「愛する」について その4

 超介です。

 俣野温子(マタノアツコ)さんという美術家を知ったのは愛媛県今治市にあるタオル美術館でした。地場産業振興のために作られたその建物はタオルの製造工程、ムーミン展、俣野さんのコレクション(タオルをつかったアート)等の展示を見ることができ、タオル製品のみならず愛媛のさまざま加工品が販売されています。今治市郊外の朝倉というところにあります。

  これがタオル美術館、大きくて立派な建物です。鄙にはまれな・・・というような。
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 俣野温子さんの作品は何室にもわたり展示されています。たくさんのタオル地で作られた実用品の衣類、小物、それからアート等が展示されています。その中の2つの詩に心を奪われました。

 ひとつは「海の住処」という、音楽と詩と映像(アニメ)をくみ合わせたもの。照明が落とされた空間に大きなスクリーンがあり、そこに数分間の物語が繰り返し上映されています。ソファにすわり、リラックスして視覚と聴覚 を開放していると、命のつながりとそのはかなさを主題にした物語からは、あたたかいような、かなしいような感情がうまれてきます。
 
 もうひとつはタオルができるまでをうたう詩です。地にまかれた一粒の種が芽を出し、根が生え、花になり、摘み取られて糸になり織り込まれてタオルになって、・・・という物語がタオル地に文字でかかれているのです。 
 

 その中ほどにあったフレーズで す。
       雨はあなたにやさしかったですか 
              風はあなたにやさしかったですか
               ひとはあなたにやさしかったですか
というところを何度も読み直しました。愛情があふれているからです。
 
 この美術館の入り口ではタオルの製作過程を見ることができます。綿のかたまりから細い細い糸がつむがれ、それがより合わさり、少し太めの撚糸になります。その糸巻きが数十本も横に、かつ4列に並べられた機械があります。糸巻きの群れを搭載した機械からは、模様がえがかれる様に設計された動きからのカシャカシャという音が聞こえてきます。設計された模様にあわせた楽譜を演奏す楽器。出来上がるタオル地により奏でる歌が違う のです。 

 何十本もの撚糸が糸巻きから少しずつ、2,3メートルの高さまでひきだされ、それから人の腰くらいの高さのところまで降りてきて、縦、横に織り込まれ、タオル地が出来上がります。たくさんの綿と糸、そして撚糸の糸巻きが縦、横4,5メートルほどの大きな3種類の機械をとおるうちに、触りのよい、やさしい大きな布が出来上がるのです。

 か細い糸が人をやさしくぬぐったり、包んだりすることができるタオルになる過程を見ていると、ひとのために作られる製品にやさしさが織り込められているように思うのです。

 さらにこの詩ではその前の一粒の種が育っていくところからをうたうっています。タオルという製品の心を言葉で表しているのです。

 俣野さんも 心を言葉で表すこと について書かれています。あるとき魔法のように心をうつす言葉が出てくるようになったと。

 名文を繰り返して読んだり聴いたりして耳に慣れさせて、どこかでそれを聴いたり、見たりしたときに新鮮な感覚がおこります。

 リーディングをし、声に出して文章を読んでいる自分を意識すると、その読んでいる言葉の奥に織り込まれている想いに気がつくことがあります。

 少し前までは気がつかなかったのに、あるときから言葉に心が敏感に反応することがあります。それはその人の中で何かが変化したからです。

 会話の言葉でもそうです。人が発する言葉を受け止めることができず、素通りしてからしばらくしてその意味がわかったり、でもそのときにはもう遅かったり・・・・・。

 そして、もっと丁寧に読んで、聴いて、話して、書こうと思うのです。
 

「愛する」について その3

超介です。

  何かに対する感情が変わる瞬間を自覚したことはありますか?
  たとえば対象が人、好きになるのであれば恋の始まりの瞬間です。
  
  18歳のとき、丹波から四国松山に移り住みました。見知らぬ土地に来てから15年後の秋の日にその時が来ました。突然松山が好きになったのです。まだあたりは明るかったので土曜日の午後であったかもしれません。仕事を終え、非常階段をおり、建物から離れ、遠く四国山脈を見たとき、この地が好きになっていることに気がついたのです。

 それから好きになる瞬間ではないのですが、理由がなく、突然涙を流すことがありました。胸が急に苦しくなり涙が出ます。郊外を車で運転中でした。高速道路の高架のしたを走っているときでした。それ以来涙もろくなったように思います。それからしばらくして、その過程が理解できました。
  
