世界を変える人

超介です。

なすべきことに真剣に取り組まずに、逃げたり、言い訳をしたり、気を紛らわせたりすることを「ゲームをする」といいます。そのように自分を操作するものをウィスパーといいます。(旧準上級、今は中級、で教えてもらいました。)

 子どもはゲームが大好きです。特に手に負えないことにぶつかったときによくゲームになります。ゲームのことをよくわかっていないとき、僕は一緒にゲームをしていました。

 でもいまは、そのことに気がついたので、相手がゲームを始めると巻き込まれたり、加熱しないように離れて、さまそうとしてみたり、質問をしたりします。ゲームから本来の課題に取り組むようにフォローするのです。(大人に対してもそうしたいと思っています。)

 その場に存在するだけでゲームをやめさせるパワーを持った人がいます。いわゆる空気を変えることができる人です。ある種の「雰囲気」を持っている人です。

 このような人のパワーはどこから来るのでしょうか?

 情報とは言葉ではなく、言葉にぶら下がっている内容物、さらに音にならない言葉(その人から来る印象とか)もあります。それらが空気を通して凛として伝わってきます。放射能みたいにそれを浴びると影響を受けてしまいます。

 このパワーは知識だけからでは出てこない、行動に結びついている知識(胆識?)までも備えていないといけないようです。よい意味で自分中心に物事を考えることができていて、そのことに完全にコミットしていて、責任を取りきる人、こういう人が世界を変えていく人だと思うのです。

こういう人の持っている色を「VSOP」(very superior old pale、深沈厚重)で捉えています。

青年警察官

超介です。

24歳の警察官と話す機会がありました。勤務先の派出署に農家の老人から無人野菜販売所の窃盗被害について相談があったそうです。野菜を盗んだり、料金箱から売上げを盗まれると。

彼は、考えた末、休日も返上し、先輩にも協力してもらい、1ヶ月ほど張り込み、犯行現場を見つけ、注意・指導したとのこと。しかし、同じ人物が再度繰り返したところを後日見つけ、今度は厳しい処分をしたそうです。

若き警察官はこの件でずいぶん悩んだそうです。相談に来た農家の老人の気持ちを考えると、何かしてあげたい、心をこめて作った野菜を安い値段(1個100円)で販売している農家の気持ち、でも無人販売というのはそもそもそういったリスクを背負ってやるべきこと、自己責任であるのではないか、税金を使ってそこまで対処すべきではないのでは、とか。また、注意しただけではとまらなかった、繰り返された行為についてとか。

彼は結局上記の様に行動した。そのことを話してくれて、「話せてよかった」といっていました。僕は聞けてよかったと思ったので、その通りのことを伝えました。「真剣に考えて、行動している若い人がいるのを知ることは勇気付けられる。そういう人がいることは、大変ありがたいことだと思う」などと。

「知行合一」という言葉があります。知っていることに行動が伴うことを重要視する、陽明学の言葉です。東アジアの国々で発達した学問は、勉強することの目的を自己の鍛錬、人物ができることにおくことを目的とする傾向にあります。学んでその人が変わらなければ学問したということにはならない。(コーチングの目指すところと同じ!!)

僕が勤務する学習塾もそのような意味を込めた理念からスタートし現在に至っています。その理念があったので、入社することができた、そう思っています。

「知行合一」・・・青年警察官の話からはその言葉を思いました。彼は考えた、先輩にも相談した、そして行動した。自分が置かれた状況を十分に考えて、そして現実を知って、そして・・・(so what?)・・・行動した。そのように真摯に自分の職務と向き合っている人がたくさんいます。

眼に付く風景

数年前にそれまで使っていた車が動かなくなって、黒のWISHを購入しました。それ以来、街を走っていてやたらWISHが眼に付くようになりました。

中学生の頃天文少年でした。望遠鏡の作成に関心がありました。それで、丸くて中が空洞のもの(望遠鏡の鏡筒に使えないかと)が眼に付きました。丸くて、軽そうな筒状のものがあると、たたいてみて質感を確かめてみたり、そういうことをよくしました。

子どもが生まれて親の気持ちがわかるようになった、そう強く感じたことがありました。兵士が戦場で負傷したぐったりしている子どもを抱き、じっとその子を眺めて立ち尽くしている写真、週刊誌に掲載されていたその写真を見て、目が離せなく、こみ上げてくるものがありました。子供が生まれるまでは見過ごしていた写真であったと思います。

