春の妄想(火事から考えたことpart?供

超介です。

意識の下に広がっている無意識の海、そこを豊にすることが自分を変えることにつながります。

無意識の海から習慣化してしまっている私の思考型、判断から行動型、感情型などを取り出し、意識の光を照射します。その光で骨組みをあらわにし、清浄なブラシと水で垢を落とし、欠損、ゆがみを直し、理想形へ組み替えます。そして再度、そっとそれらを無意識の海へ沈めてゆきます。

これらの行為を私はコーチと合意しながら共同で進めていきます。日々それらの作業を繰り返せば、リストラクチャされブラッシュアップされた思考型、判断から行動型、感情型がたゆとう豊饒の海が広がります。そして生まれ変わりつづける私。

(海からの連想、ここからは現実の春の海。)

春、桜の開花とともに外洋から鯛の群れが宇和海の沿岸に入り込んできます。陸地から急峻に落ち込んだ先の海、リアス式海岸に産卵のためにのっこんでくるのです。桜鯛の季節です。

カゴに撒き餌を詰め針先にオキアミをさし、棒ウキのついた仕掛けを30mから50m沖合いのポイントへ投入します。着水して針先が15m・20mの海底より50cm・1m位の位置につくまで道糸を送り込み、白地にオレンジの蛍光色の棒ウキが海面に立つのを待ちます。糸ふけを取ってあたりを待ちます。

それから緊張する時間が始まります。

鯛のあたりは突然やってきます。ウキが海面から一瞬のうちに消えるのです。ゆるやかに張られている道糸からさお先に荒々しい生き物の動きが伝わってきます。ほんの一瞬おいて竿をあおって合わせをいれます。このときから取り込みまでの数十秒・数分間が釣師にとっては至福のひと時です。

海上に姿を現す。ピンク色から白色までのグラディエーションのかかったうろこにちりばめられたブルーの斑点、それらは海の宝石のように美しい。さお先に感じる魚信から取り込みまでの高揚した気分時間はその魚体をしげしげながめて、そしてナイフでえら下を〆、海水の入ったバケツに放り込んで終了します。

★★★★

海にはいつもあこがれます。なぜなら現実の海も、無意識の海も奥が深く、何者が潜んでいるかわからなくて、そしてどこかとつながっている感じがするからです。豊な海との対話がフィッシングでありコーチングであります。春の私の妄想。

火事から考えたこと

超介です。

その日の数日前に、国内外の数件の火事のニュースを耳にしていたためか、枯れ草の生い茂る川原を朝歩いたとき、ここに火がつけば一面焼けてしまうな、と思いました。

その日の日中に、知人が携帯電話での地元の事件報道ニュースで「M(私の住んでいる地区名)の公園で火事があったようだよ。」と教えてくれました。「公園、小学校の北にあるよ。でも田んぼの真ん中だし、燃えるようなものはないとおもう。」と私。

翌日の朝歩いていると川原の土手下に消防車が一台とまっていて、消防士がホースをまき、丸めたそれを架台に積み込んでいます。「朝から防火訓練?」と思いました。

土手に上がり、川原を見下ろして、「あっ」と声が出そうになりました。昨日、燃えるかも、とおもっていたその箇所がもえていて一面真っ黒になっているのです。

「昨日の火事のニュースはこれか、公園というのはS川公園のことか。」と全部がつながりました。

私に予知能力がある、などと考えているのではありません。でも偶然と割り切ってはしまえないものが残ります。それから人の潜在的な力について考えはじめたのです。

脳科学者によれば、人の行為はそれを当人が意識する以前に、脳の中でその行動の元になる回路が発火しているそうです。すべての所作を人は意識して行わず、無意識の行為(たとえば習慣化したものなど)など、ふと気がつけばやっていたというのはその証明です。

ある言葉や考えが浮かんできたり思いついたりすることを、無意識の海、そのあるところから泡のように浮かんでくる、このようにたとえて説明されます。その思いつき、気づきの内容を選択することはできません。無意識の海に意識の釣り針はたらせません。

そうであるなら、アイデアや考えをたくさん思いついたりする人になるためには、この無意識の海を豊饒の海にするようにすればよいと思います。天才モーツアルトも過去の名曲を徹底して学んだとか、読んだことがあります。その豊な曲想の海から多くの楽曲を世に出したと。

無意識の海を豊にするため、そのためにたくさんの栄養を海に投げ入れます。未来に向かう、上昇志向のコトバの塊、映像、五感から入る自然物も、どんどん取り入れて無意識の海を豊饒の海にするのです。春の私の妄想。

