コーチングを通じて生まれてきた意味を知りつつある超介です。

昨日『見通しが立たない状況下で生き残る法』(宗像恒次著 きこ書房)という本を書店で見つけました。その最後から2ページ目に「人に愛があるとき、命がある」という言葉がありその次のページに詩があります。
     
 人が変わるとき、
      それは自分がいかに恵まれてきた
      存在かに気づけ、
      自分の運命に感謝するときである。
      そして、人が本当に変わるとき、
      この世に自ら決断して
      生まれてきたことに気づき、
      魂の真の意味に気づいたときである。

 私は、この中の
この世に自ら決断して
  生まれてきたことに気づき
  魂の真の意味に気づいたときである

 という後半のフレーズに強く惹かれています。この『とき』を探してきたような気がしているのです。あいまいな先にそれが見え隠れしているのです。

 なぜあいまいか、というと『自ら決断して』生まれてくる、とありまが、決断する私 と生 まれてくる私 は普通同時にはありえないのです。が、私のここまでの人生を振り返ると、そのようにおもえる、という意味なら理解できるからです。

 私には、自分を愛してくれたひとを裏切っているのではないかという気持ちが無意識裡にあって、そのことが『私は幸せになってはいけない』という意識につながり、辛いことを選択してきたのではないか、そのように“もやもや”思うことがあります。

 その“もやもや”もその『とき』がきたら、すっかり晴れ、その裏切りと感じている意味、辛いことの選択の意味が分かり、それらに取り組んいける『自由』が得られるように思うのです。

 だから気になるのです。