わかるということ(2)

「わかる力」を阻害する一要因を考える教育コーチの超介です。

 学習指導をしていて、「なぜ、きちんと学べるこの子の成績がこんなに悪いのだろう?」と思うことがあります。保護者と面談をしてそのことをお伝えすると、よく出てくるのが「いじめ」です。子どもたちが学ぶ場において、のびのびと学習できない状況であるなら成績が良くなるはずはありません。

 「認知コスト」というようですが、いじめられることが気になって、どうやり過ごすか、耐えるかにエネルギーを使って、課題に集中できないのです。成績が悪くなるのは、すごく当然です。脳の回路をいじめ回避のためにフル回転するのですから。大人だって、職場でいやな上司、同僚、あるいは厳しい評価にさらされた時、それらをどうやり過ごすかにエネルギーを使ってしまいへとへとになり、その人らしい仕事ができない、創造的になれないこと、理解できますよね。

 この「認知コスト」は人によって違います。人の言葉に大変敏感に反応してしまう人もいます。そうでない人もいます。(私も「認知コスト」が大きいタイプでした。この頃はしたたかになって・・・。)「わかる力」はもちろん「認知コスト」をかけないほうが大きくなります。ストレスがたまるとやる気がでない、前向きになれないですから。

たとえば「いじめ」がないようにすること、怖い上司がいない職場等の環境整備ができれば「わかる力」は伸長するのですが、でもそのような理想的な環境はつねには望めません。個人の耐性にも違いがあります。

 ではどうすれば「認知コスト」を下げることができるのでしょうか?

たとえば

環境を変える→環境を認識している自分を変える→考え方を変える→「認知コスト」を払っている自分に気がつく→具体的な行動に気がつく→・・・・・・

「教育コーチング」はこのような流れを支援することができます。時間はかかりますが、でも「いじめ」を受ける側、行う側に分けて、理屈をつけて説得して・・・・、というだけでは状況は改善しにくいのではないでしょうか?

わかるということ(1)

 認識することについて振り返る教育コーチの超介です。

 20年程前、新部門の立ち上げにかかわり、不安や悩みに取りつかれて悪戦苦闘していた時のことでした。実家に帰省し、その悩みを話していると、当時60代の父親から「お客を集めてサービスを売ること、それだけだろう」と喝破されたことを思い出します。

 その時は気持ちを理解してもらえないもどかしさもありましたが、そのもどかしさは仕事以外のことから派生するものでした。問題を単純にとらえればよいのに、いろいろなものをまとわりつかせてしまい、底なし沼にはまったかのような心境でした。

 父親のアドバイスはコーチング的ではありませんでしたが、端的でした。認識するとは「知ってわかること」ですが、往々にして見えているはずであるのに、わからないことが多いものです。20年前の私は仕事の概要がわかっていませんでした。残念ながら父に指摘されてもわかりませんでした。今は父の言葉の意味が大変よくわかります。

 こんなことを書いているのは、実は「わかるようになる力」(部分をみて全体が理解できる力)を育コーチングは伸ばすことに寄与する、そう思うからです。私たちは、はじめてみる犬でもほとんど「犬」であることがわかります。(馬のように大きい犬や、鼠のように小さな犬ではわからないかもしれませんが)これは、当たり前のようですが、でも不思議なことであると思いませんか?はじめてみるのに何であるかわかるのですから。

 子供たちに教えていると「なぜわからないんだろう」と思うことがよくあります。答え、解法を教えて、結果として問題が解けることより、「わかる力」が伸びるほうが価値があると思っています。「わかる力」が伸びるとその生徒のモチベーションが上がります。一つの現象を見て全体を把握したり、予測したりする力につながるのです。その次を挑戦する力につながります。「わかる力」が伸びる環境作りを工夫してきました

 ポイントは1.到達度に応じた課題 2.考えること(教えないこと) 3.スピード(集中) この3つだと思います。

 教育コーチングでは「答えがその子の中にあること」つまり「問題の解決をその子自身がすること」を信じて、子供と寄り添います。そのことは子供の「わかる力」の伸長に効果的なのです。「わかる力」は生きる力に直結します。ものすごく大切な力なのです。これについてはもう少し続けて考えてみたいと思います。お付き合いいただければ幸いです。

出会い(3)ー1週間で出会った人たちー

 人と出会うたびに発見をする、教育コーチの超介です。

 ある喫茶店でアルバイトをしている若者です。大学に行きながら国家資格取得を目指しています。大学の授業を受けた後で、専門学校の授業を受け、自習室で残って勉強、ダブルスクールで頑張っているようです。大学の友人たちが就活を始めるのに少し不安を感じながら、バイトと大学と資格試験で忙しい日を送っています。仕事に向かう姿が大変真摯で好感が持てました。

