日常からの脱出

 超介です。

 12月上旬以来、再び登山を行いました。丹波のこのあたりは登山の楽しみがあります。今回は9人のチームで登りました。前回同様適度に険しい山です。鏡峠という隣の篠山市との境界の峠まで登って、尾根を歩きます。峠といっても道はあるかないかわからぬようなところを進んでいきます。その名も鋸山、のこぎりの歯のようにアップダウンの激しい尾根を進んで一番標高の高い岩が目的地。そこからは、いくつかの方向に進んでいく谷とその中の川、田畑、家々がグーグルマップのままに一望でき、さらには福知山市やら丹波市の北部の山並みが雲海の中に見えたのです。

 私にとっては、途中のルートも足元に注意しながら進まないと滑ったり、転んだりしそうなところの連続で、特に帰路はそれに加えて左足の太もも、両足の指先が痛み、辛いものでした。

 しかし、この登山は今の私にとっては非日常的であって、新鮮だからまた行きたくなります。この登山の後では、感覚、視点が違っているのです。それは、まだ身につけていない感性のようなものです。それにちょっと触れているのだと思います。

 さらに、この感覚の先に、登山以外に、来年からやってみたいことがあるのでは、という予感があります。

山登り

超介です。
To-do list を作って、結果を日々残すことに生きがいを見つけることは悪いことではないですが、ちょっと狭いなあ、と感じることがあります。

先日、山を登りました。1分もあるけば山、そのようなふもとに自宅があります。見上げれば尾根が30度以上はあるように見えて結構急峻。途中で足を滑らせたことが3回ほどもあって、帰りは足がプルプル、右足が引きつって歩くのがつらかったです。山頂まで道なきところを進んで尾根を少し歩いてまた降りてきました。ひどく疲れました。

翌週に、杖やら、登山靴、雨合羽、それにクマよけの鈴の手配をしました。

良いとこさがしを続けてきて、少し見方が変わってきたのかな?

意識すれば自信が生まれる

超介です。

3年前の、現役時(会社に勤務している頃)より忙しくなった、と感じています。日曜日は塾を休みにしているのですが、11月の日曜日は自治会の仕事(数時間程度で終わるものばかりですが)が何か入っていて遠出(県外へ出かけること)ができません。先月は京都出張を一日入れていましたが体調を壊し自宅で休みました。

自塾の仕事の量は少ないのですが、それ以外の公私にわたる仕事が増えました。6月末の父の葬儀以来、9月の百箇日までの各種の法事、8月の夏祭り、9月の運動会、稲刈り、10月の秋祭りと大きなイベントが続き、その合間にその準備やら月2回の自治会の会議、通常の業務がありました。

ほとんどのことがはじめてなことが多かったのですが、最初はわからないことに頭を悩ましていました。振り返ってみると、もちろん失敗もたくさんしてきましたが、意外と、想定以上に順調にこなせているので、少し自信がついてきました。現役時代に、様々な相談に乗ってもらっていた人から「たくさんの体験財産がある割には自信が持てないんだね」と指摘されたことがありました。これまでは、先のことに対する不安が先行して、自信を感じることができていなかった、ということがわかりました。

 このことは、次々と降りかかってくることが多かったお蔭で、新しく理解できたことです。

最近のささやかな一歩(その2)

超介です。

最近のささやかな一歩(その2)です。

もやもやした少しネガティブな感情に支配されているときに、もちろんコーチングはそんな時にも有効ですが、その結果として、その感情を引き起こしている対象物、あるいは人にたいして「いいとこさがしをする」ことができれば、さらにそれを「言葉で表現する」ことができれば、そしてさらには「伝える」ことができれば前に進めることが分かりました。

 この時のいいとこさがしでは、視点を変えてみることが大切です。そのためには「過去にさかのぼって、未来まで考える」とか、「本質をつかむ」、「多面的に考える」とかがありえます。ある人間関係におけるモヤモヤは「このことが教えてくれている意味」という視点を考えたときに晴れわたりました。