 この2つは意識裡のことではありません。無意識裡のことです。魂の世界で進行していることが表出したのだと思います。
 
 生活の中でいろいろなドラマが積み重なり、無意識の世界に織り込まれているうちに、物語ができて、何かちょっとしたことが引き金になって意識の回路が発火するのです。心が開いたとか、気づいたとか、つながったとかいった瞬間も同じです。ぽんと音がしたかのごとくわかるのです。忍術使いの変身のように表れるのです。

 親になったときも、もちろん恋の始まりも、何かが変わったことがわかりますよね。自分の変化の瞬間、それは覚醒そして、命の輝きを感じるときです。
    
  四国山脈の麓も紅葉が見事です。忍術使い猿飛佐助の郷といわれている地もあります。
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「愛する」について その2

 超介です。

 小川糸著「食堂かたつむり」という小説があります。初版が2008年1月です。良く売れた本だと思います。小説はあまり読まないのですが、いろいろな料理が登場するので、それに惹かれて読んでしまいました。null

 「ほたる」(主人公の女性に名前)は、アルバイトから帰ってきて部屋の荷物が恋人によって持ち去られていました。突然、愛が喪失したのです。この場面は淡々とかかれていますが、「声を失うほどのショック」の通り、彼女は声が出なくなります。

 祖母から受け継いだ糠床だけがのこされ、そのつぼだけを持って、故郷に帰ります。山奥の村で、「食堂かたつむり」をひらきます。1日1組までのレストランです。食事を予約する人は、事前にカウンセリングを受け、彼女はそのお客のためのレシピを考えるのです。

 主人公はさまざまな事情を抱えた人が生きていく力、関係を修復するきっかけとなるための料理を作ります。大切な人々のために料理を通じて祈ります。食堂つくり、道具そろえ、食材、レシピ作成等がお客のために準備されます。

 大切な人たちのために料理のレシピを考えて、食材を大切に扱い、その声を聴きながら調理して食卓に出していくさまは、愛するという行為です。各場面で作られる料理をお客が食し、変化を遂げるさまにどきどきします。それを読み進むにつれて、「ああこんな風に日々の生活を大切にしたいな」と思わせます。

 愛を喪失した主人公が料理を通して愛することを再構築していく物語です。大切な人を亡くしたり、失恋したり、離婚したりして愛をなくし、呆然自失することも人生にはあります。でもこの物語を読めば、愛することは思考と行動であり、それによって愛を再構築することができる、そのように考えさせてくれる物語です。(アマゾンの書評では評価は2分されているようです。私は高評価です。)

「愛する」について その1

超介です。

 障害をもった子供たち20人ほどと一緒に2泊3日のキャンプを行いました。といってももう35年以上も前のこと、私は大学の2年頃であったと思います。脳性まひの小4男子のM君を担当しました。瀬戸内海の島の学校の体育館を借りて寝食をともにしました。

 そのボランティアのメンバーは20歳前後の女子が中心になっていました。M君は車椅子でもあり、介添えに体力がいるので、数少ない男子の私が選ばれたのです。食事から、海水浴、ゲーム、キャンプファイヤー、盆踊り、もちろんトイレも全部介添えが必要でした。彼は言葉がうまくしゃべれません。話しかけて、イエスかノーかを聞きながら生活をしていきました。

 体重が1,2キロ落ちるほどの体力を使いましたが、最後の日、別れの時刻が近ずいてきて、ふと彼を見ると泣いています。分かれるのがつらいと泣いていました。私は、はっとして、彼の心が開いていることを感じました。そして彼の肩に手をおいて「ありがとう」を何度も繰り返し、彼を見ていました。

 最後のメニューはメンバーと子供たちが同心円を描くように並び、音楽に合わせて最後の握手をして回ります。みんな泣いていました。私も泣きながら、参加してよかったと心からその場に感謝しました。

 愛について書こうと思いついたとき、このことを一番に思い出しました。彼らは私に愛について教えてくれました。大切なこと、守りたいことについて思考し行動することが「愛する」ということであること、そのように思考、行動できるとき、豊かな気持ちが自分の中に立ち起こることを教えてくれたのです。

出会い(その8:出会いと歴史)

