きついですな!!

超介です。

2年ほどまえからロジカルシンキングの本を何冊か読んで勉強しているつもりですが、なかなか身につきません。読んでいて眠くなったり、一応理解はできても、実践で使えそうになかったり、学習効果が実感できていませんでした。

でも数日前に少し開眼しました。(やったぜ!)ほんのちょっとしたことですが、それは,つぎのフレーズです。

「So what?」です。つまり、(それで なに?) という意味です。これを繰り返すのです。

日々の生活の中で、様々な事象に出くわして、ついつい感情や概念にとらわれてこもってしまう、
そんなときに自分をつつきまわすフレーズ「So what?」、それでなに? あんたはどうするの?です。

 感情やら概念にまみれ、「サングラスをかけたタカシ君」になってしまっているとき、「So what?」と問いかける。きついですけど、あんた次になにするの?と次をうながす。

十分、感情を味わい尽くしたあとで、「So what?」 それでなに?ときく。

「So what?」→「むにゃむにゃ・・」→「So what?」→「あのね、そのね・・・」→「So what?」
と繰り返して、結論を追いかける。

ロジカルシンキングというものはなかなか手厳しいですな。ほんの少しわかりました。それで、コーチングにとりいれていきます。詰問にならぬよう、「So what?」。

裸の王様

超介です。

 雑談をしているときに、その相手から少しショックな指摘を受けた。

 「話しかけにくいときがあります」そういわれて、自分にその自覚がないときのほうが多いようにおもったので、もう少し聞いてみると、「私には関係ない!」というような表現(キレているようにみえる)をとっているらしい。裸の王様の心境。

もう20年以上前のこと。ある人に「相手(生徒)理解」という言葉を教えてもらった。簡単な言葉だが、その意味を実感理解できた。

勉強ができなかったり、素行が悪かったりする中学生をお預かりして悪戦苦闘しているとき、悩みをきいてもらっていた業界の先輩からである。生徒指導の大ベテランだった。

「相手のことを一つ理解して、それまで、と終えるとダメだよ、どんどん人は変わるし、見えない部分もあるので、踏み込んで、踏み込んでわかろうとしていくんだよ。相手の一つの言動だけで相手を、決めつけてはいけない、どのような意味を含んだ言動であるのか常に理解しようと心がけなさい。」

そのような意味だった。相手への理解が深まるにつれて、関係がしっかりしてくること、そのような効果があることが意識できるようになった。理解が深まるにつれて信頼関係が強化される。

それは相手が子どもでも大人でもおなじこと。

そうであるのに「話かけにくいときがあります」といわれる人では、信頼の関係は強化されないし、エネルギーも生まれない。

なにか元気が出ないな、自身のエネルギーが低調であるな・・・・と感じていたら、その原因は自分自身・・・・? うう・・・。

「あなた以外にあなたを傷つけられる人は誰もいません」

超介です。

正月休みに、近所の書店で「偉大なる選択」(スティーブン・R・コビィー:「7つの習慣」の著者)という本を見つけ購入しました。リーダーズダイジェストに記載された数々のストーリーやら名言が選ばれて7つの主要なテーマ毎にまとめられています。

その中の話、インドのマハトマ・ガンジーがある女性に与えた言葉。

「あなた以外にあなたを傷つけられる人は誰もいま せん」

読書習慣があると、気づくことですが、そのとき抱えている問題への解決の糸口につながる言葉やら、文章によく出くわします。きっと(人は自分の中に答えを持っている、し人は育とうとする生き物 だから)無意識裡に本を選択しているのでしょう。この言葉が私の心の釣り針にかかってきたのも、その一つ、たぶん。

些細なことが引き金になり、マイナスの感情にまみれ、そして自動的に被害者意識を派生させてしまう。さらには、その被害者意識から、敵意、憎悪を周囲に対していだいてしまう。本当は他の反応も選択できるはずであるのに、そのように自動的に受身の反応をしてしまう。

