教育コーチのGです。
第5回徒然読書日記は『人を伸ばす力 内発と自律のすすめ(著者:エドワード・L・デシ)』です。
著者のエドワード・L・デシは、「内発的動機づけ」研究の第一人者であり、本書は1995年に出版された「Why we do what we do: The dynamics of personal autonomy」を1999年に日本語に訳したものです(訳者あとがき)。
出版は約15年前とかなり年月がたってはいますが、その内容は、現在でも十分に通用します。
さて、人は外的報酬(ごほうびなど)がやる気を高めるものと考えがちですが、デシは研究をとおして『外発的報酬は内発的な動機付けを低下させる』という理論に行き着きます。
まずは、ちょっと長いですが、デシが紹介している、あるユダヤ人の寓話を引用します。
『ある町の偏屈な男たちが、洋装店を目抜き通りに開いたユダヤ人の男性を
町から追い出そうと躍起になっていた。
彼らは、その洋服屋に嫌がらせをするために一団の乱暴者を送り込んだ。
この不良たちは店の前で毎日、大声でやじったりののしったりする手はずだった。
ぞっとするような事態だったが、その洋服屋は賢かった。
不良たちがやってきたある日、洋服屋は彼らのやじったりののしったりする努力に対して
全員に十セントコインを一枚ずつ手渡した。
すると彼らは喜んで、ますます無礼なことを叫び続けた。
次の日も彼らは十セントを期待して騒ぎにやってきた。
しかし、今度は五セントしかあげる余裕がないと洋服屋は告げ、
全員に五セントずつ手渡した。
彼らは少しがっがりしたが、五セントでも金がもらえることには変わりがないので、
各自五セントのコインを受け取り、叫ぶだけ叫んで帰って行った。
次の日、彼らはまたやってきた。
今度は一セントしかあげられないと洋服屋は言って、コインを手渡そうとした。
それを聞いて憤慨した不良たちは、あざ笑いながら言い捨てた。
おれたちには、一セントぽっちのはした金のために
わざわざやじるような暇はないんだ、と。
そして彼らは騒ぐことなく立ち去った。
結局、洋服屋は不良たちの嫌がらせを阻止することに成功したのであった。』
この寓話は、お金が欲しくて行っていた行動ではないにもかかわらず、報酬を与えられた途端に内発的動機づけが低下してしまうということを示唆しています。
さらに、デシは巧みな例をあげ、内発的動機づけと外発的動機づけの差異を明確にしていきます。
『都会の動物園に行けば、お馴染みのオットセイの曲芸が見られるだろう。
オットセイは腹ペコになった自分の口に飼育係が魚を放り込んでくれるので、
その魚をもらうためなら何でもする。
前ビレで拍手をして見せたり・・・・。
飼育係たちは、報酬を使って望ましい行動を引き出すのがとてもうまい。
このような曲芸ショーは、報酬を与えることが
抜群の動機付けテクニックであることを証明している。
「もし、オットセイでそんなにうまくいくのなら、
私の子ども、わたしの生徒、わたしの部下にもそのやり方が通用するはずだ。」
しかし、動機づけの問題はそんなに単純ではない。
オットセイの場合にもそのことは当てはまる。
たとえば、飼育係がいなくなったとたん、見せ物の芸も消えてしまう。
報酬は行動の出現率を高めるかもしれないが、
それは報酬が提供され続ける範囲での話である。』
次のような2つの実験も記されています。
『大学生に簡単なキューブパズルに取り組んでもらった。
調査をすると、パズルは面白く、好きであると学生たちは答えた。
こののち、学生たちを2つのグループに分け、パズルに取り組んでもらった。
1つのグループにはパズルを解くごとに金銭的報酬が与えられ、
もう一つのグループは報酬が何もないグループである。
30分ほどパズルに取り組んだのち、実験が終了したことを告げ、
実験者は数分間部屋を空ける。
この間に被験者の学生たちがどの程度パズルに取り組むかを観察すると、
金銭的報酬を支払われた学生は、報酬のなかった学生に比べ、