レッドロビンの赤い芽

超介です。

庭先のレッドロビンの赤い新芽が目につきます。あちこちの庭にあるレッドロビンにも、結構個体差があって、新芽はやわらかい赤色からほんのちょっぴり赤みがある緑色のものまで、様々です。

松山ではもう数日前から桜の開花の時期を迎えています。ウォーキング途中の土手の桜の木にもいくつかの花がついています。ここは市の中心部から少し外れた河原なので、温度差からか毎年開花は市中心部と比べると1週間ほど遅れます。

枝先についた先端が楕円形のつぼみ、これが木全体に満遍なくあるのです。葉っぱなしの精彩を欠いた黒っぽい開花前の桜の木、でもあと数日で、このつぼみからいきなり春が訪れ風景が変わります。

春の山道を歩きます。頭上の新緑が陽光を透き通らせている、その若葉色に見とれてしまう季節です。さらに、樹間をわたる風の音、湿った土のにおい、五感に伝わる新しい季節の情報を受け取ります。

朝出かけるときのウォーキングの服装も、おとついから半そでのポロシャツ、半ズボンに切り替えました。アレルギーで荒れた肌には適度な紫外線が有効、と医師から日光浴をすすめられているので、軽装に切り替えて歩きます。(出会う人はまだ長袖、長ズボン、さらには上着着用が多いのですが。)肌に触るひやりとした風も気持ちがよいものです。

早すぎる軽装、と思う人もいるかもしれませんが、きにせず、さっさと歩きます。樹木もそれぞれ、人もそれぞれ、迷惑のかからぬ範囲で好きなように生きていきます。

人それぞれ、というのは安心して自分を生きていくことだと思い始めました。できるかどうか、と不安にかられることは無用だよ、といってくれていることに気がつきました。そういえば、昨年起こった出来事も、それまでのことも、結局何とかなっているのです。

あなたができると思えばできるのだよ、と。あなた次第だよ、と。この言葉、独り歩きをさせるには(他人にそのまま伝えるには)少しおぼつかないですが、僕の中ではその意味を示し始めました。

過去と他人は変え放題?(新入社員へのメッセージ)

超介です。

入社式が終わり、新入社員が現場に赴任していきました。

30年ほど前の自分を思い出します。当時も就職難の時代でした。具体的な能力も、体験財産もなく、社会的な能力にも自信がない私は不安だらけでした。

それで、学生時代、就職してからの数年間、不安にたいして「どんな仕事でも、やってよかったという、やりがいに変えることができる能力」これを身に付けることをひそかに目標にしていました。それがあれば生きていけるだろうと。

入社後の数年間は「作業ではなく仕事をする」ことがその目標達成のための方法でした。それがやりがいにつなげる方法であると。身の回りの様々な事情をどう捉えるかは、その人の考え方次第である。そのことにぼんやりと気がついていました。

「意味のないことは起こらない」、たしかにそうであり、調子の悪いときも、めぐり合わせが悪いと思うことも、自分と波長が合わない人と仕事をすることも、何かの意味がある、というか意味を立てることができます。

「過去と他人は変えられない」といいますが、客観的事実(そのようなものがあるかどうかはすこし疑問ですが)としてはその通りです。しかし過去起こったいやな出来事も、自分と合わない他人もその意味を立てることができれば、つまり自分が変われば「過去も、他人も変え放題」になると思います。

入社前のコーチング研修で若い人たちにそのようなことを伝えようと思っていました。必ずしもスムーズに進む人ばかりではないであろう、人たちに、あなた次第だよ、と伝えたかったのです。

春の兆し?(ぶつぶつ・・・)

超介です。

2週間ほど前から鶯の鳴き声が聞こえ始めました。朝のウォーキングの途中の川原でのことです。土手にはもう菜の花も今を盛りに咲き誇っています。先日8日の日曜日には故郷丹波の里に法事で戻りましたが、そこでもタンポポの花を見つけました。

花粉症の症状やらそのための薬の副作用のためか、いまひとつ頭も身体もすっきりしません。春先はどうも体もだるく、眠くなったりして、考えがまとまりにくいのです。

こういうときには、時間をかけてゆっくり休んだほうがよいのですが、今は新年度準備の多忙な時期、扱いにくい身体を無理やり、公私にわたる雑件に向かい合わせねばなりません。

