自分で始める

超介です

会社に勤務していた時代、いかにそこに依存していたか、ということに気づかされています。会社員時代は、定められた時間に、定められた場所で定められた範疇の仕事をすることができますが、そこを離れると、一切が自分の自由で、もちろん責任も自分です。

でも、いざ自由になると、何をするのかも自分で決めることになります。この時、自分で決めなければならない(ので大変)と思うか、そうではなくて、自分で決めることができる(ので楽しい)と思うか、このどちらも選択することができます。

退職後、松山から郷里に引越しをして数か月経過して、少し落ち着いたとき、最初は「決めなければならないので大変」でしたが、今は「決めることができるので楽しい」を選択しています。

過去数十年の、決して短くはない人生において身に着けてきたものをいったんおいて、再度生きなおすことを始めようと思えたのは昨年の春でした。それから退職することを決めたのがその年の夏過ぎ、実行したのが今春。

さらに半年経過して、少しずつ自分がやりたいことへの理解が始まりました。依存できにくい状況になってやっと、理解が始まりました。それからは身の回りにあるチャンスに積極的になりました。今までもチャンスはあったはずなのに、見ようとしてこなかったことにも気づきました。

自分で始めることはとても素敵なことです。

農作物の育ちと環境

超介です。

昨日、稲刈りを終えました。高齢の両親が中心になって田圃の管理を行ってきました。叔父、甥、妹夫婦にも来てもらい、作業を無事終えることができました。昨年の収量実績は生籾重量で2.7トン、今年は2.6トンなので100kgの減収です。今年は例年に比べ、気候が不順で稲作には不適であったからでしょう。出来高は環境に敏感に反応するようです。

今年は稲だけでなく色々な農作物の成長を見ることができました。キャベツ、胡瓜、トマト、茄子、南瓜、スイカ、唐辛子、パプリカ、ニラ、ジャガイモ、玉ねぎ等様々です。両親が栽培しているのを時に手伝った程度なので、農作物の栽培の全過程を理解できたわけではありませんが。

でも改めて実感したことは、彼らが持っている逞しい成長力と、同時に環境がとても大切で手入れをしないと美味しい作物は出来ないということ。嵐、台風、大雨に出会ってボロボロになっても生き残っていれば、そして環境を整えてあげれば復活してくれました。

有機栽培でも、自然農法でも、同じなのですが「人の手」が作物にはとても大切であるということです。畑を耕し、播種して苗を育て、土中適切な深さに植える。草取りを行い、施肥し、水の管理を行い、時には除草、除虫、害獣防止柵を作り、防鳥策を講じてやっと収穫できます。作物が育つには環境整備がとても大事。そして、作物はそれらに確かに反応して育つのです。たとえ途中でこけてもタイミング良く手入れできれば復活もしたのです。

野生の草木も環境に相応しいものがそこに生えています。日当たりの良いところには様々な雑草が繁茂しますが、日当たりの悪い、林のなかには草は生えません。水気のないところにシダやら苔も生えません。同様に作物には、それに適した環境が必要なのです。タネをまいてほっておいて育つのは、たまたまその環境がその種に作物に適していたからです。

野菜は自然のものではなく、人が食用等に長い年月をかけて改良してきたものです。だから、それは当然です。適切な環境を与えてあげないと能力は発揮しません。

人も同じ。その人に応じた環境が整った時に、人は最大限の能力を発揮することが出来る、そう連想しました。個性に応じた環境整備、つまり、教育の質がその人にもともと備わっている能力の発掘に大切です。ほったらかしで人が育ったとすれば、それは偶然そうなっただけだと。

教育コーチングは人が育つための環境整備の強力なOS です。

意味のある流れが教えてくれたこと

超介です。

 1.まずやってみよう。 
 2.振り返ってみよう。なにか気づきがないか。
 3.それでこれからどうする?

