超介です。
小さな個人塾の運営を始めてから2年半が経過しました。以前に勤務していた大手塾での経験を活かし、さらに理想を追求すべく個別のフリースタイルの塾にしました。カリキュラムは塾生が決めます。塾生は通塾時、毎回90分内で学習したいことを決めます。それは5教科以外でも、時には読書感想文、人権作文、自由研究でもなんでも構いません。
私の役割はコーチです。もちろん質問に答えたり、必要なら解説をします。塾生たちが学ぶ内容に対応します。彼らは、90分を通じて集中する場合もあるし、友達と会話する人もいます。
運営するには勇気が必要です。それは塾生たちの今を信頼する勇気です。彼らが学ぶ姿勢を身に着けていくためにはそれが必要です。教えるべきかあるいは指示したり注意したりすべきか迷うときにそれが試されます。解き方や、学び方を、その人自らが、考えたり工夫したりし、解決していったほうが効果的です。私はそれをサポートするのが役割なのです。でもそれには勇気が必要です。
場は、常に新しいので時に緊張します。また時に雑談が増えることもあります。それらはそれぞれに意味があります。定型的ではなく変化していきます。形にこだわらず、中身にこだわります。
このような経過があって、塾生たちはそれぞれの学びのスタイルを身に着けていきます。それはその人の学びの習慣になり、自信につながります。自ら決めて、行動して学んだ結果だからです。
投稿者: yamauchk
やる気がなくても・・・
超介です。
やる気がなくてもできることはたくさんあります。様々な練習(学習も含めて)を行うときに、やれない理由さがしをして、やらないことを正当化するために「やる気が出ない」という場合があります。
でも、行動するのにまず必要なのは「意志」であるので、意志力を発揮できればたいがいのことは始めることができます。落ち着いて、じっくりと自分の心を探って見て「行動を妨げているもの」を調べてみれば、「やりたいと思っていない自分」が現れて、その次に「そんなことしても」、とか「うまくいかない」と考えている自分に気が付きます。
さらに、そのような考えをもたらしているのが「邪魔をしているもの」です。それは多くは思い込みです。今までの失敗したときのいやな感情、あるいは不安かもしれません。
「邪魔するもの」はその人が生まれたときからはそこにいるのではありません。それは取り除くことができます。
塾に来てくれている人たちに、時々そのような話をすることがあります。多くの人たちがわかってくれます。「それらを解決するのはだれですか」、と質問すると「自分」と答えてくれます。そして、それを達成していく方法を一緒に考えます。
夏休みの課題
超介です。
夏休みは、それぞれに教科の学習以外に、自由研究やら、作文、絵画、工作、部活動の合宿、旅行等様々な課題をこなすよい機会です。それぞれ具体的なテーマが用意されているわけではなく、どんな研究を行うか、どんな本を読むかは、自分で考えて決めます。
それは、教科の宿題と違って、ゼロから考えるとても良い経験だと思います。課題のスタイルは指示されますが、内容はその人が決めることができるからです。課題ですから、その点ではコントロールされていますが、内容は多くの場合は自由であるので、能動性を発揮することが可能です。
自由研究の相談を受けるのはとても面白いです。コーチングのテーマとしてはまず、「何を扱う?」「どのようにあつかう?」という風に質問が立てやすいからです。教科の学習時は、答えが一つの場合が多いので、解へ誘導しがちですが、これらには答えは開かれていて無数にあるからです。
論理的思考
超介です。
塾生から作文の相談を受けました。
かつて、中学受験生に集団クラスで作文の授業をしたことがありました。テーマを提示して所定文字数以内で書く、という課題の授業でした。日本語の文法を中心に教えました。日本文が正しく書けない小学生が多く、それを修正することに終始し、悪戦苦闘しました。
今回、多少課題は残っていましたが、日本文はある程度書けます。それで、構成を考えることを提案しました。将来必要になってくるであろう、枠思考(フレームワーク)です。フレームそのものを発想してもらうことは難しすぎると考えて、いくつかの型を教えました。例えば読書感想文なら、