 よく考えてみれば、丹波に帰省した時に最初にやったことはそれでした。というのは大好きであった松山を離れて故郷に戻った時(今もそうですが)「丹波のいいとこさがし」をして、それをほとんど毎日FBにアップしました。生活しているうちに見出すことができたものをiphoneでパシャリとやって、コメントを添えてアップする、これを繰り返します。

人間関係においても、何かモヤモヤがあった時に「視点を変えて見直」せば、その意味が見つかって晴れ渡る、という体験をしたのです。

最近のささやかな一歩です。

最近のささやかな一歩 (その1)

超介です。

 6月末から9月にかけては、私事多忙でブログへの投稿の回数を減らしていました。父が亡くなったので、その後の手続きと家の仕切りの仕事が増えたこと、自塾の2年目の夏季講座及びHPの整備等をしたこと、自治会の仕事が増えたことなどが理由です。法事やら、稲刈りなど、タイミングが外せない仕事もあって、多少無理をしました。8月末頃からは疲れを出してしまい、すこしセーブすることにしました。

 塾生が通塾時に疲れてしまっていて集中できないのと同じで、机に向かって作業を始めても眠くなって、頭が働かない時があります。それで、能率的に仕事をするために、体を使うことと、頭を使うことを交互に取り入れて進めるようにしました。塾の仕事でいえば、小さな教室ですがそれでも廊下や手洗い、そして教室内の掃除をしたり、授業準備をしたりと、結構時間もかかります。それらと、机に向かってすることを交互にしたりすることで、少し前に進むようになりました。ささやかな進歩の一つは、必然的に仕事の組み立てを考えるようになったことです。体力の限界を感じたこと、やる仕事、やらない仕事の区別を考えて進めるようになったことです。

 ま、しっかり仕事をやっている人には仕事の組み立ては、当然のことです。私の場合は、起業してから1年は思いつきで仕事ができていたのが、それが回らなくなっただけなんですが。

 2つ目は次の機会に。

どのような努力をするか.

超介です。

オリンピックのメダルの国別獲得数を見ていて、どのような努力をすべきかについて、再度考えさせられました。もちろん生まれついた才能の差はあったとしても、ほとんどのアスリートたちがメダル獲得にふさわしい、おそらくその範疇においては、時間と方法をかけたに違いないことを思いました。そうでなければ、そのような方法を取らなければメダルの獲得数が増えるわけがありません。

重要なことは単純に練習時間をかけることではなくて、どのように練習するか、です。このことは「超一流になるのは才能か努力か?」(原著PEAK Anders Ericsson & Robert Pool)という本で「限界的努力」という言葉で解説されています。

単純な精神論ではなくて、心理学的にも科学的にも的な根拠のある方法論での学びが大切であることをオリンピックは世界にPRしたように思います。

私は毎日の英語の勉強とギターの練習を、この観点から再度見直しました。

社会的適応

超介です。

 生前と死後、私たちの肉体を構成する分子、原子は自然の中に拡散していますが、生きている間、それらは独立し、まとまりを持って世界を動きます。生前と死後の意識も同様に宇宙の中に拡散、埋没していると考えれば、それは区別ができない大きな塊、宇宙と一体化しているといえます。それが生きている間は、大きな宇宙の意識の塊からこぶができるように、一部飛び出て独立して動き始めるのです。どこの部分から飛び出るかで、その特徴が生まれてきて、個性が生まれる。そう考えると、自分と他人が違って見えるのは当然であるし、違わないと存在しないともいえます。
 他人との違いが大きいと、不安を感じたり、さらにそれを指摘されるとその不安が大きくなったりすることもあります。でも肉体も意識も生まれてくる、つまり分かれて出てくるのは、それまで一体であったものと違いが出るというところに意味があるのですから、違いを感じて当たり前です。少し狭い意味に社会的適応を捉えるとその不安を解消するために、人は規範的なものを学び、部分的一体化しようとするのかもしれません。
 人と同じように感じることができない(正確に言えば他人の感覚と自分の感覚の違いが同じであるということは証明などできませんので)、人と同じように感じると信じることができない感覚はすごくまっとうです。たぶん程度の差はあってもほとんどの人が、このような不安を持っているか、持った経験があるのではないでしょうか。
 2016年度上半期芥川賞受賞作品「コンビニ人間」を読みました。この小説は上記のような生前、死後と生きている間の肉体と精神のイメージを僕に与えてくれました。