なすべきことを拾い上げて、TO DO LIST をつくり優先順位をつけて、スケジュール化する。そして一つ一つこなしていく、これが必要。

そのように考えてパソコンに向かいます。

もう、やめてしまいたいのに、ちょっと無理してでも動き始めると、なんとかすすむ。このおんぼろの体と頭でもまだ動く。

そのように、調子のよいときはできてあたりまえ、調子の悪いときこそやりぬく、習慣が身についていないとき、ここはやりきらないと、などうじうじ考えつつ・・・。

明日は会議でその準備もしないと・・・。これを超えれば本当の春が来るはず。

「あなたの中に答えは必ずある」と信じています。

超介です。

ちょっと宣伝文的に今年やりたいことを書きます。

「昨年春、あらたに自立学習のコースをスタートさせました。この1年間で「答え」を見つけた子ども達が何名もできました。教室内でうろうろしていた小学生が自発的に発問し、机に向かって集中して学ぶことを始めました。数ヶ月で、定期テストの得点を100点以上アップした中学生もいます。もちろん志望校合格を果たした中3生もいます。

彼らはなぜ、「強制されずに」、「自ら学んで」がらりと変わっていくのでしょうか?それはそのことに充実感を覚え始めたからに違いないのです。その奥に「自から学ぶこと」への楽しみが潜んでいます。

その楽しみは、学内順位をアップさせること、高校合格、にとどまらず、そのように自己を磨くことの感動に直結していると思います。

これは 生きる力を強くすること そのものです。

 そのためにこそ、このコースをスタートさせました。今年はこの考えをより広げていきます。保護者対象のコーチングのセミナーも実施します。

このコース「mine(マイン)」は子どもの中の鉱脈(答え)を発掘する場所です。潜在意識の奥深く、それは眠っているかもしれません。しかし、どんな人にもあることを私たちは知っています。」

健康と不健康

超介です。

前回、学習することが困難な人ほど勉強になる、ということを書きました。

似た意味で(不謹慎かもしれませんが)少しは持病のある人のほうが健康に気をつけるので、健康的である、という人がいます。(高血圧で、肌に持病もある私としてはこういうことを聞くと少し安心。いや、安心すればもうそこで、不健康?)

落ち着いた環境で、安心して生きていくのが幸せだと考えて、無意識に争いの少ない関係を求めたり、
関係を拒絶したりする。

でも、身体の健康と同様、心の健康もそういった環境で生きていくことから生まれるものではなくて、激変の中でもしっかりと進んでいける状態をいうのだと思うようになりました。

前が見えなくても、ぶつかっても、倒れてもよい、起き上がって羅針盤をしらべ、進む向きを確認できる状態が健康的。そして再度、一歩を踏み出す。

そうそう、今日も2つほど失敗、労働意欲がぐーと低下しました。

(いやな気分から逃げずに、ちょっと無理して)これは(労働意欲の低下は)健康な証拠、と思い直し、じっと、自分の心を見直して、そこからはじめます。

すると、見えてきたのは、相手軸で考えていたはずであるが、いつのまにか、相手の気持ちではなくて
自分の気持ちよさを求めって突っ走っていた自分の姿。

(大義名分をかざして実は自己満足をひた走る私でした。ああ!!)

学習過程で得るもの

超介です。

言葉が示しているイメージがお互い違うときがあります。こういうときは、重ねる努力をすればコミュニケーションが成り立つのでしょう。

でも、相手と自分が一緒にいることができないと、それはできません。週1回乃至は2回程度、子ども達に学習してもらう仕事をしています。(他にもやっていますが、現場ではこれです。)どうにかして学習する力を身に付けてもらえるように工夫を凝らします。

うまくいかない場合は、子どもが学習することと向き合えないときですが、こういうとき、無理やり学習を提示するとゲームが始まります。だから、今この子は何を見ているのだろうと、想像し、理解しようとします。それがコーチの役割です。理解できれば次の行動がみえるので。

子どもが学習に対して「イヤ!」と拒否するとき、その「イヤ!」の中には色々意味があるように思うのです。「イヤ!」を一旦受け止めて、それから質問します。「何がしたいの?」とか「そう、それで今日はどうする?」そこからの反応は様々。心の扉にノックすべく試みますが、ことごとく拒否の場合もあるし、中には急に扉が開く場合もあります。

(このことは何回か書いたことでもあるのですが・・・。)理解すべく、悪戦苦闘しているうちに子どもとのドラマが始まり、時間が経過し終了となります。最後に、お話をします。「今日はどうやった?」等の質問で振り返りをするのです。そこで話ができればよし、できなくてもよし。

そういう情報を保護者とお話しします。幸い、そのような内容を前向きに受け止めていただく場合がほとんどなのでありがたいと思っています。会話を重ねていくと、保護者のほうからも、その子に関するお話をしてもらえるので、理解が進みます。