マイナスの感情を持つことはあってもおかしくない、事情によってはもって当然、持たないとおかしいこともあると思います。問題はその次、それをどう捉えるか。流されていくのか、それとも踏みとどまり強い人としての反応を選択するのか、その精神の分水嶺に立とうとする時に勇気をつけてくれる言葉。

寛大というテーマの中に収められた文章にあるこの言葉をここ数日、反芻しています。

存在承認の希求

超介です。

今日は皆さんに愚痴を聞いて(読んで)もらいたいです。でも具体的にはかけないのですが・・・。

仕事が進まず、周りの協力も得られなくて「どうして私ばかり、こんな目にあうんだ」など、被害者意識満杯で、あたりに鬱憤を撒き散らす、そんなときはありませんか?

私は1日の70%くらいそんな気分のときがあります。で、我慢して我慢しているので、よい知恵も浮かばず、やるべきこともやる気になれない。ほんといらいらして、誰かコーチングしてくれェィ、と。

ストレスがかかってくるのは当たり前、重々承知ではじめたことばかりなのに、いざ現実に向かい合うとたまらなく・・・。

そこいらじゅうで孤立している感じ、で誰も話しかけてくれない。これは絶対、存在承認の欲求の裏返しに違いない。攻撃的に発散的にストレスをだせればよいのですが、それが出せないのでこもってしまう。困ったチャンになってしまう。

優しい言葉、一言で解決するかもしれない・・・。赤ちゃんでも、ばあ とすればにっこり笑うくらい人は生まれつき、認めてほしい生き物なんだよう。うう・・・。

でも、いまさら認めてほしいなど、誰にもいえないし、期待もできないので、やはり被害者意識は捨てて、主体的に動いてやっていくんだ。(ほんと、こんなとき困った事態が起きて、助っ人で動けば自分の悩みはすっきりして客観的になるときもあるよネ・・)

 酒を飲む人もいる、遊びにいく人もいる、色々ですが、なるべく生産的にいきたい。このブログにかいてぽいと捨てて、主体的にやる。被害者意識は捨てる。ぽい、ぽい、ぽい、・・・。

 新年早々、つまらないこと書いてすいません。教育コーチ日記にふさわしくないかも・・・

私の2009年を考える

超介です。

 皆様
明けましておめでとうございます。

2008年4月実施の検定時に課題として 場を信じ、場から行動やら言葉が引き出される感覚を身に付ける をいただきました。そのことを意識した2008年でした。場を信じる、その始まりはそこに居る人を信じる。さらにそのためには、自らの可能性を信じる、そうであろうと思いました。

おかげさまで、資格習得の研修、自分で始めたいくつかの習慣、職場での実践を通じて従前より、自分の可能性を信じることができてきたように思い、そのこととあいまって一緒に居るという感覚が少しずつ身についてきたように思えます。でもまだ 場を信じる までは・・・。

一緒に居るということ、クライアントの人生のドラマに向き合う、よどんだり、激流があったりするその中で ぶれずに一緒に居る、ということは結構精神的エネルギーが必要であると感じました。マイナスオーラだしまくり時も、ありのままに受け止めて返す、このありのままに返すことでクライアントが変容することがあることも実感しました。

子どもと一緒に居るのが難しいことを体験しました。その子の人生で心中に派生する、様々なまだ名前のないマイナスの感情、君が感じているそれ(これをクオリアというのかしら)が「つらい」ということ、「我慢しないといけない」ことなんだ、そう理解してもらうことは、誕生の際にかけられる祝福の言葉と同等に重要です。そのうちに彼は「つらい」「我慢する」そういった言葉を見つけたかのごとく、劇的に変わる、そのような場面もありました。

めぐり合わせでしょうか、私の職場での09年度の役割は 場を信じる ことの上に成立させるべきチームビルディング、これが鍵をにぎりそうです。一人ではできないけれど、チームであればできる、組織であればこそできる、この実感を体験できる年にしたいと思います。