1.どのような物語か、一文で表現する。 2.心を惹かれた箇所を3箇所程度あげて、理由を書く。 3.教訓をまとめる。
というふうに。
本来なら、フレームをいくつか学べば、応用ができて、自ら枠を考えることができはじめると思います。小、中学生の間にその例をいくつか学んでほしいと思いました。
これは、論理的思考を鍛えることにつながるトレーニングだと思います。現行の学習課題を扱いつつ取り入れていきたいと思います。そうすればプログラミング思考につながると思います。
ジョハリの窓とリジリエンスと私
埼玉の教育コーチ Gao!です。
私は週5日、自分のピアノ教室でピアノを教えています。
それ以外に週1日、午前中つばさスクール・つばさ高等学院で、午後はナカジュク越谷教室で働いています。
どちらも教育コーチング認定校です。
今日は、つばさの行事と、そこで気づいたことを書きます。
5月につばさでは、スポーツ大会がありました。
あいにく朝は雨が残る天候でしたが、何とかほぼ予定どおり開催することができました。
最初の方で、グリコをやったのですが、本気を出しすぎた私は(昔の遊びって燃える)、見事にすっころんでしまい、
その後はみんなの様子を見学していました。
そんな私ですが、公園のある遊具を見て、居ても立ってもいられなくなりました。
「登りたい!」そんな心の声が高まり、
「怪我、悪化しちゃうんじゃないの〜。やめた方がいいよ」というウィスパーの声を上まりました。
「よし登ろう!」
一歩一歩登っていきました。
周りのほとんどの生徒や先生はその高さに怖さを感じていて、だんだん高く登っていく私に驚いていました。
正直、怖さはほとんど感じませんでした。
おしりの痛みに耐えながら、最後まで登り切ることができました
後日、このことを振り返って「ジョハリの窓」の中の「自分が知らない」×「他の人が知らない」窓って、これなんだ
と気づきました。
自分が高いところが平気という強みを、これまで意識していませんでした。
高層ビルに行くと、なんかテンション上がるな〜、とか
家の中で、脚立に乗って作業するのは自分の役割だったり、
吊り橋で怖がる娘を見て、ビビリだな〜とか思ってはいたのですが、
周りがビビリなのではなく、周りが普通で、自分がとくに高い所が得意らしいということに
初めて気づきました。
これまで、ジョハリのこの窓って、自分も他人も知らなくて、どうやってわかるんだろう〜と思っていたのですが、
実は潜在的に持っており、その窓が開く時があるんだなって興味深く感じました。
もし自分ひとりで登っていたら、この強みには気づかなかったかもしれません。
人と一緒にやることで、まだ自分も他人も知らない自分の強みに気づくチャンスがこれからもあるかもしれない
って思うと、ちょっとワクワクしませんか
登れた達成感とだんだん増してくるおしりの痛み・・両方をたっぷり味わいました。
ちょっと嬉しかったのは、私が降りている時に、昨年はこの遊具に登らなかったYちゃんと新しく入ったTくんが
私の近くまで登ってきてくれたことです。
太って怪我してるおばさん先生がなりふり構わず登ってる姿に、自分も行けるんじゃないか・・と思っていてくれたかどうかは
わかりませんが、二人は半分くらい登り、自力で降りることも何とかできました。
逆境の時に踏ん張る体験は、リジリエンスを高めることにつながります。
1年半前には、こんなこともありました。
足を骨折した次の日にピアノ演奏の舞台に立ち(車イスのお世話になりながら)、その次の日には、階段を這い上がって
塾のクリスマス会に参加しました。
やりたいことができないかもしれない状況に追い込まれると、それができることがどんなに幸せなことか、どんなに恵まれていることか、気づかされます。
そして「何とかしてやりたい!」「やるための方法は何だろう?」となっていきました。
リジリエンスを高めると同時に、自分への信頼も高まっていきます。
リジリエンス〜これは子どもの成長を見守る時にも、重要です。
人生には、あぶない橋や過酷な砂漠が必ずあります。
そこでめげそうな時、倒れて立ち上がれなくなっている時、みなさんはどんな言動をされますか?