 と、説明がくりかえされました。何がおこるんだろう、不安そうな受講者20名ほどを前にしてトレーナーが強調します。東京ドーム近くの会場で2日間、計16時間ほどの実習中心セミナー。スムースにはいれたメニューもありましたが、「なぜこんなことをするの?」と疑問が最初に頭に浮かんだのもありました。さらに「これは意図がよく分かる、その通りだ」と理解でき「よし実生活でも実行するぞ」と思えたのも。それだけで「時間とお金をかけた。元が取れた。」と感じ、いくつかの場でそう発言しました。

 でも、中には「なんでこんなことするの?」と意味のわからない実習もありました。ところが、研修をおえ、東京でもう一泊し、前日お世話になったトレーナーの方々の事務所に伺って、そして丹波に戻って翌日、朝目が覚めたとき、突然に効果が実感できていたのです。私の中で何かが生まれていることに気がつきました。

 それは、私の感じ方の変化です。トレーナーの指示に従って30分ほども、思いつく言葉を探して繰り返して叫んだり、人と向き合って瞳を見つめながら考えを何回も何回も伝え合ったりしたこと。選択した行動、結果を相手を変えながらくりかえす実習。最後の日に仲間と、そしてそれを支えている人の打ち上げ会の体験。一人をのぞいて、1ヶ月前には全く知らない人ばかりでしたが、そんな人たちと時間を共有しているうちに生まれてきたもの。

 ちょうど1ヶ月ほど前、千葉の深い森の中で3日間にわたり受講した人生航海図でえたものがさらに力をえた感じです。それは、朝、目が覚めたときに、同じグループの5名の顔、同じ研修を受けたグループ外の人、トレーナーの顔が思い出されて、それらがとても懐かしさ、親しみのある人としてでてきたことから気づいたのです。

 今、 ここ数年間に、周囲で生じた様々な出来事が、全部意味を持ってつながってみえ、想いが深くなっている自分を感じています。

コーチの立場と視点から(3)

超介です。

 クライアントが安心して自己の内面と向かい合えるように、コーチはクライアントと一緒にいるようにします。全ての会話、対話をそのようにする必要はないのですが、ここぞという時には、コーチはクライアントと一緒にいて彼、彼女が語れるようにします。

 語ることができないとき、それをクライアントは意識していないほうが多いと思いますが、邪魔するものがあります。コーチングを習い始めた時は、その邪魔するものに付き合ってしまってダラダラと時間が経過することがあり、深まらないな、と反省することがありました。クライアントへフィードバックがうまくできていなかったのです。

 的確なフィードバックは問題をクライアントの思っても見なかった視点から、解決することがあります。

 私がクライアントとして、ある人にコーチングを受けていた時です。「ある人間関係において、嫌だなと感じること」について話をしていました。コーチは、その話を傾聴したあと「あなたの、(相手に対する)深い愛情を感じます」と言ってくれたのです。私はそれを聞いて、はっとして大切な人間関係であることに気がついて、その「嫌だな」と思っていることについて、ただしく受け止め、自分が対処できることに気がついたのです。コーチの的確なフィードバックはクライアントが見えていない部分、気がついていない部分を指摘することがあって、それが新たな問題の捉え方をクライアントにさせることがあるのです。

 それから、そのように、コーチは興味と関心をもってクライアントの言葉を受け止めて、承認して、時にkey wordを繰り返したり、フィードバックを返したりしていると、なんというかクライアントの心がポンと開いたように感じるときがあります。そしてそのときにつながりのようなものを感じて、より深くクライアントを理解したように思えるのです。

  普段の会話でも、時に心がつながったとおもえるときがあります。コーチングは、それの起こる確率を高めることができるのです。こういうときにコーチングをやっていてよかったと感じます。

コーチの立場と視点から(2)

超介です。

 コーチングを学び実践すると、普段の会話も自然と変化しました。まず、最後まで話を聴けるようになりました。以前は、会話中、頭の中に考えが浮かび、それを言いたくて口を挟んだり、自分の考えに誘導したりしていましたが、それを意識してなくすようになりました。傾聴の3要素である 1.相手に集中する 2.判断を脇に置く 3.沈黙を大切にする  をすればこれができるようになります。そして、これらのことが出来るようになると、人の話がよくわかるようになります。そして、話し手に集中しているので、話し手が急に話題を変えたり、こちらの話を遮ったりすることによく気がつくようになりました。

