神社の周りには鬱蒼とした森があった(終わり)

神社の周りの森も、竹やぶも川の流れる音も消え、蝶も甲虫もその姿を減少させ、子供がほとんどいなくなり高齢者が増え、里山が荒れてきた。そして故郷にあった物語性が少なくなったように思ってしまう。多様性が減少した、と感じてしまう。

いろいろな物語があったムラが、明るく衛生的で効率的にはなったが平板な地域になった、かのように感じる。人々が地域を活性化したり、村起こしをしたりする気持ちが伝わる。健康的に生活できる基盤ができた、さらに夢を持って生きることができる地域にしたい、そう考えて・・・

多様性を感じる環境、自然は豊かな気がする。「人はそれぞれ」ということが認められる社会というのは結構大変だと思う。いろいろな人たちがコミュニケーションをとって生き生きと生活できる地域にするためには工夫が必要である。「人はそれぞれ」というのは簡単、それをどうするかである。考え方、感じ方が異なる人たちがチームを作って仕事をするときにどうマネージメントするか、結構大変。

多様性を感じる環境、自然作りにも同じようにマネージメント力が必要だとおもう。

私は多様な自分(これも自然の一部、多様だ!)を次のようにマネージメントしていきたい。

過去の自分に、過去にあった出来事を引き受けさせ
(いまの自分は その教訓のみを受け取る。ありがとう!過去の自分よ)

未来の自分に、これから起こる出来事を引き受けさせ
(いまの自分は 未来の自分ができるってことを信じている、不安を持ったりはしない。 信じているよ、未来の自分。)

そうして、今の自分は、今ここ で感じることをじっくりと味わうのだ。

神社の周りには鬱蒼とした森があった(その2)

里山が荒れている、ように思える。人の手が入っていないようにおもえる。どんどん里の近くにまで木が生え、草はらが穏やかに広がり徐々に山になっていた地域がなくなり、伐採がされないままに伸びた林が民家の近くまで押し寄せているのである。里山にはクヌギやら、栗の木もあって、カブトムシやらクワガタムシ(僕たちはオニムシとよんでいた)が樹液の匂いに集まってくる。地区の子供たちは、どこにそんな樹木があるのかよく知っていて、夏休みには早朝から取りに行くのだ。そのうちの一本の木の近くで網をふってオオムラサキを捕まえたことが一度ある。紫というよりも濃い青色を翅の中にひそませていた。(後でそれがオオムラサキという日本の国蝶であることを図鑑で調べたのだ。)それからは一度も捕まえたこともみたこともない。幻の蝶となった。

神社の土塀の庇にはタテハ蝶の(一種であったと思うが)さなぎがぶら下がっていることがあった。羽化する蝶を見たことがあるし、境内の大木の下で角を生やした蝉の幼虫(冬草夏虫、という漢方薬の材料にも使われるらしきもの、蝉の幼虫に菌類が寄生したものである。)をとったこともある。また、土中の蝉の幼虫をそっとつかみだし、家に持ち帰り、植木の下におく。その夜真っ白に羽化した成体をみたり、朝方、翅に体液が沁み、色づいて飛んでいく油蝉やらニイ二イ蝉の観察を何回も繰り返した。自然の不思議さ は何回見ても私を飽きさせなかった。

里山の近くにはイノシシがよく出てきていたが、たまに猿も出てきていた。タヌキが民家の横を通る水路を出たり入ったりしながら愛嬌のある顔を出していたこともあった。ところが近年はいないらしい、どこに行ったのだろうか?それに代わってこの頃農家の作物を荒らすのは鹿である。夜陰に乗じて野菜、木々の若芽を食べているらしい。鹿用の背の高い防御の電気柵を張り巡らした畑が山のふもとにある。去年には、なんと 私の実家では両親が家屋に入り込んで棲んでいた帰化したと思われる アライグマ を捕まえたのである。何が起こっているのだろうか?田畑だけでなく、山の中も変化しているのであろうか?

