新しい仕事

超介です。

しばらくブログを書いていない、と気がつきました。ちょっと慌てて、マックで書いています。

今、「j.スクール」という名前の塾を始める為の準備をしています。

新しい仕事に挑戦することは、とっても楽しいです。それは私にとって新しい経験で、次々と選択することが現れるからです。当面は個人塾として一人で運営します。それで、全部自分で決めます。今日は看板の発注をしました。文言をどうするか、ロゴはから始まって近隣の店舗との工事協力依頼の段取りまで、業者さん、家主さんと詰めていきます。

準備と一緒に不安も感じ始めます。3月に塾生募集、体験講座をやって4月開講です。具体的な不安な事は思いつかないのですが、身体が不安を感じているようです。そう、なんとなくの疲労感、とでもいうような感じです。この疲労感の説明として「不安」だろうと。

個別指導と、自立学習をコーチングを使って行います。「子育ち」が支援できるようにコーチング認定校としても申請中です。

新しい人たちとの出会いがとても楽しみです。

学んで時に之を習う(?)

超介です。

霧芋という、丹波篠山特産の山芋があります。小学生の頃、我が家では食べていたようですが、半世紀たった最近その芋をいただき、初めて見た外形に感動しました。初めて意識して見たんだと思います。握りこぶし2つ分ほどの、おおよそ球形ですが、少し凸凹ののある、ザラザラしていますがなだらかな球面のあるお芋です。

その芋が土の中から出てきた時に、隕石を想像させる、と直感しました。畑にそれがたくさん植えてあって、地上の植物体はたくさん、何回も見ていたのに、土中にそんな形の物が埋まっていたとは想像出来ませんでした。それで、おがくずの入った袋の中に大切にしまわれていたそれを、しばらく眺めました。

「昔よく食べとったやろ?」と家族がいいましたが、思い出せません。とろろにして食べてみて初めて思い出しました。「ああ、これは美味しいと思っていなかった味だ」と。そして、当時と違う「美味い」と味わっている自分に気がつきました。「味覚が広がっている」ということだと思います。

感覚が深まる、という様な、脳の中の物事に対する基準が多様化していくことは人生を豊かにしてくれます。「学んで時に之を習う、亦楽しからずや」はこのことも含むのかもしれません。この「時」は今回の霧芋の味わいでは、半世紀も立った時間の流れになってしまいましたが、この「時」の中で変わってきた自分を感じることが楽しいのです。

2015年の干支 「乙未」について

超介です。

皆様あけましておめでとうございます。

今年の干支は乙未(きのとひつじ)です。毎年「安岡正篤著 干支の活学」を開いて、そこに記載してある、干支の意味を探す作業を行っています。この本によれば、干支というのは占いではない、「生命あるいはエネルギーの発生-成長-収蔵の循環過程を分類、約説した経験哲学」というものとしています。十干、十二支の組み合わせによる合計六十の干支を生命やら社会の流れに照らし合わせ、その流れを読み解き、その年を生きる人々の何らかの指針となるように、という狙いです。先人の知恵がそれぞれの干、支に込められていて、その意味を知って自分なりの解釈を行えば、まるで鏡のようにその年なすべきこと、注意すべきことが浮かび上がってきます。

私はこのことを、尊敬する恩人から教わり毎年自身の生き様に照らし合わせて解釈し、新年の心構えとしています。

さて今年の干支の乙は「乙は甲の芽がなお寒さや外の障害に逢うて屈曲する象形で、乙々と言えばはかばかしくゆかず苦労する意」とあります。去年の干支である甲午の甲は、硬い殻を破って新しい芽が出てきたその象形ですが、それを受けての乙は、その後未だ環境は厳しくすくすくまっすぐに芽が伸びる、とはいかない、の意味です。そして支の未は「これは上の短い一と木からなっておって、一はやはり木の上層部、すなわち枝葉の繁茂を表しておる。ところが枝葉が繁茂すると暗くなるから、未をくらいと読む。未は昧に通ずる。つまり支の「未」は、暗くしてはならない、不昧でなければならない」としています。

