ホームからアウェイへ

超介です。

卓越した実績のある営業マンと知り合いになりました。かれは、「私とクライアントでは1:4くらいの割合で話をする」といいます。「どれだけクライアントに話をしてもらうか、それは大切」「相手の興味のありそうなkey word 時々入れてはなす。そうするとまた話が続いていって、どこかで自分の用意できる商品とつながったりするのです。」といいます。

話す→離す(客観視できる)、放す(気持ちが楽になる)という事実があって、それはセールスの目的達成にも有効になるということ、これを再認識しました。

ある商品を購入するにことにしました。このとき、どこから買うか何人かに出会って決めました。私が購入したのは、新卒の、研修を終えたばかりの22歳の男性でした。

なぜ彼に決めたのか、後で気がついたのですが、彼は「話を聴く人」であったのです。

私の話を聴いてくれる、最後に「勉強になりました」、といってかえって行きます。その後、何回かのセールスを受け、彼から商品を購入することに決めたのです。それ以降彼と、話をするのが楽しくなっている自分に気がつきました。

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何処でも自由に話しができたりするようにしたいと思うようになりました。

ホームでコンフォタブルにかまえて、仕事をする、私のような内勤者と異なり、営業マンはアウェイで仕事をするのです。アウェイでは商品説明も、主張も緊張して汗をかいたり、頭が真っ白になったりすることが多いと思います。

従前の私がそうでした。でも今はアウェイでも随分と(以前よりですが)楽に話せるようになっています。それは、アウェイとホームの違いがわかり、アウェイでの体験を増やすことを決めたからです。1年位前から意識し始め、機会がある毎にでていって、イベントやら研修に参加するようにし始めたからです。

春,つれずれ

 超介です。

  ここ数年、ゴールデンウィークには田植えのために、帰郷しています。松山をでて、数時間後に、丹波山地にはいります。高速道路のインター をおりるともう夜中、蛙の鳴き声が出迎えてくれました。

  里山をうろつくと、虫たちはずいぶんと減りましたが、花にはいろいろと出会います。竹やぶには「たけのこ」がにょきにょき地面をやぶっています。こちらでは、4月末は盛期過ぎ、極太はすくなく、中くらいのや、扁平なものが顔を出しています。
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  その近くには「へびいちご」の白い花が咲いています。これも「野いちご」と同じような赤い実をつけますが、すこしすっぱくてあまいつぶつぶの「野いちご」の実とはちがい、あかくてやわらかそうな赤い実がなりますが、毒とのこと。
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  藪の中で一際目立つ黄色は「山吹き」。ここは四十年程前、民家の庭でした。その時代に植えられたものが残っていて、当時より人の手がはいらないので、いよいよ盛んになっているようです。
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  山のふもとには、「タンポポ」がたくさん咲いています。綿帽子もあります。この茎をちぎって口にくわえて笛にして遊びました。太い菅からは低い、ぶーという音が、細い菅ではピーと高い音が出ます。笛の長さをながくすると低い音がでますが、鳴らせるのが難しくなります。
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  すこし固めの葉っぱをちぎって下唇にあて、歌をいたり、草花を使っての遊びがたくさんありました。

  「いたどり」取りにもよくいきました。食べられる、というだけで、貴重なもののようにして、探しにいきました。僕たちの時代にはすでに食料は十分にあったので、珍しさからです。砂糖をつけ、甘くし、すっぱいそれをかじりました。
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  「グミ」が地味な花を咲かせています。季節になると、真っ赤な実が鈴なりになって鳥たちの格好の餌食になります。見た目も鮮やかな実は、このいまでも、この年齢になっても珍味です。
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  「蕗」やら「山椒」はいまこそ、美味しく食べられます。子供の頃はつまらなくて箸をつけようとしなかったのですが。いまは佃煮みたいにしたものを熱い白ご飯に乗せて食べたり、また山椒などは若芽をちぎって、出来立ての熱いおすしにのせておしょうゆをすこしたらして食べると美味です。
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  畑仕事も忙しくなり、母と一緒にかぼちゃの苗を植えました。これは植えて、保温のための覆いをつけたところ。ハウスでは稲苗が育っています。nullnull