 また、人の話を傾聴すれば、話し手がスッキリして、元気になる様子を繰り返し体験しました。周囲には話を聞いて欲しい人がたくさんいることにも気がつきました。丁寧に傾聴すると話し手は自らの内面と向き合いながら、考えを深めていき、新たな気づきをえたり、気持ちの整理ができて次の行動のエネルギーを獲得されるのです。

 ある程度会話の回数を重ねた人とは、信頼関係が深まり、次第に内に秘めていた想いやら悩みを打ち明けてくれるようになりました。内容を秘守をし、時にはアドバイスをします。特に、気になることについては、私の考えを伝えます。「(話し手のその)相手のそのままを認めれば」と言いたい時もあります。特に「(話し手が)依存しているなあ」と感じることがあり「他人のせいにするのではなく、あなたがどうしたいか、どうするかが大切」と言いたい時がよくありました。

 考えを求められれば、それらを伝えますが、多くの場合は、それは私自身の課題であるように思えるので、一旦脇に置く 場合のほうが多いのです。自分の課題を相手の中に見つけることが多いことを知っているからです。脇に置いて再び相手に集中します。それでもやっぱりそのことが気になる場合は、つまり脇におけない時は伝えます。

 伝えた場合、気がついて「(話し手のその)相手をそのまま認めて」自分の中のこだわりから自由になられる場合もあります。「いやいや、やっぱり認められない」という人もいて、その場合は「認めることができないんだ、それで、どうするの?」と伝えていきます・

 人とはあまり多くを話さない性格でしたが、コーチングを学んでからは会話が自由になりました。

コーチの立場と視点から

超介です。

 コーチングを意識し始めてから、子供たちの学習指導を次のようにしてきました。

小中学生の学習内容であれば(もちろん全員ではないですが)、段階を踏めばほとんど100%に近い力をつけることができます。指導していて「やったら出来るのになあ」といつも感じてしまうのです。多くの先生たちがきっとそう感じているとおもいます。小中学生が学ぶ内容は、明確だから教える方はそう感じてしまうのです。でも、そこからさらに一歩進めて、子供を支援するためには、視点を、教える自分の方から、子供のほうに切り替えることが大切です。

ひとり、ひとりの子供の視点から勉強を捉え直すと、いろいろなことが見えてきます。新しいことを学び、体験する、出来るようになりたいと思うのは、子供本来の姿です。子供だけではなく、大人でもそうで、人は本来、成長したい存在です。その本来の姿を邪魔するものがあるだけなのです。見えてくるのは邪魔するもの。これをどう取り扱うか、コーチは生徒(クライアント)と一緒にそれを行います。

邪魔する物は、その生徒と環境の関わりの中に現れてきます。それに生徒自身が気がつくと、変化が現れます。その変化を見つけて、コーチは生徒(クライアント)に伝えます。すると、さらにクライアントは変化します。それを繰り返します。その過程でコーチは焦らず、じっくりと生徒(クライアント)を信じて、取り組みます。学習する機会を通じて以上のように、生徒自身が気づいていくことを大切にしてきました。その過程が生きる力の成長に繋がっていくと思っています。

環境との関わりで一番大きなウェイトを占めるのは、子供達が実際に生活する場、つまり多くの場合は家庭です。だから保護者との関係つくりは大切で、時には差しでがましくも感じたことをお伝えするために、時間を取っていただきます。そして一緒に話し合ったり、考えたりするのです。もちろん、時には子供も一緒に話し合います。

一緒に考えるという立場をとるのは、私と他の人が感じ方も、考えも異なることを前提としているからです。58歳で、2人の息子がいて、独身で、両親と同居していて・・・・・・、という環境で捉える私の感じ方は、一例で特殊と思うからです。