来年は己丑の年

 超介です。

 今年最後の超介の投稿です。(たぶん)

 今年はふつふつと色々なことが沸き起こりそれぞれ大事にしたり、捨てたりして、整理すべき年(戊子の年)だったそうです。

 が私のやったことは、あれもこれもと手を出しまくり、この年末はいささか疲れ果て、こんなことならもう少しやらずにほうっておけば・・・と。

 さて来年はと調べてみると、己丑の年。この2文字からもわかるように己もうねり、丑も紐のように一流れ続き、うっすら筋道がつき始める年、とのこと。

 悪事に筋道がとおるのは困りますが、ねがっていることに見通しがつくのなら、これほどありがたい年はありません。

 ここまで学ばせていただいたことへの筋道をつけねばなりませぬ。

 まずは自力で公開セミナーをやる、このことへの筋道をつけ実行する年でありたい、これが来年への抱負です。

 皆様よい年末年始を過ごされますように。

盲点

超介です。

人事異動の準備時期に入り、今年度ここまでの仕事の振り返りやら、次年度への考えなど上司が部下に聞いて回ります。そのさなかに感じたこと、考えたことです。

社内での人間関係、上司部下間のトラブルではお互いが理解できていないことから来る場合が多いようです。「ジョハリの窓」でいえば盲点(私にわかっていて、相手にわかっていないところ)が原因になっていることが多いようです。

そしてそこをあえて指摘したときの反応は様々。防御的反応、攻撃的反応、無反応、客観的、冷静に受け取る人、謙虚に受け取る人等、人それぞれです。この盲点は通常、周囲の人は感じているが直接本人に伝えにくいような点であったり、伝えにくい構造であったりして、それが本人の自覚を遅らせます。

この人には脳にそこを理解する回路が欠落している、その様に思ってしまうこともあります。改めてその人を見直し、理解が深まることもあります。また領域は違えども、自分にも当然、ある特定の回路が不在であることの可能性にも気づきます。

そこに至ると、伝えている本人(私)も相手も人間関係の絶壁のうえをかろうじて歩いているのではないか、また、過去から現在にかけて、そういった欠落回路から来る言動が人を谷底に突き落としたりトラブルをおこしているのではないか、そのような憂鬱にとらわれます。心的エネルギーが不足だと、谷底に転がり落ちて、何もする気がなくなってしまうかもしれません。

人それぞれに完全でないことを思うと、人事上のトラブルの解決、人事配置リスクへの担保としても人の在り方の重要性、必要性を感じます。対人関係における基本戦略,私の場合は誠実さ。(それしかできない,たぶん。)教育コーチングで学習したコーチ、トレーナーの在り方は完全正答に思えます。

在り方のトライアングルをがっちり構える、裾野を広げる、そこからくる3つの信念が強固になっていく。そのような状況がコミュ二ケーションを豊にする。それが事実であると思います。

自主研修会で

超介です。

 所属する会社でコーチング自主研修会を行いました。
月1回10名程度のメンバーが集まります。4回目になりました。

 研修は2時間ですが、毎回あっという間に終わります。はじめにこの1ヶ月間で、コーチングに関して考えたこと、実行したこと、思ったことなどを全員が話します。

 お互いの理解を深めるために今回は 漢字一字で自分を表現する をやりました。籠、愛、一、優、在、心、・・・等様々な文字とかかわりが語られます。

 私は 在 と書き、一緒にいることを説明、この1ヶ月間の出来事を2つほど紹介しました。どちらも小学低学年の子が泣いていて、その子らの話をよく聞いて(チャンクをほどいて)わかったこと、起こったことを紹介しました。