旅立つ

超介です。

 この写真は、10代の正岡子規が 「松山中学ああ・・・ 」と嘆き、上京して志をたて出発しようとしている像です。松山市の中心、市駅から歩いてすぐの子規堂という建物の入り口にあります。
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 館内には、手紙、文学に関する評論等々の和とじの文書がガラスケースに陳列されていて、さらに野菜、果物の有色の絵が壁面に飾られています。
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 じっくり見ていくと、きちんとした文章ばかりでなく、しゃれっ気、遊びのあるものがあることがわかります。子規の表情が表われています。ここにはありませんが「筆まかせ」という名でまとめられたもののなかには、大変身近な内容(現代のブログのような)文章もたくさんあります。

 さて、私は年に何回か、この小さな古い展示館を訪れます。それは、あるものを見るためです。

 それがこれです。ガラスケースの外からの写真なので見ずらいですが、これは子規が幾何学の教科書を写した、そのノートです。三平方の定理を三角形の各辺を一辺とする正方形の面積を用いて証明している箇所、それを子規が写しています。
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 彼ら明治人(もちろん彼はエリートの一人であったのでしょうが)がどのようにして学んでいたのかがリアルに感じられるのです。細い筆で、図も式も文も間違いなく書写されているのを見て、その緊張感、迫力のある学び、意識の高さが伝わってくるのです。

 私は、時々ここを訪れて、その丁寧に筆写されたノートから、かの人の「意識の高さを掴み取る」のです。

『言葉』があなたの人生を変える

超介です。

 …「言葉」があなたの人生を変える…
ルータイス著『アフォメーション』という本の帯のフレーズです。既知の知識と不明瞭なそれが結びつくとき、理解が進み わかった感がおこります。それが『気づき』それが多い本です。
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 言葉から派生する情動が、脳内回路にどう影響をあたえ、それが行動にどのように結びつくかが詳述されています。

 「目標が未来を築く」「青写真を描く」「夢はかなう」の意味が理解できます。失敗するのはなぜなのかも。

 『アファメーション』とはセルフトークを意識して使う方法です。これを用いて、潜在意識に夢、目標の刷り込みを行います。『言葉→イメージ→情動』を繰りかえします。潜在意識にそれがリアルに描かれ始めると、創造的潜在意識が働いて自動的にそうなる、という事実が克明に繰り返し、述べられています。

 (もちろん、教育コーチングと通じ合っています。)

 理論と、著者の体験の具体例が400ページほどに込められています。内容が濃くて、スムーズに頭に入らなかったので数回読んだ後、マインドマップで内容をまとめようと思い立ちました。添付の写真は作成中のものです。(ちょっと薄くてみえにくいですが)
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マインドマップは各章、節、段落等毎のポイントを抽出して表現する良い方法です。内容を部分で理解しつつ、全体像(ゲシュタルト)を作るのです。多少手間が、かかりますが、この本も、マインドマップ作成も面白いですよ。

 皆さんもどうですか。

「愛する」について(その10 愛は脳を活性化する)

 超介です。

 「起床しても学校や、職場に行く気になれず、ベッドの中でごそごそして、しばらく経って、それでも行かねばならぬ、と起きて身支度をはじめる」、このような一連の行動も脳科学の研究により、脳内の信号の経路がどのように進んで起こっているのか解明されています。

 一次的な情動を伴う判断が行われ、次に2次的なもう少し深い認知活動が別の脳内回路で進んでいくのです。この一次的な判断は、われわれの祖先が、原始の森やら草原で敵と遭遇したときに瞬時に行動しないと襲われて捕食されてはいけない、その防御のために形成された回路と解釈されています。(そして、その後この一次回路が人の文化的な進化にどのように寄与しているのかも解釈があります。)