自由時間をパズルに費やすことはずっと少なかった。
人はいったん報酬を受け取り始めると、その活動に対する興味を失うのである。
そして、報酬が打ち切られると、もはやその活動をしたいと思わなくなるのである。』
『学習の前に、テストをされると予告された子どもより、
他の子どもにあとで教えてもらうと伝えた子どもの方が
内発的動機づけが高く、概念的理解度も高かった。
ただし、機械的暗記は、テストを予告された子どもの方が成績が良かった。
しかし、1週間後に行ったテストでは、
テストをすると予告された子どもの方が忘れた量が多かった。』
そして、デシはこうまとめています。
『人は報酬を、統制するものだと見がちだということである。』
『報酬によって人は多くの活動に対して興味を失ってしまう。』
『その活動を金銭という報酬を得るための単なる手段としてしか見なくなり、
その活動にかつて抱いていた興奮や熱意を失ってしまうのである。』
また、自分自身の内部にひそむもう一人の自分について、
『だれの心の中にも主人と奴隷の関係がある程度存在している。
人は自らをかなり自律的に偽りのない自分にもとづいて調整できるが、
一方では自分にプレッシャーをかけたり批判したりして、
かなり統制的あるいは独善的な仕方でも調整をしている。』としている。
これは、ティモシー・ガルウェイがインナーゲームで記したところの、
セルフ1・2にも通じる考え方です。
教育コーチングでは、このような自分自身にプレッシャーをかける内的な自己を
「ウィスパー」と表現しています。
では、どのようにすれば、人は内発的に動機づけられるのでしょうか。
デシは、次のように記述しています。
『人には、自分の自律性あるいは自己決定の感覚(自己原因性)を経験したいという
生得的な内発的欲求があると思われる。』
『内発的に動機づけられるためには、自分が有能であり、
自律的であると自分自身で認識している必要がある。』
また、シャーロット・セルバーの「センサリー・アウェアネス(人の内的な機能をはたらかせ、本当の自分に触れる機会を増やす手法)」を引用し、「ねばならないを手放したときに、そこに至ることができる」という趣旨の主張を展開しています。
これはまさに、徒然読書日記3でもご紹介した、教育コーチングでいうところの「自分を許す」ということにほかなりません。
前にも書きましたが、教育コーチングのプログラムの中でも、ぜひとも「自分を許す」は体験いただきたいものの一つです。
さて、最後になりますが、教育者、親、上司としての私たちにとって、大切なことが書かれています。
『統制しないで励ますというスタンスは一見容易なことのように思えるかもしれないが、
実は決してそうではない。
自律性を支えることは、実は強制することよりもむずかしく、
より多くの努力や技能が要求されるのである。』
『プレッシャーを与えるよりも、それを取り除く方が学習を促進することが示された。
統制が学習効果にマイナスの影響を与えるという知見は、
人間一般に通用する特徴であると解釈できるのではないだろうか。』
『独立性とは、独力で何かをすることであり、
他者からの物質的、情緒的支援に頼らないということである。
それに対して自律性とは、自由な意思と自己選択の感覚をもって、
自由に行動することである。
独立していてしかも自律的な人もいれば、
独立していて、しかも統制されている人もいる。』
『自律性の支援が自由放任と同じでないことは、
いくら強調しても強調しすぎることはない。』
狭き門の一節を思い出しました。
『力を尽くして狭き門より入れ。
滅びにいたる門は大きく、
その路は広く、之より入る者おほし。
生命にいたる門は狭く、
その路は細く、之を見出す者すくなし』
教育コーチングのアプローチは、決して簡単で楽で広いというわけではありませんが、狭くても生命にいたる力強い路です。
とかっこよく決めましたが、狭き門の主人公のように若かりし頃に従姉に淡い恋心を抱いて、見事にふられた過去を持つGでした。