超介です。

人の心の中、奥深く入りこみ
その人の心の中で生きる
一体化して
新たな意識になり、
また次の人の中にはいる

僕たちはつながっていく
そのようにして
歴史が形成される

心の奥深く入り込む形態は
言葉だけでなく行動かもしれない

今生の別れの際、あの世へいく数日前に
夫人に手を差し伸べて、握手を求めて
「ありがとう」といったひと

夫人からそれを聞いたとき、
なくなった人は僕の心の奥深く入った
彼は僕の中で生きて
僕も同じような想いを
いつか誰かに表明するだろう

楽しいことばかりではない
「あなたのために人生を犠牲にしました」
そんな言葉を投げかけられ
それが入ってしまったら途方にくれる

楽しさ、喜び、悲しさ、苦しさ、惨めさ・・・・
いろいろなものが混ざり合い、つながり
織り込まれ、心の中で歴史が形作られる

歴史は一人ひとりの心の中にある
記憶の断片をつまみだし
織り込まれたものを掘り起こすこともできる
記憶は感情をよびさます
記憶は生理的反応もよびさます
それから物語が始まる

たくさんの人々との出会いがつながり
歴史がうまれる

心の奥底の声を聴く時
僕らは孤独ではなく
つながっていることがわかる

出会い(その7)

 超介です。般若心経(本)、エジプト展でのスカラベから先人の心を想いました。

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 「空」とはむなしい、という意味ではなくあること、ないことを包括する概念である。
色(あること)と無を超える思想である。

     空包摂色 (くうほうせつしき):空は色を包み込む
     空包摂無 (くうほうせつむ) :空は無を包み込む
                   (苫米地英人 「超般若心経」より)

 人は困難を乗り越えるために祈る、不幸な出来事に対し覚悟を決めて祈る。

 7世紀の中国、僧玄奘は西域に向かった。天変地異、あるいは妖怪などの行く手を阻むさまざまな困難に対し、「般若心経」を唱え進み、母国に仏陀の教えの経典を持ち帰るというミッションを果たした。

 彼には使命があった。ぜひとも果たしたい役割があった。そのために天竺をめざし進む、一歩進むたびに使命達成にちかくなる、そう感じた。困難は「空」(だから惑わされない)という立場に立つこともできた。

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 今から3500年ほど前のエジプトの遺跡から「スカラベ」が出土している。それは死者の心臓の位置におかれていたという。スカラベは復活の神の象徴であるらしい。

 小学生の頃、ファーブル昆虫記で「ふんころがし」(スカラベ)を知った。半世紀ほど後、エジプト展でスカラベを見て、それが「ふんころがし」であることに驚いた。団子を転がし移動するさまが、古代人には太陽を操ることの象徴に見えたらしい。天空をかける、羽のついたスカラベも出土している。

 :当時の人々が生きたのは、古代国家社会の階層構造やら、天変地異、他民族との戦争等々、現代と比較できないほどの障害がたくさんあった時代であった。スカラベは、その人たちを鎮魂した。光沢を放ち、質感のあるスカラベを造型し、死者の胸に布置して復活を祈った。

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 彼らは困難を前に、心を鎮め、自由を取り戻し、選択的に生きようとした。般若心経とスカラベからは、そのような先人の熱く、激しい心の動きがみえる。

出会い(その6)

               
 超介です。

 デンマークが発祥の地で、イギリスでも始まり、1979年に日本の世田谷区でスタートした「冒険遊び場(プレーパーク)」という施設があります。すでに日本では同様の活動グループが200以上あるようです。先日、天野秀明氏という、世田谷での活動に最初から取り組まれている方の講演会に参加してきました。

(以下、演者の話から)
 子供が「遊び、育つ」時期がある。それは 遊ばされる、育てられる ではなく遊ぶ、育つというように自ら始まるものである。やってみたいことがあるかどうかは、人として生きていくときのエネルギーの発現である。それゆえに、それは魂の活動である。その子の独自の世界の構築である。

 やらされている遊び(学習も)は雑巾を絞るようにいつかは水(エネルギーが)が出なくなってしまう。やりたい遊び(学習も)は集中を生む、それは尽きない。

 子供のやりたいことは あぶないこと(A)、きたないこと(K)、うるさいこと(U)で大人はそれを悪と捉えてしまうが、遊育では、このAKUを受け入れることからスタートする。だから大人の役割は、子供を承認することである。おまえ、おもしろいな、と。

(こんな本を書かれています)
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 子供 が自由にふるまえる時間と空間が少なくなっていて、そのことが多くの発育上の課題を残す。さらにはある節目を迎えたとき(たとえば教育課程を終えたとき)、自分を見失い、つまり生きる道を見つけられず迷路にはまる。