人はそのときの関心にしたがって風景を見ます。そのときに眼に飛び込んでくるのは自分が選択したものです。自分の概念で事象を捉えます。もし概念がなければその物事は存在しないと同じ。(これは中級研修で習ったんですよね。事実と概念。)見るもの、聞くもの、味わうもの、感じるもの、・・・たぶん全部そうなのでしょうか。

ここまで書いてきたのは理由があります。それは、このごろ人の会話が気になってしまうのです。会話だけではなく、ある人に関わる人の、その関わり方が僕の神経を刺激します。(「そんな話かたはダメだろう!」「もっと、相手の話を聞いた上で話さないと・・」と心の中) 刺激されます。

批判的に人の言動を見てしまうようになっています。その度に不機嫌、不愉快になります。今はある程度我慢していますが、それだけでは・・・。(So what?の出番だ!)

なぜか?少しコミュ二ケーションについて知識が増えて、そのために意識がそこに集中しているんだと思っています。こういうふうに人はあることを身に付け、それまでずーとあったことを急に意識し始めて、行動を起こす、戦って周囲を変える、逃げる、我慢する、八つ当たりする、元に戻る・・・・・・・・・。

(So what ? それで、あんたはどうするの?)

・・・・・・
・・・・・・

色について

超介です。

 伊予の地では2月1,2,3日は椿祭(椿さん)という数万人の人出がある大祭がありました。ここを過ぎると寒さが揺るぎ始め、春が訪れるようです。

 まだ少し寒さは残っていますが、それでも空気の芯には冷たさではなく春の予兆の暖かさがあるようです。今日は2月8日(日)、松山市ではマラソンがありました。懸命に、真摯に走るランナーの勇姿は沿道で見ている人の胸を熱くします。

春の色といえば新緑と、桜色を思う人が多いかと思います。コーチングでも心境等を色で質問します。

「今の気持ちはどんな色?」とか、「色であらわすと何色に染まりたいですか?」とか。

最初、研修でそう聞かれたときに「そんなん、無意味やろ!」と一瞬思いました。心に色などついているはずがない、そう思ったのです。が、よく考えてみればそうでもないなぁ、と。赤とは激しい感情を表している感じやし、気持ちがいいのは透きとおる水色、薄い青とか、たしかにあるな、と。

それで今では「何色になっとる?」と聞いたりします。

色で思い出すのは、上司に教えてもらったもの。10年以上前、深夜の酒場のカウンターで紙ナプキンにボールペンで書いて教えてもらいました。very superior old paleつまりVSOP。very superior old pale、VSOPというのはこの略、と教えてもらい、お、これはかっこいい、と感じました。

なぜ好感をもったかはよくわかりません。それは宇宙の恒星の色で、深さ、遠さ、大きさにもつながるからかもしれません。夜空に輝く恒星は表面温度が上がるにつれて赤色から黄色くなり、白色に変わり、最後に青白く輝く。気が遠くなるほどの時間をかけて移りゆく、高温の星の色。

また、僕の中では、very superior old pale=「深沈厚重」。深く沈んで重厚で、どっしりと存在感を示す。何も言わないがそこにいるだけで空気が変わる。無言のコーチングができる人のイメージ。

これにつながります。

皆さん、どんな色の人になりたいですか?

情報を共有する

超介です。

話されるコトバ、書かれたコトバは単なる記号である。だけれども情報はその記号の下にたくさんの意味、内容、マインドやらなにやら(こういうのをコンテクストというらしい)をぶら下げている。つまり海に浮かぶ氷山で言えば海面上に出ているのがコトバ、それの何倍もの体積をもって海面下にあるのがコンテクストだ。

チームで仕事をする時、それが会社であれ、何であれ、このコトバの底にあるコンテクストを共有していればコミュ二ケーションがスムーズにすすむ。

コーチングに出会うまでは、そのことを意識していなかった。正しい考え方、進んだ考え方、適切な考え方(記号としてのコトバ)を示せば人は動くと考えてきたようにおもう。(ずいぶん冷たい奴だと、思われたこともあったに違いない。)

コトバのみで動いてくれる人、動ける人もいるが、でも大きな力、或いはえられる喜びは薄いのではないか?