整備された圃場は米つくりの仕事を効率化した。数反の田も1日もあれば十分田植えも済む、稲刈りも1日である。水路は整備され、川からモーターで組み上げられた水が勢いよく田植えシーズンにはよどみなくたっぷり流れている。人口の水路と区画整備された整然とした水田、そこに田植え機が入りエンジン音を響かせながら田植えは進む。除草剤、除虫剤を適宜散布して、水を調整していればほとんど計画通りの収穫が得られる。しかし稲作による収益は赤字か、せいぜいトントンではないのだろうか。投資にすごくお金がかかるのである。

1955年頃からの日本における高度経済成長の波は、農家にテレビ、洗濯機、冷蔵庫、掃除機等々電化製品を次々と運び込み、同時に耕運機、コンバイン、軽トラック、田植え機等々エンジンつきのものを運んだ。子どもたちは、都会に行き、成長の波の中で夢を見つけようと思い、成績の良い高校生は偏差値の高い大学を志向した。自己を掘り下げなくとも夢が外側にあるように思った。教師も大学を目指すことを奨励したものが多かったように思う。親も跡を継いでほしい(代々守ってきた家屋、山林、田畑を守ってほしい)けれど、子が将来を帰郷し同居することを期待しつつムラをでて、町に行くことを認めた。多くの人々は疑わなかったし、深くは考えず、流れを信じていた。やがて、経済的に無理をしてでも子供たちに大学までいかせる家庭が増えていった。若者はどんどんムラから離れて進学就職し、過疎化、高齢化が進んだ。

40戸ほどのムラにも小学生が20人ほどはいたように思うが40年後の今は2人(それも都会から移住してきた家族の子供)だけらしい。若者の多くはムラを離れた。ムラは激変した。これから、どうなるのだろうか?

大きな変化はゆっくり進む(その3)  神社の周りには鬱蒼とした森があった

神社の境内からは子供たちのソフトボールをする歓声が聞こえていた。鳥居を超えればホームランであり、そこを一部の運動能力の高い少年達はバットでうち超えた。境内北側には石垣がありその奥は神社を外界から遮るかのように森があった。さらに西側には幅12,3メートルほどの川が流れていて、それほど高低差はないが堰があり、水音が神社の境内まで聞こえてきていた。

境内の南東から東の位置に川は流れていて、その岸には竹林が広がっている。また西側には一段高いところがあり、そこには祠と小さな鳥居、樹齢が百年以上の樹、むくろがあって中にも何かが祭ってあるような大木やら、銀杏の木、大人の背丈の数倍もある巨岩等々があった。神社はたくさんの自然に取り囲まれていたのだ。

鳥居から神社に入れば、そこは日常とは異なる空間であったのである。それが40年後のいまではすっかり取り払われ、境内の樹木こそ残っているが、森はゲートボール用のグラウンドになり、竹林は切り倒され、川は圃場整備に伴って流れを変えられ、その水音は境内には聞こえてこない。開けた空間になり、何かがそこに住まわっているような物語は生まれなくなった。

神社の変化も大きいが、それは衛生的で明るくなったともいえる。それよりも大きな変化は、そしてこっちのほうが重大ではないかと感じるのは虫たちがその種類も、量も劇的に減っていることである。

5月の連休に丹波の里に帰った時、とくに気がついたのはそのことであった。まるでレイチェルカーソンの「沈黙の春」ではないか、そう感じてしまった。虫取り網とかごをもって菜種畑に行ってみればモンシロチョウやらモンキチョウやらが複数匹がまとわりながら飛んでいたり、花を見れば蜂やらあるいは小さないくつかの種類の甲虫たちが身を潜めていたように思う。時には小さなカミキリムシもいた。が今は視界に入るのはやっと2匹くらいの頼りないモンシロチョウだけであり、花に虫はいない。

虫がいないのは、嫌いな人にはいいかもしれないが、でも虫がいないと多くの果実は実らない。

大きな変化はゆっくりと進む(その2)

人の成長はゆっくりと進むのに、僕たちは待てずに木を割って覗き込み、あれこれといじくりまわし、阻害することも多いようにおもう。

7、8歳から15歳くらいまでの子供たちの学習指導では、つい自分目線でその子の成長を見てしまい「こうすればもっと効果がある」などと思ってしまい、余計な助言、支援をしてしまっている人は多い。