 それとは逆に、朝、気持ちよく目覚め、さあ行くぞと意欲的に生活を始める場合もあります。このようなときに、どのような神経回路が、どう反応しているか、も研究は進んでいます。

 以上は「愛は脳を活性化する」(松本元著 岩波)という本の内容の一部です。「愛」のエネルギーがいかほど脳に大切か、理解できます。前半は脳型コンピューターの内容、後半はそれをベースにした表題どおりの内容です。後半では具体例の解説があります。
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 経験的な知が脳科学の立場から理論付けられているのです。

 たとえば「すきこそものの上手なれ」「人はなぜ分かり合えないか」「なぜ自分を変ええることは困難なのか」「神秘体験」「愛が脳を救う」「心は知・情・意からなる」「神」・・・などの事柄が脳科学の立場から説明されます。

 これらを理解すると、どのような生き方を選択すればよいのかが見えてくるのです。100ページほどの薄い本ですが、たっ ぷりとエッセンスが詰まっていて、お勧めの一冊。当然、コーチングで行う内容をも強力にバックアップしてくれます。

 冒頭のような事例にどう取り組めばよいかも自然と、しっかり理解できるのです!!

「愛する」について (その9 念ずれば花ひらく)

 超介です。

 「念ずれば花ひらく」という石碑はご存知ですか。たとえばこのような。
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 「念ずれば花ひらく」の石碑は全世界に730基あるそうです。皆さんもどこかでご覧になっているかもしれません。 作者である詩人 坂村真民 さんは 熊本で生まれ、その後、愛媛県の高校教員、58歳からは松山市の南 砥部町(砥部焼きという磁器で知られています)にタンポポ堂なる居を構えられ、詩作に専念されていました。2005年97歳で他界されました。

 (砥部焼きの町には歩道の敷石やら、壁画、道路標識などいろいろな箇所に磁器が使われているのです)
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 この詩人の記念館が2012年3月11日砥部町にオープンしました。

 記念館の展示室入り口近く、一番初めに目にする詩です。

  わたしの詩  わたしの詩は/生きるために苦しみ/生きるために泣き/生きるためにさげすまれ/はずかしめられても/なお生きようとする/そういう人たちに/ささげる/わたしの願の/かたまりであり/湧き水である  真民

 愛を歌う詩人です。

 一年前のちょうど今日、平成を語るときに抜きにしえない東北の震災がありました。わたしはこの日、真新しい記念館で真民さんの詩を読み、生きる勇気を汲み取り、被災地の人たちの命に思いをこめ、復興を祈りました。

「愛する」について (その8 心の国境を愛の歌で超える)

 超介です。

 日露戦争当時、松山ではロシア人捕虜を数千人迎え入れました。家族をロシアとの戦争でなくした人もいる中で、敵国の捕虜をどのように迎え入れるかについて多くの対立がありました。

 しかし、捕虜と松山人との交流は2国間の戦いの最中にもかかわらず行われました。根底には四国人のお遍路さんに対する「おもてなし」のこころがあったといわれています。

 道後温泉でくつろぐロシア人将校、松山中心部の商店街「大街道」を散歩する将校、地元住民との自転車競走等の写真が残っています。

 そして、平成の今も生涯をこの地で終えた人の墓地、「ロシア人墓地」の清掃が、市民やら中学生により行われています。

 松山城二の丸にあった泉のあとからは約100年間眠っていた金貨が発見されました。その金貨にはロシア人男性と、日本人女性の名前が彫り込まれていました。

 このことから「誓いのコイン」というミュージカルが生まれました。目に傷を負った青年将校二コライは、日本人を憎んでいますが、篤志(ボランティア)看護婦であり、ロシア語が話せるサチの献身的な介護により心を少しずつ開いていきます。
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(このパンフと一緒に写っているのは伊予柑、今旬です。ジューシーで香りよくおいしいです)