 向上心が強い某上場企業の営業マンと出会いました。始めての訪問でしたが、1時間半ほど話し込んでしまいました。どのような仕事をしているのか、あるいは自己研鑽をやっているのかを話してくれます。何が彼をつき動かしているのか、何かを彼はつかんでいるに違いない、それに興味があります。私の学びを話すと、彼も興味を示してくれ、講演会への誘いなどしてくれました。

 県警の幹部の人とお話をする機会がありました。近年、犯罪が近視眼的に起こる、つまり手短なところでお金を得ようとする、今使えるお金を強奪する、数万円でもよい、というような傾向にあるとのことです。コンビニ強盗が増えているとのこと。そのような傾向への対応として大変な努力をされていることを知りました。多忙な地検の勤務者の実態も少しうかがうことができました。治安活動を通じて社会の変化を感じ取りました。

 ある専門職の勤務者と面接をする機会がありました。機械の働きが気温、湿度、材料の特徴によって異なってくるので、どのように調整するか、自在に扱えるようになるには1年はかかると。彼は自分の仕事にプライドと自負を持ち得ています。たくさんの業務に関する記録を取り、「仕事は記録である」(これはわが社の創業者が残した言葉です)を実践しています。

 マイクロカウンセリングのセミナーを受けました。講師は1980年代にアレン・E・アイビイ(マイクロカウンセリングを始めた人)夫妻から学んだとのこと。地方からそのために上京する彼の30年前の姿とその心境を想像しました。マイクロカウンセリングとは何か、それは様々なカウンセリングの良いところをまとめ上げたもの、だそうです。カウンセリングの進度にはスケールがありますがこのスケールを読んでいると、どのように話が聞けているか、一緒にいることができているかの自己評価ができそうです。

 産業医の先生と話をする機会がありました。穏やかな方ですが、医療のプロとしての知恵を伝えていただくだけでなく、高校時代に物理学を一時志向したこと(湯川博士等に対するあこがれ)、医学を志したきっかけ(恩師との出会い)、英語脳(米国滞在中に英語のTVを数カ月見続けていると、ある日突然に理解ができるようになった)等のお話を伺うことができました。

 中学時代の恩師からハガキをいただきました。美しいマチュピチュの絵葉書に几帳面な文字で小説(文学賞に応募、入賞されました)の感想を書き送った私への御礼と、小説の真意について述べられていました。定年退職後にも、文学に挑戦されている恩師を誇らしく思います。

 上記の出会い以外にも、この1週間でさまざまな出会いがありました。そこから得られる体験情報は私を大変豊かな気持ちにしてくれました。このような出会いも、「傾聴・質問・承認」がきっかけとなっています。学んでいなかったらきっと「すれ違って」いたに違いないのです。
 
 教育コーチングとの出会い、そしてたくさんの人との出会いに感謝をします。

本との出会い(2)

 理想と現実のギャップを埋める修行をする超介です。

 以前から読んでみたい、と思っていた本に書店で出会いました。11月の書籍購入予算はオーバーしていましたが、『人生への投資、投資、・・・』とつぶやいて買ってしまいました。それがこの『コーチングリーダーシップ』です。副題に『神戸大学ビジネススクールで教える』とあります。Gさんが著書を紹介されていた金井先生、そしてビジネスコーチング界の伊藤守さん、鈴木義幸さんの共著です。

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 最初の章で組織行動論の流れを金井先生が説明されていますが、心理学、認知科学等やら組織論のうねりが概括されています。私が興味をもって体験的にも学んでいる内容がどのように発展してきたか、大変わかりやすく書かれていました。

 コーチングについては著者のうちの2人の専門家の著書を何冊か読んでいましたので、比較的容易に理解できました。コンパクトにまとまっています。特に興味深かったのは企業への導入の効果が数値化されていること、そして導入の実例です。

 企業で求められる人材と現実の人材とのギャップから、組織の運営の仕組みが理想からは遠いこと、でも逆にうまく組織が変われば大きな成果がありうることを思いました。導入実例では大手飲料会社と、電力会社が紹介されていますが、会社で働いている私には結構リアルでした。

 「ソーシャル・キャピタル(社会関係資本)の蓄積」という表現にすっきり感がありました。私が知らなかっただけでしようが、的確に外形を捉えた謂いであると思ったのです。

 この言葉に関わる個所をあげてみると

  