 以上のようなことを大切にしてやってきました。

最近読んだ本から

 超介です。

 数週間前に購入した[「自分」の壁 ](養老孟司)を読みました。これを一通り読了後、千葉で2泊3日の研修(第24回人生航海図)を受講しました。この読書体験と研修はつながっていて、研修で体験したことがこの本のなかで説明されているような印象でした。

 本の表題も、研修での私自身の目標と重なっています。私は研修で第2の人生をスタートさせるための課題として突破力、行動力を得る をあげていましたが、それはそれまでの得ている力を捨ててミッションを達成する課程から体感することができました。自分の壁を一部壊したのです。

 本書では、筆者が自分と世界がつながっていることを様々な事例を引き出しながらあげています。体内の他者(ミトコンドリアは細胞に住み着いた他者)の存在。内蔵にたくさんの細菌が共生していること。ヒトデもトンボも蝶も、幼虫から生体への変態は、全く別の生き物に変わるが、それは元々別の生物が合体しているのではないか。

 世界、自然の一部が自分であり、地図で例えれば自分とは、地図上の矢印のようなものであると述べています。自分とは世界の中の部分である。人間は自然の一部、田んぼは自分、海も自分であると。そしてこの自分は世界の中でえこひいきする部分なので、いったん自分から出て行った、つばやら大小便やら切られた爪やらにたいしては排他的になる、のではないか、と。

 自然的なものだけではなく、社会的な物事ともつながっているので、例えば原子力発電の問題も自分の問題であるし、世界で起こっている様々な事柄も全部つながっています。ますます、世界はつながり感を強化するように変化しています。

 自分が世界と、自然とつながっていることを考えれば、そこからは世界をかえることもできます。今回私が受講した千葉での2泊3日の研修で受講者は、道は異なりますが、それぞれが世界を良くする、という表現で自らのミッションを作りました。それは世界とのつながりを忘れない限り手段も方法もあるミッションです。

生命の森での体験から(人生航海図受講で得たもの)

超介です。

 自分にはないもの、いえ正確には、あるけれども自覚できず隠れているpower、これをつかむ体験をしてきました。

 日本青少年育成協会主催の 第24回人生航海図(in 千葉)がその体験の場です。7月12日から14日、2泊3日、20代、30代中心の受講生の中にまじっての受講。そこは「生命の森リゾート」と命名された、深い深い森の木々に包まれた空間です。実は数年前から、このセミナーに興味のアンテナはたっていたのですが、「私には受講は無理」と思っていました。根底には不安があり、それは「時間も、お金も、体力もない、だから無理」と正当化していました。

 35年間勤務していた会社を退職し、郷里に戻り第2の人生をスタートしたとき、生きぐるしさがありました。理由をつくって、限定的に人生に向かいあおうとしている自分を感じていました。そんな背中をコーチングで知り得た人たちがぽんと、おしてくれました。航海図に参加し、何かをつかもうと、決めました。

 私は、表現型が左脳型ですが、その思考をつかって不安を正当化する理屈をつけやすいので、それが自らの行動を制限してきたように感じます。行動の制限は世界を広くしないので、リスクは少ないけれども感動もまた少ない、重たい鎧をかぶって生きているようなものです。その鎧がずいぶん溶けた、と感じるのです。

 自分のミッションを作る、それを伝える、それをとる、ということを身体能力を限界まで振り絞り続けることで、何かの固い鎧が溶けてきたように感じます。あるトレーナーは、限界まで力を出し切って息も絶え絶えの私、そして再挑戦したいという私に「今、持っているものを捨ててとりにいってください」とリクエストしてくれました。「細かいことを積み重ねる力はあります。ほかの力は?」「ミッションを邪魔するもの対策にエネルギーを使っていませんか?」などのフィードバックをも受け取りました。

 そしておこった不思議な体験はまさに「仲間によって力を与えられる」ことを知る、でした。心を込めて応援してくれる人たちによって達成できた、という体験、自分と、仲間にある、心の力、信頼の力があることの体感です。

 いろいろな生き物がうごめく生命の森と同様に、私の体の中にも様々な命の力が刻み込まれていて、それらを知ることができたのです。かけがえのない体験でした。私は体が軽くなり、より自由を手に入れたのです。
 