 そして、2国をつなぐ架け橋になろうと、将来を誓い合う2人でしたが、それぞれの事情で許されず、必ず迎えに来るといって二コライは母国に帰ります。が、数ヵ月後に二コライの訃報がサチの元にとどきます。サチは二コライから預かっていた金貨のペンダントに思いをこめ泉に投げ入れます。

 日本人であること、ロシア人であることを超えて、人としてのつながりを追い求めることが大切であると気がつき、2人はそのことを追及していきます。厳しい現実あろうと、その人の心の真ん中にある思いを確かめ、夢を、目標をもって生きていくことの強さを示してくれるミュージカルでした。

 次の歌が繰り返されます。

    この星が出来たとき/国境はなかった/国境が出来たとき/争いがうまれた/
   国と国をへだてる国境は/消せないけれど/人と人をへだてる国境を/
越えていこう/
 心の国境を越えたい/力ではなく愛の歌で/心の国境を越えたい/ 
灯火かかげ自分の足で

「わたし」考2

超介です。
 
 日本文理大(大分県) チアリーディング部 BRAVES は昨年、チアリーディングのすべての国内大会を制し、さらに世界大会でも優勝しました。連続して12年、13年と優勝を続けている大会もあるそうです。

 2月下旬、愛媛のある会に招待された彼らが、その技を披露してくれました。彼らの技が繰り出される毎に館内を埋め尽くした3000人ほどの聴衆は息をのみ、盛大な拍手をしました。

 人が2段、3段と、音楽に合わせて、組みあがって、それからさらにトップの人から自然落下するように崩れ、解体します。それが、さまざまな形で繰り返されるのです。そのなかに彼らの仲間意識が見えるのです。それはたとえば、それぞれの演技の間の動きにも表れます。

 演技の間には、息を整える時間が数秒あり、その時間にも彼らは、身体でリズムを取り合い共振しています。「さあ、いこう」「まかせろ」とでも言うかのように目を見て、うなずき合い、身体が共振しているのです。

 演技の合間に観客たちにほんの数十秒程度ずつ語りかける言葉は、「ありがとう、来てくれて。見てください、わたしたちの動きを・・・」などと、直接的で、単純です。でも何よりも真摯、誠実さがこめられていることがわかるのです。

 彼らの技は高難度ですごいのですが、でも真骨頂は技ではなく、技を演技する、その過程の姿勢から、その名前にふさわしく、人々に勇気、元気を与え、絆を感じさせる点なのです。

 一人の「わたし」がチームの全員とつながっていて、大きな「わたし」を感じることができます。その大きな「わたし」が、観客自身のなかにもある勇気と、元気を掘り起こしてくれ、絆を感じさせてくれ、観客も活性化していくのです。

「わたし」考

 超介です。

 激しい感情であれば、はっきり自覚が出来ますが、気分にどっぷりつかっているときにはそれが自覚できにくいことに気づきました。体全体で気分を感じ、その横に「わたし」の身をおけばそれが自覚できます。そのようにしてしばらく時間をすごします。ああこれが気分で、感情につながっていくんだ、というように。

 海から上がって砂浜に腰を下ろし、そして海を見ているようです。海の中にいるうちは見えない怒りのつまったビニール袋や、不満だらけの釘が刺さった板、寂しさでぼろぼろになって沈んでいる空き缶などが体にあたり居心地が悪かったのです。

 ところが、少し意識してみれば「わたし」は、いつの間にか砂の上にすわり、それらの面白くない感情の海を客観的に見ることができているのです。このことに気がついたときに「わたし」はある小説を読んでいました。