子供の成長を待てないのである。まっすぐに、効率的に学ぶことが栄養になるとは限らないのに。じれったくてついつい先走って子供をつつきまわす人が多い。木を割って芽を摘むのである。

その子は敏感に反応する子供であった。他人の言葉を気にしてしまい、我を見失い言葉に振り回されてしまうのだ。コントロールされやすいのである。学習は少し遅れているが、それは自分の頭で考える習慣が見つかっていないからのように見える。

この1年でそれが少しずつ変化しているのがわかる。本質的な、大きな変化はゆっくり進むのでわかりにくいが、焦って余計な手を入れると成長が歪むので注意が必要だとおもってきた。学ぶことの実感をつかめればもっと深く理解でき、しっかりと進めるはずである。

人は本来「成長したい存在である」ことを信じて向かい合うことは本当に大切である。それは相手をどんどん理解することにつながっていく。

ものがたり

固有時、という時間があるらしい。現代物理学では時間はそれ自体が独立してあるのではなく、物質の変化に従属しているというような意味らしい。確かに変化のまったくない宇宙のどこかでは時間はない。

お金も、貴金属も、土地も、そのようなものが人々の心を引き付けるのは、それらがなにか「ものがたり」を生み出しそうな気がするからだ。物事が変わっていくことを話していくことが物語である。良い物語は、その移り変わり、順序が心に訴えかける

ものがたりの中で僕たちは時間の流れを感じる。今どこにいるのか、どこから来たのかなど生きていることの意味を知る。20世紀から21世紀にかけての数十年、世界は劇的に変化していて、そこで生きている僕たちは本当にたくさんの ものがたり を味わっているのだと思う。

僕自身のこれまででも、生まれてから今まで、たくさんのことがあった。それらはズシリ、ズシリと心の中を去来する。際限なくさまざまな映像が流れだしてくる。ものがたりがいっぱい出てくる。僕たちの固有時は太く激しく波打っている。

人とコミュニケーションをとっていくことは ものがたり を共有することでもある。あなたのこれまでの ものがたり をぜひ聞かせてほしい。じっくりときかせてほしい。そんなコーチングはとても楽しい。

彼は自分をさらけ出すことができる

正直は最大の戦略ということを30代で知りえた彼は、自分をさらけ出すことをあまりいとわなくなった。そのことで得たものは落ち着きと自信である。

「自分のことをさらけだしすぎ、相手を考えて話さないと。」

と忠告する女性の部下もいた。それからは言い方には気をつけるようになった。でも、出さないのではなく、相手に応じて表現を変えるのである。

この世界は時間も空間も同じ次元としてあるのだ、ということと私たちがある特定の意識を持って生きている時に出くわす現象は関連があるのだろうか。強く問題意識を持って考えているとヒントになるような事象やら、解答に出会うことが多い。強く願えばかなう、とか、そんな現象である。

正直に生きること、さらけ出すことは彼にとって誠実に生きることにつながる、そう考えているのである。世渡りをうまくやるためには、時には嘘をついたり、脅したり、いろいろとやらないといけないのかもしれないが、それを彼はやらない。

誠実に生きるとは社会規範に従っていくこととは限らない。自分を信じて生きることの意味に近い。ゆっくりと歩いてきたのである。だから今でも自分の成長を信じられる。

おおきな変化がゆっくりと進む

脳の中,ニューロンが伸びて新たな神経のジャングルを創りだす過程は、植物の成長と同じようにゆっくりと進む。それは人格の変容やら、さまざまな能力の伸長からわかることだ。

木を割ってしまい、早く成長を見る人が多い。割れた木は元に戻らず、その人の芽を摘むことになる。もっとも大切なことは木を割らないことだ。それには見えないものを信じる力が多分必要だと思う。たとえば、早急に結論を出し、決めつけてしまうことも木を割ることの一つだ。

夫婦に子供が生まれる時、それが男の子か、女の子かどちらかにやきもきすることもある。(男がよいとか、女がよいとかということではない。)しかし世界中でみれば男も女も同じように生まれる。ある夫婦にとってみればどちらが生まれるかはわからない。でも統計的に見ればどちらも同じ数だけ生まれる、という真実がある。