人と一緒にいるためにはその氷山の一番下まで感じることが大切だ、とわかった。阿吽の呼吸で仕事ができるのはお互いにそのレベルまで情報が共有されているときである。

それで、僕は仕事のやり方をもっともっと情報を共有できるようにと変えている。プロセスから関係者と一緒に進むようにしたい。そうすれば情報の共有具合が高まり、成果も高まるし、得られるものが大きいと考えるからだ。(もちろん時と場合によるが。)

コーチングはみんなと「一緒にいる」ことの重要性を教えてくれた。「私達が・する」このフレーズの使い方の大切さを教えてくれた。(もちろん「私が・する」も大切であるが。)

それが広がり、多くの人と大切なコンテクストを共有できることができれば、もっともっと生活しやすい環境ができるに違いない。コーチングが広がっていくその原動力の一つはそこにあるに違いない。人と社会が進化していく道の一つに違いない。

2009年2月5日全天自己開示

超介です。

朝、川べりをウォーキングしていて、空を見上げると、今日の空は全天、宇宙に向かって自己開示だった。(つまり雲ひとつない快晴)

大変気持ちがよい朝。宇宙から見れば地球の地形が、海も陸もくっきり鮮やかに見えているに違いない。

全部見せるのは気持ちがよいし、のびのびできる。(今日は地球も気持ちがよいに違いない。)

投稿するようになって、自分の感じたことやら、考えたことなど、悩みなど開示するようになった。
(もちろん秘中の秘は出していませんよ。ふふふ・・・。)

書く度に、こんなことを考えていたのか、と、自分の幼稚さに気づくことが多い。それでも表現する。心の中では自分に自信があるときでも言語化してみれば、妄想であることも多い、だからこそ書いてみる。表現してみる。

そのままを書く、その度に自分の窓がぐーと開く、レスポンスをもらうたびにまたぐーと広がる。だから正直にあらわす、なるべくありのままにあらわす、少々やばいと感じてもそのまま出してみる。

皆さんも「全天自己開示」しましょう。
(文章だけでなく、写真も出したいな。)

たのしいよ!!

私を動かす(?)もの

超介です。

大学は物理学を学ぶことを選んだ。結局まったく関係のない、違った道を歩んできているが、でも勉強してきてよかったと思える体験はたくさんある。

そのうちの一つ、教養学部(僕らの時代はどこの大学でもあったのです。)時代に物理のF教授の授業での一場面。

力学の授業で地球の回転に伴う「コリオリの力」というのを習った。この力は北半球では運動する物体に進行方向右向きの力が働く、それゆえ台風は地上付近で左回りの風の渦をつくる、進路もその方向に力を受ける、など習った。

そのときF教授は「私は思うんですが、風呂の栓を抜いたときの渦のでき方、あれもこの力が影響している可能性があると思うんですがね・・・」と話してくれた。(結局それは様々な条件が栓を抜くときに寄与するのでそう単純にはいえない、というように落ち着いたが)

その話を思い出して僕はゴルゴ13(超A級スナイパー)を読むとき、彼はこの力の影響も計算して北半球では若干銃を左に向けて狙撃するのか、など「あほう」なことを考えた事もある。

ゴルゴ13はともかく、私がそのF教授の話を覚えているのは(もう33年ほど前の話です)、大きな原理が私達の日常に影響を及ぼす、そのように物事を見つめると、思いがけない発見がある、その期待感からだと思う。

それからの発想。僕は丁度1955年生まれですが、高度経済成長を日本がはじめた年です。そして高度経済成長とともに幼年期、小中高とすごしてきました。

物心ついてから家の中には冷蔵庫、洗濯機、掃除機、テレビ、・・・と、徐々に電化製品がふえ、自動車も軽自動車が中型車にと、成長するのが当たり前の感覚、価値観にとらわれてきた。

で、今は、ここ15年ほどは、違う。バブルがはじけて低成長、不況が当たり前の時代になっている。

僕の心の中で、時折、もぞもぞ動く不快感は、集団主義的な価値観から、個人主義的な価値観の時代になって社会はそうなってきているのに(もう半世紀もいきてきた!!)、僕の中ではいまだ、それが意識してセットされていない、それを表しているのでは・・・、と妄想するのです。

風呂の渦と同じで、色々な条件が僕を取り巻いているのですが・・・、やはり誇大妄想かなぁ?