 文学賞受賞作品の「道化師の蝶」という小説は年中飛行機に乗っていて、着想を捉える小さな銀色の捕虫網を振り回わす人物(けったいな人物ですが、面白いですねえ)がまず登場し、「わたし」が彼の仕事を聴くことから始まります。次の章では、実は前章は「猫の下で読むに限る」(なんという表題、猫の下・・は、桜の木の下・・・からのパロデイのような・・・)という死に絶えた言語で書かれた小説の翻訳であると「わたし」は述べるのです。

 さらに次の章では、「わたし」は「猫の下で読むに限る」という小説を書いたらしい「友幸友幸」(どう読むのでしょうか?)なる人物らしいのです。このように、次々と「わたし」がたくさん出てきて、最初は異なる「わたし」なのですが、次第に混沌としてきます。いろいろな「わたし」がいるのが自然であるとおもえてきます。大きな「わたし」がいて七変化しているみたいな・・・・。時々吹き出しました。わかりにくいですが、おもしろい。

 このへんてこりんな小説を読み終えた翌日、幼少期の体験から「わたし」を再発見しようと、出家したいと考えていた人に出会いました。その人の部下が(小年少女を救済する仕事をしています)「(非行少年・少女の救済は)熱意だけで何とかなると考えていたけれど、それだけではなんともならない。」ということに気がついた、とはなし、上司は「支援する環境さえあれば彼らは自然に変わる、それを具体的に作るには・・・」というようなことを話しはじめました。さらにその上司は「わたし」とは何かを考えざるをえなかった自分の幼年期の体験を語てくれました。(つづく)

腰痛、いたた!

超介です。

 腰は英語でbackというらしいですね。英語の発音を学ぶ必要があって音読をしています。1時間ほどトレーニングをすると、(日本語と違う脳の部分を動かしているからでしょうか)運動した後の爽快感に近いものが残ります。英語そのままを体に入れるように、意味はその後ついでに、程度の感覚で音読を繰り返すのです。

 「英語をそのまま理解できるレベル」まではいかなくとも、唇、歯、舌、そして口の形を操作して発語していると、頭も心も、どこかが変わっていくように感じます。ネイティブスピーカーにリードしてもらいながら読んでいます。音読は身体トレーニングです。 

 腰痛がありました。今冬から急に痛み出した腰痛。特に車の運転をした後やら、帰宅後(深夜ですが)痛むことがあります。痛くて歩行が困難になり、うずくまることが年明けから続きました。続きました、と過去形、今はだいぶ良くなりました。

 腰の痛みは腰骨と背骨の付け根あたりの痛覚なので、内部からの感じですが、英語ではbackというようです。それでは背中は、どういうのでしょうか。体芯が痛いのでbackが痛いじゃないだろうと。

 身体メッセージがあるとすれば、腰痛の、世界が私に伝えんとするメッセージは?体の内部から何を伝えようとしているのか?

 大昔の人たちは、自分と世界を隔てる言葉をも身に付けていなかったので、世界と共生していたと思います。世界の一部が自分であるので、連動して動いていた、たとえば敵か仲間かそれとも獲物か、瞬時に見極め、身を潜めたり、親愛の動作をとったり、武器を構え、攻撃の姿勢に移ったりしていた、瞬時に悩まずに。身体が反応する、そんな能力の塊であったと思うのです。

無意識に体が反応している、でもそれは何らかの世界からのメッセージを受けてにちがいないと。IT化が進んで、問診もタブレットPCを用いたり、院内ネットワークで、カルテやら検査、レントゲン写真やらを瞬時に取り込んでサーバー内の患者毎のファイルに整理された病院の脊椎センターの医師は私に向かって「関節に異常はありません。心配されるようなことはありません。まあ、年齢からくる要素もあって・・・・」と語ってくれました。

世界からの私宛の腰痛を通じてのメッセージは「お前はもうとしだよ!」という、ごくごく当たり前の内容だったみたいで・・・・うう・・・・。音読以外にも身体トレーニングしなくっちゃ、と反省した次第です。