 ある、小学2年生の母親に対する気持ちを知りました。お母さんにはいわないで、心配するから・・・ という子。普段わがままな振る舞いをする子が・・・。

 そのような話をしました。その後、いくつかのワークをやって最後に1:1コーチングを行いました。

 研修会も回を重ねると、結構深く入っていけそうです。
テキスト(子どもの心に届く言葉、届かない言葉)を課題に進めています。

 次回は 一緒に居る をテーマに学んでいこうと思っています。

 

羽化2

超介です。

鳥の雛がかえるとき、注意深く卵を温めていた親鳥が、雛が中からコツコツ殻をつつき始めたそのとき、親鳥も外から殻をつついて孵化するのを助ける、そのタイミングが同じであることを啐啄同機(ソクタクドウキ)というらしい。

試験、発表会、新たなスタートを切るときなど、誰かが「きっとできる」 「挑戦は素敵だね」と背中をぽんとタイミングよく押してくれる。コトバをかけてくれると動きやすいことがある。

生まれつきおとなしくて、人前でしゃべれない子どもであった。両親にずいぶん心配をかけた子どもであった頃のことを思い出す。今でも、話せなかった影響があるように感じていて、自己表現は人生の課題。

自らの与件に対して前向きに挑戦し、学び、考え、行動を継続する。そのことを通じて世界に「大切なこと」を伝える、表現し続ける人であること。これが私のミッション。とても自己中な内容だ。

過去を振り返ると、自分の考え、感じたことを話したことがあまりにも少ない、と感じる。そしてそれをきちんと受け止めてもらったと感じたことも本当に少ない。受け止めてくれことを思い出せるくらいしかない。受け止めてくれた人こそ、友である。行き来がなくてもあえばきっとうれしい。

生まれたときには言葉を一杯かけてもらっているはず。祝福のコトバをたくさんもらっているはず。それを絶対のことと思っている。

私の今を作っているもの、存在意義・理由、あり方と信念、Being、基礎的制御機構(パソコンのOSに相当するもの)は、そのコトバの洗礼から形成が始まった、はず。そこに、働きかけるコトバがあるはず。それをいつも探している。ミッションもそこから探してきた。

自分の使命(ミッション)を使って世界の「殻」を内側からつつく。「親鳥」が外側からつつく、殻が破れれば、新しい何かが始まる。

そこは何か、そこはどこか?

羽化

超介です。

 もう冬、でも夏の話。

小学生の頃の夏の楽しみの一つに蝉の幼虫(蛹)取りがあった。近所にある神社に夕方でかけて地面を這うようにしながら探す。土の塊がモコモコ盛り上がっていたり、マッチ棒の先ほどの穴があいていたりする。

そこをそっと木の枝で押さえると、ぽっかり親指くらいの穴があく。その底に7年間土中で過ごしてきた生き物が潜んでいる。そっととりだす。手のひらにのせると、ずしりと確かな重みを感じる。ゆっくり手足を動かすそれは、茶色いあめ色でメノウのような光沢の皮膚を持っているアブラゼミの幼虫。土から生まれた宝石。

僕はその幼虫を大切に持ち帰り、庭の植木の根元や植木鉢に置く。夕食後、飽かずにながめる。背中が割れ、中から真っ白な成体が現れる。折りたたまれた小さな羽がゆっくり伸びていく。

けれども、採集するときや、持ち帰るときに乱暴に扱うと羽化は途中で停止する。成虫にはならずに背中をむき出しにしたまま、殻つきのままで死んでしまうことが多い。

それを知ってからは、穴から掘り出し、持ち帰って土に再びおくまで、大切に大切に扱うようになった。それでも時々成体にならないときもある。

 自然が変化をしているとき人は、そっと見守るべきなのである。いじくるとうまくいかない。虫の命でも自然は精密な仕組みを作っている。それをいじくってはいけない。

蝉の羽化を思い出したのは、人の成長との重ね合わせからだ。人が自立する時、保護者は愛のブリッジをかける。

そっと見守る、大切に大切に、見守る。

コントロールはできない。