セルフコーチング2

超介です。
  
「あなたの心を強くするには何があればよいですか?」

この質問を発するウラには、私は心が弱い という認識がある。それはなぜか?ジェットコースターにすぐ乗ってしまうのはなぜか?(ジェットコースターについては1月 23日の日記 情緒人間 を見てください。)

原点がないからである。原点とは何か?私の価値観の原点である。何を中心にすえているか?中心に座っている私を見つけることができるかどうか?・・・・・・・

そんなことを考えていました。それは無人島で生活するロビンソンクルーソー(だったかな)みたいに
孤立した人の心を仮定したかのようでした。このことに気づいたのは投稿に対するコメントからです。(コメントいただいた皆さん、ありがとうございます。気づくことができました。)

孤立するのではなく、私と周囲の人たちの関係がどうであるか、これが大切なのですね。それをどのようにできるかが重要ですね。「作りたい人と作りたい関係が作れる」(足袋師 だったですよね。)に注力すること。強くなるポイントだと思いました。

それでさらに気づいたことは「一緒に居れるかどうか」、(足袋師の日記、おしょうさんの日記で感じました)これが強さがあるかどうかの表れかということ。私も小さな子ども相手に仕事をすることがあります。これがなかなか手ごわい。私のリクエストなどすぐけられてしまいます。

(私)「○○君、九九をやろうか?」
(彼)「いや!」(強い拒絶のニュアンスで)
(私)「じゃあ、△△は ?」
(彼)「いや!」
・・・・
・・・・
((私)「とほほ・・・」)(という具合です。)

こんなやり取り。彼(彼女)・・小学1年・4年生が多いのですが・・・の攻撃を激しく受けます。
(このあたりは幼稚園の先生とかはうまいのだろうな?)

こういうときにはリクエストをたくさん準備しておいて選択してもらいます。これで何とか進めます。子どもと一緒に居るのはなかなか大変!!

セルフコーチング

超介です。

    「あなたにとって人生の幸せとは何ですか?」

とメモ用紙に書いてじっと眺める。

人生の目的を考えるとき、不謹慎かもしれないが自分の葬式に愛する人たち、知人にどんな風に自分のことを語って欲しいかを想像する、というのがある。(「7つの習慣」に書いてあった ように思う)

“「超介」さんて、本当に真摯に人生に向かい合って生きた人でしたよね。”
“そうだったよね、誠実だったよね。”

僕は、このような会話が交わされるのなら、これ以上の幸せはない。焼かれて骨になり、石が建つ。どんな人でもそれは同じ、そうであるならばこの様に偲ばれることを期待する。

過去を振り返り、心の底から羅針盤を取り出し、ガラス面をぬぐいながら幸せに感じたことを思い出し、そのときの向きに北をあわせる。その針先の向こうに、上記の会話はありえるか?

踏み出さないと幸せはつかめない。しかしながら変化は恐怖だ。この恐怖に打ち勝って進むために?

毎朝、30分ほど歩くという新しい習慣を身に付けるために、単なるベルでは動けなかった、「人生の目覚しベル」(これも「7つの習慣」に)が必要であった。

2007年9月16日にある農作業をしていて体力の低下を感じ、「人生の目覚ましベル」がなり始め、2007年10月14日からその行動をはじめ、ほぼ毎朝継続している。計算してみるとその合計距離は3.5km×(365+90)≒1600kmになる。足が少し太くなって、階段を上がるとき、息切れもしなくなった。

身体を鍛える、心も体も頭も。頭と体を鍛えるのは比較的簡単だ。でも心を鍛えるのは・・・。心はどうすれば・・・・。次の質問。

「あなたの心は何があれば強くなるのですか?」

答え求む!!

羅針盤をカチンと合わせる

超介です。

感動して、胸を打ち震わせているときが充実感を感じるとき。そのような自分であるときを大切にする。

自分の価値観を示すその心の針に羅針盤の北をカチンとあわせるのだ。これで、もう迷わない。

僕は、人生の充実感を得るためには遠い目標を決めてそれに向かうことが必要であると思っていた。それで進んできて、いつの間にか、義務感やら責任感等を背負って生きているようになった。そう思う。

そして迷って、疲れてしまう。エネルギーが生まれてこない生き方になったようだ。

だから、これからは、もっと生身の自分が感じていることを大切にしようとおもう。

たとえば、季節毎に咲く花に感動する自分がいる、その自分の感性を大切にするのだ。これを掘り下げていく。そうすると磨かれてくるものが出てくるはずだ。そこにカチンと羅針盤の北をあわせる。

これでもう迷わない、疲れない。

子どもが変わる。ある日突然に子どもが熱中して学び始める。学ぶことに集中し始める。何が変わったか?子どもの中で何が変わったのか?そのことに充実感を覚え始めたに違いない。

充実感を支えているのが価値観である。僕が大切にするもの、しないといけないもの。充実感はそれをほのめかしてくれている。そこを掘り返せば価値観の座標軸が現れてくる。その軸のプラス方向に羅針盤の北をカチンと合わせる。

さらに、クライアントと共に彼(彼女)の中の「大切なこと=価値観」を掘り起こし、生きるエネルギーを強化できるコーチでありたいと思っている。