超介です
『 絆』とてっぺんに刻まれた高さ7,80cm程の真新しい石碑がありました。
前面に『波来の地』と刻まれ、側面には4行に亘り次の文言が刻まれています。
『大津波がたどり着いた果て、波来(はらい)の地、
犠牲者への鎮魂と慰霊の思いを込め、
災いをはらい、復興支援者への敬意をはらい
永久に注意をはらい続けることを願ってここに刻む』
仙台から石巻市迄のJR仙石線は、途中の日本三景松島駅からは復興中のため連絡バス、矢本駅で再度、列車に乗り路線の終点、石巻市につながります。沿線風景の中に小さな川の金属製の手すりがぐにゃぐにゃで曲がったままのものであったり、元一帯が水田らしき地帯が小川やら、道路を1本隔て、草地であったり、海際の山間が造成中であったり、震災の跡が随所に見受けられます。
冒頭の石碑に出会ったのは、石巻市。旧北上川河口の、震災前は家々でびっしり埋まった市街地の、大津波がきて街の一切を破壊し尽くして去って2年半の今、石碑は、まだ、今は未だ草原のまま、全く、くさはらの地の南浜町、門脇町のその、夏草茂る住宅跡地横の路端にあります。車輌が離合するのは難しい程度の道にあえて建てられたのは、まだ真新しい石碑なので、この先の復興の見通しのなさ(海に臨界する土地でかつ、地盤沈下もひどいようです)から、ひょっとしたら、それならば 通行の邪魔にはならぬ、と思われてあえて道端に建立されたのかもしれませぬ。
駅から、商店街を何通りか徒歩で過ぎ、日和山の頂上まで炎天下、迷いながら1時間ほどかけてたどり着きました。木々の間から眼下に広がるのは青々とした草地と点在する人気のない幾つかの建物。駅前の観光案内の人に教えてもらった急な石段ーこの石段を2011年3月11日にたくさんの人々がかけあがり、頂上の公園から街が濁流に呑まれていくのを見ていました。公園は避難民でびっしりとうまったそうです。その時の人たちの気持ちをじっと想像し・・・・・・ーこの石段はかなりの急な石段で体力のないお年寄りや子供達は息をつきながら登ったことであろうと、そう思い、蝉時雨の中、降りて行きました。
降りていく途中は急傾斜と周囲の木々のため真夏の晴れた午前11時過ぎであるのに薄暗いのです。階段をおり切った下、すぐ左手は墓地。倒れたままの墓石、新しい墓石、お盆前でもあり、被災地の親族に違いない2,3の家族連れがきています。その墓地の周囲も、向こうも草だらけで、その中を草原に似つかわしくない広さの道が通ってますが、それらは草の背丈により、数十m先はみえません。その墓地を通り過ぎて数分歩いた時、『絆、波来の地』なる石碑に出会ったのです。
震災後、現地も、私も少し落ち着いたら東北にいくことを考えていて、ようやく、約2年半後の今月、8月11日から14日にかけ、内陸の花巻、仙台を拠点にし、主に釜石市、石巻市に行くことが叶いました。 幸い私は、天災の少ない穏やかな瀬戸内の四国松山で40年間暮らせました。被災の地に行き、その地で見て感じつつ考えてみたかったのです。たくさんのものと出会いました。それらはいつか、はっきりした意味を持つ言葉になってくるのです。そのための東北行きでした。