干支を合わせて解釈すれば、2015年は、甲で象徴される、昨年新たに始まった動きがあるが、環境はそれを順調にすくすくと育むような状況ではなく、ややもすると芽は、まっすぐでなく曲がって伸び悩む、そしてその逆境は植物が繁茂して、地面を暗くしたりまた、伸びる目を邪魔したりする。であるから、それらをしっかりと切り取ったりあるいは整理して、本来の芽が育つように整えよう、という解釈ができます。この場合の地面の植物は力強い命であると同時に、そのままだと邪魔するものにもなるという象徴です。多くのものを整理するとは、例えば切り払うもそうです、でもそれにこだわらず、本来自然とはぐんぐん草木が繁茂するもので、それらをうまく同じ方向にリードしていくことが大切です。

 私事ですが、私の場合にてらし合わせると、昨年退職して、人生を再スタートしましたが、気を緩めることなく当初の気持ちを忘れずに進めよ、と。また色々と誘惑やら邪魔するものが現れるけれども、流されずに使命に照らし合わせて進めよ、と言っているように思われます。

 みなさん、今年もよろしくお願いします。

「いいとこ探し」の旅は人をいいとこに連れていく

超介です。

(2014年の振り返り)

世界を感じたり
表したりすることは
自分が感じたり
表したりすることであること

つまり、
世界をどのように捉えるかは自分次第であること

世界と自分は不可分であるから
世界の捉え方を変えれば自分は変われること

このことに尽きる

だから
「いいとこ探し」を続けていれば、
自分の「いいとこ」も見えてくる

「いいとこ探し」の旅は人を「いいとこ」に連れて行く

薩摩隼人

超介です。

 最近知り合えた70過ぎの先輩、白髪の薩摩隼人。豪快で、かつ気さく、退職後に始められた畑仕事を楽しまれています。大豆、小豆、黒豆等の豆類、白菜、キャベツ、小松菜等の葉物類、大根、人参、里芋、サツマイモ等の根菜類もつくり方を聞いたり調べたりしつつ、栽培されています。イベントやら何やらにはよく顔を出されて誰彼にも明るく笑顔で話しかけられています。アクティブで、明るくて、素敵な人です。

 先日、近所の忘年会でお話を伺う機会がありました。大阪の商社に入社されるまでの経過、日中友好平和条約締結の年から6年間の中国での仕事、帰国後の東京支店長時代の人員整理とその悩み、役員就任後の身の振り方等々話しを伺う内に、大変厳しい時代を生きてこられた方であることがわかりました。

多くの社員を解雇した時、身の置き所がなくてお寺に入って1ヶ月過ごしたこと、成果を認められて役員に登用されたが、考え方が違うと感じ退職して次の人生を始めるために丹波にこられたことなど。真剣に人生に向かい合う、ということから出てくる迫力と、彼の優しさに感動しました。

人生の先輩に会えたと思えました。

料理の楽しさ

超介です。

 丹波に越してきてから(丹波に帰ってきてから、という方が正しいのですが、これまでの人生の中では、生まれてから丹波に住んでいたのが18年、それから丹波を離れて四国愛媛に住んでいたのが40年、四国の方が長くて、故郷的感覚になっているので)食事を作ることが多くなりました。

 料理の手順は簡単です。いつも冷蔵庫やら、納屋に置いてある野菜類の食材をみて、それからネットで検索して調理します。ネットで検索すると、入力する食材の種類にもよりますが、レシピの種類が数千から数百出てきます。その中から私に作れそうなものを選んで、プリントアウトして、それを見ながら作ります。ほぼ毎日これを繰り返しています。

 その結果、プリントアウトしたレシピが半年で180種ほどもたまりました。お味噌汁やピラフ、パスタ、カレー、てんぷら、ラーメン、うどんなど簡単なものは別ですが毎日異なるものを作るので、作り方もほとんど覚えていません。でも作っているうちに、だんだんとレシピ通りでなくともそれなりに料理ってできるもんだなあ、と思うようになりました。

 例えば、中華風のあんをかけた野菜とかまぼこの炒め物であれば、青梗菜でなくとも、白菜でも、小松菜でも美味しいし、しいたけを入れてもokとか、調味料の種類と、量も多少変えても食べられるということなどです。料理を長くやっている人であれば当たり前の事なんでしょうが、独りでレシピを見てやっているうちに気がつきました。