電波による不調から

超介です。

電波による体調不良、と思われるような倦怠感、頭痛にとらわれていました。なんとなく朝起床後そのような症状を感じたので、最初は疲労かな、と考えていました。face book で電波による障害記事に出会い、生活環境を見直した結果、その不調は随分と改善しました。

思いもつかぬ事が原因で起こっている不都合があったり、その不都合の原因を全く違えて捉えていることがあり得ます。そのためにも捉え直しをすることは大切であると思いました。今回も、倦怠感、頭痛が起こるのは、気合が入っていない、頑張らないといけない、というように精神論的にとらわれてしまっていれば、未だ抜け出せずにグズグズしていたかもしれません。

数年前に電波障害について興味を持って読んだことがありました。それが、自分の身に起こってそして、ネット上でその言葉にタイミングよく出くわしたので対応できました。知らないままだとうまく対処出来なかったに違いありません。

私が出会う様々な壁も、その原因は私が思っていない、違ったところにあることが多かったり、或いは壁ですらなく、単なる思い込みであることも結構ありました。不安感などはその際たるもので自分の思い込み以外の何物でもありません。

思い込みにとらわれて不自由に生きるのではなくて、もっと自由を感じながら生きていきたいと思います。そのためにも多様な体験が必要であり、その際に最重要な武器、はやはり言葉(とかイメージ、映像)だと思います。言葉(とか、イメージ、映像)によって思考するからです。言葉は思考のレンズであり、遠くも近くも、全体も部分も、時間をもそれで見ることができると思うのです。

コーチングを行う時も言葉のセンスはとっても大切で、相手の言葉の重み、意味、イメージをコーチは注意して量ります。自分の言葉と相手の言葉が示しているものは異なることがおおいので、突き放したり、近づいたりしながら確かめ、付き合うのです。特に異なる文化で生きる人、或いはその言葉を知らない人、がそれが示していることを話す場合(例えば子供とのコミュニケーションなど)は特にそれらが必要です。言葉で世界を適切に表すセンスを身につけていきたいと思うのです。

捉え直しをする(その3)

超介です。
 
 悩んでいる問題が解決できると、そのことから自由になるので、晴れやかな気持ちで前へ進めます。そのときは、問題に関係することがらとのつながりがわかって全体が見通せたような感じがします。コーチングをうけて、自分の中にある言葉を探し出してみて、その解決案を導きだすことがあります。本を読んでその中からぴったりくる考え方に気がつくこともあります。

 人事上のトラブルに遭遇したとき、解決者としての立場で対応するとき、この捉え直しをしてもらおうとしたことがありました。Aさんのaという考え方、Bさんのbという考え方が対立しているときAさんにb,Bさんにaの考え方を理解してもらうことになります。それが理解できれば解決策が出てくると思って私は対処します。でも、なかなか解決はしません。お互いの話を伝えたり、議論してもらったりします。当事者同士が話をするのが早いのです。私たちは相手の考えを類推しますが、Aさんはbの考え方を間違えて捉えることが多いので、直接に話し合うことが一番なのです。

 その場ではうまくいかなかったとしても、あとでわかるかもしれないので、現場で、当事者と情報共有につとめてもらうことが一番です。でも、それが実現しないことが度々あります。私がもし当事者であれば、それは自分が変化することに対する抵抗ではなかろうかと思えます。ちっぽけな自分、受け身の自分。自己開示と相手との交流への恐怖は、ひょっとしたら幼いときのいじめの体験からかも知れません。でもそのことは、もう振り返ってもあまり意味はありません。行動するかどうかの選択にこそ意味があります。

  捉え直しをすることの効用は、自己啓発やら、起業家精神等についての書物でもたくさん見受けられます。私は「原因と結果の法則」やら、「20歳のときに知っておきたかったこと」(テイナ・シーリグ)を読んで多いに触発されました。

  それで、ipod をオンライン購入したときその背面に「気高い夢を見る。私はその通りの人になる。」と刻印してもらい、いつもそれを見ます。