「人と人との関係性は、いわゆる組織の基盤であり、ソーシャル・キャピタル(社会関係資本)が蓄積されることで組織のパフォーマンスは必ず高まると考えている。」

  

「人と人との関係性の問題に正面から取り組もうとする企業は、残念ながらだ少数派である。」

 

ありがちな組織風土として3つの型が紹介されています。「孤軍奮闘型」「井戸端会議型」「軍隊型」、後の2つは大体想像できると思います。一番目は次のような説明があります。

 

 「「孤軍奮闘型」の組織は「自分はこの会社にいてもいいのだろうか」と社員が 不安感を感じる状態にある。それぞれが自分を守ることに精一杯で、人とかかわらないようにす る傾向が強い。逆に他人の気を引くために怒ったり、すねたり、人を攻撃したりする行動もみられる。」

 

 私は自身の会社人としてのあり方を振り返り、大いに反省しました。怒ったり、すねたりはしていないつもりではありますが・・・・。どちらかといえば孤軍奮闘型的であり、そこからくる不安を抱いていることがあることを・・・・。そうして課題に気が付きました。

 それから組織の未来、リーダーの能力に関しての記述として

   

「チームを構成する一人ひとりがバリューチェーンにおける自分の仕事の意味やつながり、楽しさを見つけなければ生産性は高まらない。」

   

「自己認識を高く持ちながら、伝統的な組織図にある枠や境界線を越えて、フ ァンクションや場所、社外の利害関係にまたがって効果的に仕事をする能力 が必要とされる。」

当たり前のことかもしれませんが、組織の一員として使命を感じました。 

 いくつかの部門がある組織で働いている人、組織内コミュニケーションに興味がある人にお勧めの一冊です。

感謝の心(2)

 感謝の心を感じることにより自由になる超介です。

 幼い時代に父母がしてくれたことを思い出し、感謝をした時、その時、幸せな感情に満たされた。
だから、幸せは私と人の間にあり、さらに感謝のこころの近いところにきっとあるとおもう。

 年上の友人が『おまえは恵まれているのに、そのことが分かっていない』ということを話してくれたこと―(11月18日)のブログ―と同じようだ。彼には 気がついていない私の姿 が見えているのかもしれない。

 本を読んで、いろいろとトレーニングもして、孤独な戦いをしていた私は、やっとそのことに気がついた。孤独な幸せというものは存在しないということに。

 ほんの数年の受付の仕事を明るくやってくれた女性がいた。軽自動車いっぱいに職場の人からの花束、鉢植えやらの贈り物をもらって、笑顔いっぱいで辞めていった。

 有能ではあったが、最後は質疑応答のようなやり取りで権利を確認し、見送られることを拒否するように、逃げるようにして辞めていった人もいた。

 後者のほうが給料もよくて、仕事もバリバリこなせたのに前者のほうが幸せそうであった。

 他人の一言から気分がふさぎ、そして、その人を拒絶し、孤独の闘いを始めることが私にはよくあった。しかし、それは他人の一言が要因ではなくて、私が記憶の呪縛にとらわれていることがほとんどであった。 その一言が引き金になっていた。(ように思う)

 その一言が、私の心の奥にあるいやな思いを引き起こすようになっていたことに気がついた。そのことに気がついてから、私は自由になれてその人に対しても積極的にかかわれて、孤独の闘いをやめることができ、幸せになった。

 それは幼いころの両親の思いに気がつかずに、勝手な振る舞いをしていた自分に気がついたときと同時であった。それに気がついて感謝の心があらわれた時、私は幸せになった。

 つまり、幸せは私と人の間にあって、感謝の心に近いところにあるに違いないのである。

感謝の心

 感謝の心を味わう超介です。

 これまでに楽しかったこと、うれしかったことを書きだすセルフワークをやっていました。最初は『そんなにうれしかったこと、あったかなぁ』と、感じながら始めました。『そうだな、真鯛を釣り上げた時があった、あれは感動した』『資格試験に合格した、あれも苦労したので、合格の賞状が届いたときはうれしかったな』と書き始めました。

 それから、いまは亡き祖父と松茸取りに行ったことを思い出します。小学生の低学年の思い出ですが、その時の土のにおい、中腹からの松林になっていて、腰を曲げて地面をあちこちながめながら、落ち葉が盛り上がっているところ、松の木の根もとをさがしたこと。そっと土からはがす時の感触を思い出します。

 いつの間にか用意した12枚のカードは全部埋まり、当時の見たこと、におい、味わい、考えたこと、感じたことがよみがえります。そして私が特に父と母、そして祖父から本当に愛されていたことに気が付きます。当時は感じていなかったけれど、いまはそれがはっきり自覚できるのです。