 料理番組などを見ていると、料理人が実にうまくそこにあるもので調理をします。きっと頭の中で、材料を見て出来上がりのイメージができて、手順が浮かんでくるんだと思います。こういうのを上達するというんだろうと。この材料から出来上がりを想定して、段取りをつけて実行するというのはとても楽しいですが、やらないとわからないことなんだと、分かりました。

 料理の道も奥が深くて、挑戦してるといろんなことが学べそうです。

「場」から学ぶ

  超介です。

  2014年もあと1か月を残すばかりとなりました。今春、今後の人生のための
充填の1年にしようと考えました。そして、5月からの7か月間あまりの期間に
丹波を離れ京都、千葉、東京、名古屋の地で累計18日ほど研修に参加すること
ができました。その場で意識して理解できてわかったことも、身体が(意識は
伴っていないけれど)力を得ていることにより理解できたこともありました。
たとえば自分の体力の限界は超えているのに、まさに周囲の仲間たちの励まし
によって力を得て目標を達成できた体験などです。

  その「場」から影響をうけていたことに後日気が付くことも多々ありま
した。「場」がエネルギーを与えてくれているのです。そこで放射されてい
る、主催者の意図、トレーナーの、そして同じ学びを求めて集まっている
仲間の活動が発散するもの、それらが「場」を構成していて、そこに意図を
もってかかわっていれば、その時には理解できていなくとも、後日意味を
見出すことがたびたびありました。

 それは、その時に意識して理解できていることではなく無意識のうちに、
そこでやり取りされた言葉やら、身体の動き、感情等が、私のうちにたまっ
てきて、身体が自動的に無意識理に情報を再構成し学習しているような感じ
なのです。

  さらに、これはある研修で、毎回1月間実践していることですが、直感
的にテキストから「keyword」を選び、それと1月間「一緒にいる」という
メニュー。これは自分の日常が学びの「場」になります。「key word」
と一緒にいるとは、たとえば私は自室の椅子のすぐ上の天井に、そこは低い
天井で頭上2,30cmのところですが、A4の紙に「key word」を貼って、
それを再々見るのです。すると、生活の中で出会う課題に向き合っているとき
、それが解決のためのヒントを方針を指示してくれたりするのです。

  無意識理におけるこのような学びは教育コーチングの
「信念のトライアングル」
(人は自分の中に答えを持っている、人は育とうとする生き物だ、人はそれぞれ)
が表出しているように思います。

心と身体

超介です。

 丹波では、ストーブやら温風機、加湿器を使うようになりました。皆さんいかがお過ごしですか
私は四国松山にいた頃より寒さを感じています。

 最近、ある言葉と再会しました。それはフリッツ・パールズという心理療法家の「ゲシュタルトの祈り」です。有名なフレーズなのでご存知の方も多いとおもいます。以前にもこのブログに書きましたが(2010年10月18日)この中の「私は何もあなたの気に入られるために生きているのではない」というフレーズに再び、揺さぶられました。それは、挑戦したい、と願い、あることに臨んでいる時のこと。そうと決めたものの、あとで、強い不安に襲われました。やることに意味を見出したはずなのに、やれる見通しがあると踏んで決めたこと、でも心の何処かで嫌な感情が起こってきます。

 ああ、また出てきたな、と思いました。この気持ちにはよく出会うのです。以前は無意識に感じていましたが最近は少し客観視できて、その感情に振り回されずに捉えられる時間が増えました。そして、それを探求して見えてきたことは「他者の視線を意識している自分」です。この時にこのパールズの言葉が背中を押してくれているように思えたのです。

 さらに、私の持病である尋常性乾癬が免疫性の疾患であり、それはどうやら自分と他者の区別が明確にできていないことと関わる、ということを知ってさらに理解が深まりました。皮膚科の医師のもとでの治療、民間療法の先生の親身なアドバイスと治療法を提案いただき随分改善したのですが、完治には至っていません。そんな時に「病気は才能」(おのころ心平)というDVDをみてこの疾患と心の関わりのヒントを得ました。