で、そうやって学習することが難しい子ほど、学習することが(子どもにも、私にも)勉強になると思うのです。なぜかというと、そのときの試行錯誤からわかることがあるからです。

クロガネモチの実

超介です。

近所にクロガネモチの木があります。クロガネモチは毎年9月頃赤い実をぎっしりつけます。近所のその木はもう2月下旬になるというのにまだ、ぎっしりと、9月頃の赤い実がそのままなっているのです。

同じ時期に赤い実を付けたピラカンサも南天も12月頃には風にあおられたり、鳥達についばまれてほとんど実がなかったのに、近所のそのクロガネモチはそのままなのです。

命を引き継いでいく旅に出ることができないでいる実です。

コトバもそうです。コトバの中にも旅に出ることのできるコトバ(中身があって、意味が満タンで、イメージが広がっていく、想いがある)は世の中でぱっと広がり、芽吹いて花が咲きます。

でも、その人にしかわからないコトバもあります。その人にしか意味がわからないコトバ。子どもはそんな言葉を持ちやすい存在です。

僕は、仕事柄そんな言葉によく出会います。

大人でもいます。その人独自の言い回し、あれはどこから来るのでしょうか?初めてその言葉を使ったときに何か、独特のことがあったに違いないと思うのですが。どのような場面で初めてそのコトバを彼(彼女)は使ったのでしょうか?

言葉について大学時に先輩に教えてもらったことがあります。内陸で狩猟採集生活をしていた人類が始めて海を見つけたときに沸き起こるものが言葉の始まりだ、と。象徴的な言い方ですが。

何人かの太古の人たちが青くどこまでも広がるそれをはじめて見て心の中に沸き起こるものが言葉の始まり。一つの事象を同時に見ている人々の胸に去来するものが言葉の始まり、そう教えてくれました。

そうであれば、彼(彼女)がどこを見ているのか、それを探すのが私(コーチ)の役割です。言葉が示しているものがどこにあるかを懸命に探していくのが「傾聴」という行為だと思います。一緒にクライアントのキャンバスに向かい合って探す作業。キャンパスに向かうのが「一緒にいる」という意味。

以上の内容は金曜日に書いたのですが、驚いたことに今日(日曜日)はクロガネモチの実はほとんどなくなっていて、樹の下にはつぶれた赤い実の残骸が散らばっていました。本当に私はどきりとしました。

これは何を意味するのでしょうか?

世界を変える人(その2)

超介です。

2月16日に「世界を変える人」という題で投稿して、その2日後の18日、帰宅途中、深夜の古本屋で一冊の本を見つけ、まさに「世界を変えた人」の話に出会います。私はこういうシンクロ(共振)現象に書店などでよくでくわします。

「人は成長したい存在」「人は答えを内包している存在」で無意識下に課題解決を求めているからでしょうか。本を読んでいても、自分の抱えている問題の答えに出くわすことが結構あります。みなさんはどうですか?

1989年初版の「木を植えた人」(ジャン・ジオノ著 こぐま社)という本です。(以前にも読んだことがありました。50ページほどの小さな本です。有名な本なので読まれた方もいらっしゃると思います。絵本にもありました。創作のようですが。)

ヨーロッパの荒れた野原、一人でこつこつと地面に穴を掘り、どんぐりの実を植え、その後林になり、森にそだち、小川が生き返り、ついには人々を住み始め、生態系を一変させた老人の話。彼が行ったのはどんぐりの実を植えるぐらいまで。

毎日拾ってきたどんぐりの実を水につけて洗って、傷がないものを100個選び翌日に備える。鉄の棒で地面に穴を開けて、どんぐりの実を毎日播種し続けます。数年たって身の丈ほどの林ができ、さらに数十年たって何ヘクタールもの森ができる。ほとんどの人が彼のことに気がつきません。

世の脚光を浴びることなく、質素な生活だけれども、心豊に夢を持って生き抜いた人。よみがえった美しいフランスの高原の森。ほとんどの人に知られないまま世を去ります、がおそらく充実した人生であったと、思ったのではないでしょうか。

私はこんなことを連想しました。

地球が誕生して46億年、そこから10億年たって生命が誕生し、さらに36億年たって人類が誕生しました。つまり人は、自然の先っちょ「空極に進化した自然」です。(これは養老孟司さんがどこかで書かれていました。)

生きて出合う人(空極に進化した自然)に、継続的に「ある種の働きかけ」をすること、持続する志を持ち、行為を継続することの期待感。出会う人に、或いは自分自身に、どのような関係つくりの種をまきましょうか、何が生まれてくるか、楽しみです。

あなたはどんな「どんぐりの実」を播種しますか?