 大変おとなしい子供であった私、特に母からは本当に大切にしてもらっていたことが分かります。その時は意味がわかりませんでしたが、いまはすべてわかり、大変幸せであることを感じます。

 小学3年生の時、学芸会で歌の発表を父兄の前でしたこと、私に自信を持たせるために母が担任と相談して決めたことのようでした。虫やら植物に興味があったので、大人の自然愛好会に話をつけて参加させてくれたこと、運動会で体調がすぐれないのに一緒に走ってくれたこと、プラモデルを一緒につくってくれたこと、シダ植物の採集を手伝ってくれたこと、誕生会を開いてくれたこと、乳牛の世話を一緒にしたこと、・・・・・・・数え切れないほどの出来事がよみがえります。それらのたくさんの事柄の、その時々の母の気持ちがわかります。母自身は無心でやってくれたに違いなのですが、それらの行為の奥にあるものが想像できるのです。

 感謝をしています。
母さん、父さんありがとう。
長生きしてくれよ。

 そのようにしみじみと思いました。

ある日の夢から

 夢の意味を考えている超介です。

2週間前になりますが、久しぶりに夢を覚えていました。

 自宅にあるせまい庭の片隅に椿があります。その周囲にダリア(球根)を植えると妻がいいました。
そこで庭を見ると、彼女が椿の周囲にぐるりと穴を掘っています。妻は姿を見せません。土が周辺にかたまっているので、私は自分の足でそれをどけようとしますが、なぜか土が重くて動きにくいのです。

 それから場面が変わって、携帯電話をみていますが、それがどうも自分のものではないような気がします。シルバーの比較的丸い形態のものです。変だなと思っていると、また別のものが出てきます。ますますわかりにくくなってきます。

 さらに場面が変わりました。公共施設のようなところで友人に出会いました。この友人は細かいところに気がつく人です。彼にある人を紹介してもらいました。その人はどうやらその施設の長のようなのです。私は尊敬できる年長の人と話がしたいと思っていたようです。

 ベンチに座って紹介してもらって話をします。傾聴を意識していて、楽しく会話ができています。途中でお昼であることに気がついて、友人はお弁当を2個持ってきました。私の分はありませんので、荷物はそこに置いて、買いに行きました。

 ところがお店に行くと、お弁当はもう売り切れていてありません。それで、さらに歩き次のお店で食事をすることにしました。食べ終わって時間がたっていることに気が付き、自分の荷物を置いていることに気がついて、どうしよう、と焦っている時に目が覚めました。

 今回の夢は意味がピンとこない部分が多かったのです。一つだけわかること、それは私はメンタ―のような人を探していて、その候補者が夢に現れたようです。それ以外の部分は何を意味しているのか不明?想像できることがあればだれか教えてください。

(追記:ブログに書く私自身の内容はほぼ事実です。人のことを書くときは表現したいことの本質は変えていません、が年齢、性別、場所、時、ストーリは脚色しています。)

出会いから(3)

 子供たちからたくさん学んでいる超介です。

 かつて出会った会話の少ない小学生の話です。お母さんと面談した時にも、そのことが話題に出ました。国語は苦手でした。言葉を出さないので、さもありなん。話はしませんが、動作はてきぱきしていました。口はほとんど動きませんが、目は動きます。目で会話するのです。私が話しかけると、彼は表情で答えるのです。もちろん笑いもします。

 私は、『もう少し話そうよ。』と言ったりはしますが、でも彼とのコミュニケーションはきちんと取れているように感じていたのです。意味のない会話をするより、よほど本質的なやり取りができます。「言語による会話の情報交換は全体の17%」でしたか、それぐらい、というのがよくわかります。彼とのコミュニケーションがそれを証明してくれました。ストレスはありませんでした。それよりじっくり感じることができるので楽しいくらいでした。

 日常の会話を振り返る時、意味の含有量の少ない言葉を発する時があります。建前だけから出てくる言葉であったり、思いつきであったり、その場しのぎであったり。それが、有効な場面もあるかもしれませんが、混乱したり疲れたりすることのほうが多いのです。意味のない言葉が多く飛び交うより、沈黙のほうが価値あり(と思います)。

 彼とのコミュニケーションに戻ります。もちろん、話をしないので彼自身の自己主張は弱いのです。でもそれは彼がなにも考えがないことを意味するわけではありません。何かをもっている人、のように感じていました。言葉は少ないですが、強い個性の持ち主だったのです。