 ああ、この病気は私のbeliefのようなものと関わっていて、これでいいの?と問いかけてくれているんだ、と思えたのです。さらに病気にとどまらず、これまでの人生で起こってきたことと私のbeliefとの関わりが理解できたように思うのです。

 未来と私は変えることができる、これが現在の私が考えた基本の処方箋です。日々の生活の中でやることをきちんと決め、実行して、十分に感じて味わい、また決めて実行して、という過程の中で深まるものをつかんでいくのです。

言葉の意味、使い方

超介です

数年前は本からから学ぶことが中心でしたが、ネットが加わり、さらには人と出会って学ぶ機会が増えてきました。その中で言葉の重み、意味の含量のようなものを感じるようになりました。特に現場に近い、生の人との出会いからそうおもいます。本やらネットで言葉の引き出しを作り、そしての中身を生の現場で拾っています。ずると、言葉選びに敏感、慎重になるのです。

引き出しの中身が気になると、本を読むのにも慎重になって以前は読み飛ばしていたような項目が、読み飛ばせなくなったり、途中で読書をやめる、以前は興味があった本がそれほどでなくなったりしています。逆にそれほど興味がなかった物語、小説に関心が移ったりしています。

話し言葉も、意味を確かめながら聞いたり、話したりすることが増えてきました。その結果、話す内容に慎重になり、必然ゆっくりになりました。相手の言葉の意味が気になったり、以前は随分考えもせずに話していた事に気が付いたりします。そして、そのような言葉でつくった話を聞いてもらうことは、心が整理できてスッキリ、話し手が新たな気づきを得る機会が増えてきて、行動へのモチベーションが高まります。

文章を書くことは、聴く、話すより意味のつながりを確かめる良い方法です。自分の考えを外に出してまた読み直すことが確実にできるからです。書き言葉は引き出しのラベルを整理してきちんと並べて整理して体系付けて理解したり、伝えたりする、ということができます。その言葉の意味にはその人が無限と言って良いほどの情報のつながりがあるので、人によって響きが違ってきます。それは人が持っているすごい能力でまだまだコンピュータが真似をできない能力です。

自分で始める(2)

超介です。

周囲に依存しなくなって自分で始めるようになったとき、ではどうするか、と自分で考えます。そうすれば、対象からちょっと離れたり、理由を探したり、目的をつくったりさがしたりしはじめます。そして道が幾つかあることを知り、その中の一つを選択することができるのです。

その時に自由の実感、結果やら未体験への期待感があります。それらが緊張とドキドキ感を与えてくれるのです。これが自分ではじめることが素敵な理由です。緊張感とドキドキ感は以前にも感じたことがありました。その時はそれらを不安と捉えていて、だから、「嫌だな」と考えていました。

期待感と不安感は紙一重です。「ドキドキして、おもしろいやろう。」と言葉で背中を押してもらえた時、分かる程度の差です。自立するという意識の高まりがその人のうちにあって、本で読んだり、誰かから言ってもらうとかして、何かから、そんな意味合いの言葉でつついてもらう時、殻が割れて自立が孵化するのかもしれません。卒琢同機です。

私の場合、まず意識の高まりは、それまでの体験の積み重ねが与えてくれているように思います。数年前のことです。家庭も仕事もうまくいかなくなって、途方にくれたとき、何かできる前向きのこととしてはじめた学び、それは深夜営業の古書店の徘徊、深夜喫茶での読書でした。また、体の調子が最悪になってたくさんの病院通いでもダメで、自分で体質改善しよう、食事制限は自分でできる、それではじめたダイエット。とにかくやってみよう、それから考えようとしていました。

そのままにするか、何かするかの選択でしかなかったです。追い込まれないと始まりませんでしたが、それでも一歩踏み出すと、しばらくは続きます。その繰り返しをしているうちに、少し工夫も生まれて、自分への信頼を少しづつ高めてくれました。

そうして、できるかもしれない、と可能性になんとなく気がついたとき、周囲から言葉を拾ったり、人からアドバイスをいただいたりして一歩を踏み出すことができています。さらに進化し、多様な道から選べて、自由に踏み出せるようになります。

コーチングを学んでやってきたことを自身でも追体験し、繰り返しているような気がします。そしてこれは、私の仕事においてこれからも大切で有効なものなのです。