 教育コーチングと目指すところが重なります。

出会い(その5:演じて出会うこと)

 
 超介です。カウンセリングを扱う2時間ほどのセミナーに参加してきました。

 ロールプレイをしてきました。いくつかのモデルをトレーナーが解説され、その後あるパターンを選び演じます。これまで、こういったときには、演じやすいのは「素の自分」に近いモデルであるのでそのように選択していました。それはそれで、普段の自分を振り返ることができて気づきもあるのですが、トレーナーの意図はそこにはありませんでした。

 つまり、「自分からもっとも遠いモデルをプレイせよ」というのです。

 それで、自分と違うモデルを選び演じてみました。

 なんと、演じているうちにその気になってしまい、話す内容が正しいと感じ始めたのです。そのこと全体会で発表するとトレーナーは「たとえば、あなたはそのように考えている時期があり、それがいつの間にかさまざまな状況のなかで変化したのでは、そのような状況がぱっかり割れて中身が飛び出したのでは」と話され私は、大きくうなずきました。

 それから、もうひとつ理解できたことは、「演じることによりそのタイプの人がなぜそのように行動するかがわかる」、ということです。演じていると、そのように話す人の基本的な考え方が理解できるからです。あるタイプの人を演じるためには試行錯誤して、そのような人の話し方を思いつかなければならないので、必然そのタイプの人の基本的な思考を見つけないといけないのです。もちろん理解の到達度は浅いこともあるとは思いますが、でもより近づける方法(より共感できる方法)だと思いました。

 ある人の行動をモノマネすることからの学び(共感に近づく方法)がありそうです。
 

出会い(その3:その2の補足)

超介です。出会いについて書いた前回の補足をします。

               「あなたの出会い」 
                あなたの出会いは
                どんなふうに
                世界を変えただろう
                ( 銀色夏生:詩集 すみわたる夜空のような より)

                 
 ミツバチが花を求めて、巣から飛び出す。友からの花粉ダンスでおいしい花のある方向と距離を教えてもらい、一目散に飛んでいく。目的のいいにおいのする草木の一番大切なところに頭を押し入れて蜜を吸い、花粉を体に擦り付けて巣に戻る。花との出会いを求めて今日もドアをあけ、出て行くのは人も同じ。

 方々の花から蜜を集めて自分の蜂蜜つくりに精を出す。赤や黄色の時には青い花から集めて作った蜂蜜はパンに縫ったり調味料に使ったりして食卓を豊かにして、人を幸せにする。自然がさまざまに作り出すものをミツバチはブレンドして自分の蜂蜜を作る。僕たちも多くのものと出会って「蜜」を集め、ブレンドして自分の「人生」を彩る。「生き方」に味付けをする。だから、出会いは世界を変える力を持っている。 

 だから、私もドアを開けて外へに出ようと思います。

出会い(その2)

超介です

 少し前までは、読めなかった本がある日、突然面白さにきづき、読むことができる経験をしたことがありませんか?そのような時は、その本を通じて「新しい世界に出会ったような気がして大変楽しい」のです。

 同じ本でも、以前読んだとき重要だと感じて線を引いた部分と、再度読むときに線を引くところが違っていることがあります。前はわかっていなかった、感じ取ることができなかったことができる様になるからです。だから、新たに読めなかった本が読め始めることは当然なのです。積読は大切です。

 書物に書いてあることは変わりません。変わったのは読む人。読み手の意識が広がったのです。何かの体験やら、集中した行為の継続が積み重なると、意識が変わります。

 大僧正とよばれている人が、「どうしてそのようになられたのですか?」ときかれて、「特別なことはしていません。ほかの人と同じことを、いつも心をこめてやってきたつもりです。」というようなことを答えられていました。

 私が「新しい世界に出会うことが楽しい」と感じたり、「出会いに意味がある」と考えるのは「生き方」に関心があるからです。そうか、そのように世界を感じればよいのか、とか、避けられないと感じていた、起こってしまっている出来事の取り扱方法のヒントが見えてきて自由を感じるからです。

 起こることは選べませんが、「生き方」は選べます。その選択のヒントを「出会い」は教えてくれます。状況に流されずに、主体的に生きることのヒントを教えてくれる「出会い」です。

 そうしてさらに「出会い」は人に世界をかえる力までもあたえます。

              「あなたの出会い」 
                あなたの出会いは
                どんなふうに
                世界を変えただろう
                (銀色夏生:詩集 すみわたる夜空のような より)

 だから、私もドアを開けて外に出ようと思います。