目、表情でコミュニケ―ションを続けながら、彼が気持ちを開いたり、考えを深めたりする様子を見ていました。今は、話をしているようになっているかもしれません。

出会いから(2)

 少しずつ自己理解が進行している(つもり)の超介です。

 自分の気持ちにじっくり付き合い始めて、少しずつ心の動きが理解でき始めました。自分の気持ちを時々点検すると、心が1日の中でどんどん変わり続けることがわかりました。これまでは、そのことに意識を向けていませんでした。時には、ウツウツとした状態にはまり込んで、抜け出せないような時もあります。(これは大変苦しい、言葉では表現できにくいのですが。)

 これまで無視していた心の動きに気をつけ出すと、大変苦しいと感じることが出きてきたような。今まで踏みにじってきた気持ちが現出してきたような・・・。これはつらいけれども、でも正しいことのような・・・・・。

 未知な仕事等(と感じている)ことがあると不安が高まります。不安がどんどん拡大することがあります。鼓動が高まりその仕事の前日は眠れないこともあります。でも「できないことはできない、できることはできる」と冷静に割り切ることができれば解決できます。少し高い立場で見ることができればよいのです。

「心は脳が取り扱う情報空間である」という解釈があります。脳という臓器の中で起こっている現象であると心をとらえることができれば、たぶんもっともっと楽(自由)になると・・・。

 物事の意味に注目していくと、そのことに対する対処の仕方が見えてきます。少し高い立場で見つめること(抽象化能力だと思いますが)、それが高まると対処の仕方が見えてくるのです。

 機会があればその仕事の意味、出来事の意味を考えます。全体あるいは大きな流れとの関係に気がつきます(部分と全体の構造に気がつき、わかったという感じになる、これをゲシュタルトというそうです)。

 おそらく仕事ができる人は、きっとそのように把握できているので、ポイントをつかんで効率的に対処できるのです(あぁうらやましい! あぁうらやましい!)。 そのように物事を抽象化して捉えるようになりたい!

 それだからこそ、目標を立てる、ゴールをイメージすること、青写真を描くことが物事を進めていく上で重要なのだと。目標、ゴール、青写真、どれも抽象化の行きつく先なのですから。

 いつも仕事をやらされている(やらされる仕事は、仕事ではなくて作業なのですが・・・)あるいは人生に流されてしまっていると、その意味が把握しにくくなります。(反省、反省、反省・・・)

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 人間関係にゴールはないかもしれませんが、人と出会い、その意味を味わう(抽象化)のは、良い関係つくりのために、上手な関係つくりのために、だから、必要だと思っているのです。

出会いから

人と出会うたびにその人のこと、自分のことを想像するようになった超介です。

10歳年上の人生の先輩。話好きである。話を聞いてほしいのに、言いたいことをどんどんいう。途中で彼の話を遮って、そのことを伝えても、わかってもらえない。最初は聞くことができたが、繰り返されると聴くに堪えなくなった。私は、自分を薄情な奴だと思った。(たまに会わないと、会いたいと思う相手であるのに。)

 ある年長者と話をしていて考えが違うな、と気がつく。ふと自分の手を見ると怒りで震えている、お腹の奥でどきんどきんと波打つものがある。相手の一言がわたしの何かに触れた。相手により、心的態度(無意識理の)が変化している?生身、無意識理の自分の許容範囲に気づく。

 電話で2回相談をした女性と出会うことにした。
「主人が存命中にいろいろと物見遊山をさせてもらいました。その分苦労もしないといけいない、ということでしようかね。娘も仕事が忙しいので、それで私が孫の(中2男子)相手をしているのです。」 「私は弱いので、孫も遠慮なくものを言ってきます。ある日はお祖父さん(亡き夫)の仏壇をいたずらしようとするので、悲しくなって泣きました。」70歳前後の女性である。
話をお聴きしただけであるが。私のほんの一言をも、メモを取られ、「心がすっきりしました。ありがとうございました。」とおっしゃってかえられた。私は、彼女のこれまでの生涯を想像した。

 頭の回転は速いのに、粗暴なところがある生徒がいる。担当から相談を受けたのでその生徒と話をしたり、指導したりした。別れて暮らしている父親と母親にも別々に来てもらい話を聞いた。充分時間を取ってもらえず、途中で用事があるからといって出て行かれたお母さん。「厳しく対してください」と注文をつけて帰られたお父さん。その子供と両親のふるまい、表情を思い出しながら、楽しくない人間関係を想像してしまった。もう一度会うべきかどうか迷っている。