原理原則に従う

超介です。

 一日のルーティンのうちに、昨年9月から続けている英作文の暗唱と今年1月から始めたクラッシックギターの練習があります。合計で一日に、2時間から3時間くらいです。ほぼ毎日継続しています。停滞気味になって、上達が感じにくくなってやめようという気になるときの対処の方法は身に着けることができました。それは上達曲線の、自分の今の位置を頭に描けば、どうすべきか、やめることも含めて、見えてくるからです。

 しかし、今夏の不幸ごと(父の死)のように身辺に新たな出来事が派生して「それどころではない」という心持になった時には停止します。そのようなときには「停止してしまう」のではなく、新たな出来事に対処することを優先し、「停止することを選択」します。周囲の状況を見てどのような行動をとるのかを決めます。

 私の場合、決めたことを途中でやめてしまう原因の多くは、この新たな出来事などに「振り回されて、本来すべきことを見失う」でした。このことは、環境等の周囲の状況を根拠に生きていることになり、自立からは程遠いことです。

ルーティンも含めて、自分の生活を、使命やら、原理原則にに基づいて過ごすとき、ぶれず、振り回されずに生きていけるのだと思います。

言葉とその意味

 超介です。

 淋しい、辛い、という言葉を知っていても、それがどんな感情であるかは味わってみないとわかりません。そのように体験してみないとわからないことがたくさんあります。どちらかといえば、言葉が先行しがちな私にとってはよくよく注意しておきたい事柄です。知ってもいないのにわかっているように思いこみやすいのです。
 このことは、他人の立場に立ってみないとわからないということと同じです。さらに、考え方や見方で物事が違って感じられることもそれと近いと思います。そして、同じ人間が状況に応じて立場も考え方も変わります。
 以上のことを踏まえれば、人とコミュニケーションをとるときの自分の姿勢が落ち着いてくるように感じるのです。
 先日、突然に父が亡くなりました。ほんの数時間前に、母と父、そして私で外食をしていました。亡くなることは全く頭にありませんでした。私は、父がお世話になっている医院の先生から、そのように逝ってしまう可能性があることについて、何度も警告をいただいていました。
 私と父との関係は、18歳で両親から遠く離れて生活を始め、その後40年間をその地で過ごし、父の晩年の2年間と2か月再び同居しました。最後はあまりにもあっけない別れでした。
 この別れに思いをはせるとき、呆然としてしまいます。まだうまく整理がついていないのだと思います。私の家は曹洞宗の檀家です。法要の時を過ごすうちに、落ち着かせていきたいと思います。それが服喪だと。

上達のストラテジー(その2)

 超介です。

 コップの中に水を入れると、いつかは水があふれるように、目標に向かって毎日ふさわしい行動をとり続けると伸長があります。成長曲線上で、プラトーな、つまり時間とともに効果が上がらない部分が、ある時を超えると突然に立ち上がるのは、十分な水がコップにたまったからです。物事を始めて、途中で嫌になるときにはこのことを考えてみて、また再開します。このことは大変重要で、これを知っていると上達が進みます。あきらめない、効果が上がるまでやめないということです。

 上記のように学びが進まない人もいます。その人たちは、そもそもコップに水が入っていないかもしれないし、コップに穴が開いている場合もあります。が、それらの対処方法はわかりやすいのですが、さらにさかのぼって根本を探してみると、そもそもコップに水を入れることを本人が希望していない場合、これは根本的な問題です。塾のような子供たち対象の学びの場では、これは大変多い事例です。この場合も、本人は学びたいという意識が全くない場合は少なくて、それがどの程度継続できるかによる違いだけです。

 これは人により状況が違っていて、この時こそコーチング的な対応が有効になります。継続してコーチングしていて本人が自分の内側を見つめたり、未来の自分を想像、創造したりできるようになれば道が開けてきます。そして、このコーチングが有効に働く場合とそうでない場合の違いは、ある種の集中ができるかどうかによります。その違いは、マシュマロテストにおける我慢ができたことそうでない子の違いのように思えるのです。この内側の欲求をコントロールするようになることはとても大切なのです。