そういう真実を求めて僕たちは学び続ける。今はわからないかもしれない。しかし、学び続ければ真実が見えてくることを信じている。木を割ってはいけない。

 人の成長は目に見えないけれど、ゆっくりかもしれないが変化していくことは間違いない。それを信じることだ。

悩みがあったとしても

生活時間を3つに分類する。
1.痛みや、苦しみそのものを体感している時間
2.(悩みや不安、不満があったとしても)普通に生活している時間
3.喜びを感じている時間
このように生活時間をわけて考えると、私たちはほとんど
   2の時間+3の時間
を生きているのではないのだろうか?

 「1の時」が来ることを恐れているのが「2の時」であるが、ここに大きな個人差があると思う。普通に生活できる時間であるのに、不安やら苦しみやら不満を心に抱き、生きている充実感がもてない。人生を幸せに生きることができるかどうかは、この「2の時」の過ごし方次第である、それはその人の考え方、行動の仕方如何である、と思う。

 「2の時」を(つつがなく)過ごせる時間と“昔の大人たち”は名付けていた。不幸な出来事はたくさんあるけれど、多くの“不幸なこと”は(つつがなく)過ごすことができないことからきているのではないであろうか?

 仕事がうまくいかない(でも仕事はあるし・・・)、給与が安い(でも無給ではない・・・)上司とうまくいいかない(でもいつも叱られ続けているわけではない・・・・)、夫婦仲が悪い(でもいつも喧嘩し続けているわけではない・・・)・・・・。このように考えてしまうと不幸な時間ばかり、でも
(・・・・・・)から入れば考え方が変わり(つつがない)ことへとつながるのでは。

 自分の生の大きな割合である(と思う)「2の時」を正しく理解できれば、安心して、次を追求していくことができる気がする。生き様である。人の器の大小はそんなところに表れる気がする。

思い出から

幼稚園児であった2人の子どもたちは、父の大きな上着を着たり、革靴を履いたりして嬉々としてまとわりついた。たまに夕方に帰宅した時、食事をしていても飛び出してきて玄関で抱きついてきた。

小学生の低学年までに彼ら(息子たち)が父に与えた愛情は、どんなことがあっても、彼らを見放さない、守り抜く、そんな決意を父にさせた。

中学生から高校生にかけて兄は家庭内で暴力をふるったり、ナイフやらモデルガンをもって喧嘩に行こうとしたり、退学すると言い出し、荒れに荒れた。110番に連絡して暴れる息子を抑えてもらったこともある。その後も父は変わっていく息子を茫然と見守りながら、でも一緒に付き合った。

一家にとって苦しい数年間を終え、高校の卒業式で同年の卒業生の顔つきを見て、彼らそれぞれがその胸の内にドラマを抱えて数年間過ごしたことを感じ取った。教頭は保護者に向かって最後にこう言った。「どの子も、本当に一言では言えないほどの様々な体験をしてきて卒業していきます。・・・・。」

父はそのことをしみじみと感じていた。

1年間の浪人生活を経て兄は上京して大学に通い始めた。そして初めての帰郷の際、兄は父に向ってこういった。

「とうさん、僕は本当に恵まれていたと思う。」

父はその一言で救われた。

日常から(言葉の重み)

【あなたは「大きな目標を持って、前向きに生きていかないとやりがいは見つからない。どんな仕事でも集中して、心身全部で取り組めば、継続すればやりがいは見つかる」と教えてくれました。】

と、男の一言の「愚痴」に対して彼は静かに返してきました。そして、

【僕はいま、研究づけの毎日です。朝から晩まで研究しています。ひょっとしたら結果は出ないかもしれないけれど、でも精一杯やって後悔のない1年にしたいと思っています。受け身で人生を過ごすような、どこにでもいるつまらない人では、あなたにはあってほしくない。】

男は、自分が繰り返し息子に伝えた言葉を聞かされてはっと目が覚めた。繰り返して自分に言い聞かせてきたこと、それが伝わっていたこと、そして再び戻ってきて彼の胸を熱くした。

息子は、午前3時頃やっと部屋に辿り着き、眠る前に父にメールで伝えてきた。