親として「子どもにそれを乗り越える力がある」ことを信じ、「大丈夫!」「あなたならできる!」声をかけることが、立ち上がる力につながっていくと思います。
子どもが辛そうな時、親として悲しかったり、自分のことのように辛かったりします。
でも、それって、本人が感じている感情とは別物。自分が過去の体験から作り出しているもの。
自分の感情なら自分で処理できる・・最近の私はそんな風に思い、信頼の器をもっと広くしていこうと思っています。
先日参加したパパ・ママコーチングの講演会で、幼稚園児が多くの友達や先生に見守られ、励まされながら、何度も跳び箱に挑戦し、
ついに10段をクリアする映像を見ました。
最初は、とても飛べそうに見えないんです。
見ながら「無理なんじゃないの?」という判断も湧いてきます。
でも、最後には円陣を組んで「できる!できる!」って友達に励まされ、自分に対し大きく頷いた後、跳び箱に向かい、見事クリアしました。
「その子が絶対飛べる!」という周りの信頼、そして「僕はできる!」という自分への信頼がこの結果を産んだんだなと思いました。
親や先生が子どもの自信を高めることはできません。
でも、子どもへの信頼はいくらでも高めることができます。
子どもへの信頼を高めることで、結果的に子どもが自分で自信を高めるということが起こってきます。
信頼 大事だな〜
↓こちらはスポーツ大会について書いたつばさのブログです。よかったら読んでください。
教育コーチング体験セミナー in 浦和 開催しました!
埼玉の教育コーチ、Gao!です。
一週間前の6月10日(土) さいたま市市民会館うらわ 集会室において、
人が育つコミュニケーション「教育コーチング」体験セミナー in 浦和を開催しました。
今回は、5名の受講者、そして中級コーチと準上級コーチがお手伝いに来てくれました。
ぎょうざじゃんけんに始まり、受講者同士でお話をしたり、ワークをする時間を多くとりました。
皆さん、積極的に参加してくださり、活気のある2時間となりました。
セミナーをしながら、カウンセリングとの違いにも話が及びましたが、コーチングとは、
相手がどこに進んでいきたいのか、それを引き出すことなのだということを改めて感じました。
自分がどこに進んでいきたいのか、それを明確に意識している場合もあるし、何となく進んでいる場合もある。
また意識の上では、Aに行きたいと思っているけれども、無意識の自分はBに行きたいと思っているかもしれない。
本当は、どうしたいのか?を問いかけるのも、コーチの役割だと思います。
そしてあのゴールに行きたいと思っていても、それを邪魔するものがある。
本人が、邪魔するものの存在に気づき、取り除くサポートをするのも、コーチの役割です。
コーチングをする時には、「判断」を手放して、フラットな状態で聴くことが重要です。
私たちは知らず知らず「できるかできないか」「自分に関係あるかないか」
「好きか嫌いか」「正しいか間違っているか」を考えながら、話を聴いています。
そんな判断が起こった時には、判断に気づき、それを脇に置いて、ただただ相手の話を
受け取ることに集中します。
自分がどんなフィルターをとおして、物事を見ているか、普段から観察してみることも面白いです。
何をプラスとして見ているか、マイナスとして見ているかは、人それぞれです。
体験セミナーの受講者で、小学校の英語の先生をされている女性の言葉が衝撃的でした。
私は娘に、「世界中の人が絶対ダメだということ〜例えば、人を殺すとか〜以外は、
何がいいのか、国や時代によって違うのだから、絶対にダメって言うことはないんだよ。
学校も行きたくなかったら、行かなくてもいいんだよ。勉強することは必要だけどね。」と話しています。
これくらい、広い気持ちでいたら、人と人がぶつかることもなく、ひとりひとりが創造的な意見を出していけることでしょう。
彼女(受講者)は、日本の学校が「苦手」で、アメリカの大学に進まれ、そこで
アクティブラーニング型授業を受けられたそうです。
「日本の教育は30年遅れている」と昔から言われるけれど、本当にそうだと語っていました。
体験セミナーでは、アクティブラーニングにも話が及びました。
これから、勤務先の学校に取り入れようと学び始めた方、アメリカの大学でALによる授業を受けられた方、
そしてすでにALを深く学び、ALの研修を実践されている方がいらっしゃいました。
日本青少年育成協会では、「教育コーチングをベースとしたAL実践講座」を開講しています。
授業者としてのあり方や姿勢、引き出すコミュニケーションを大切にしながら、ALの様々な手法を学び、
最終日にはひとりひとり模擬授業を行って、フィードバックし合います。
私も昨年秋に参加しました。
そこで感じたのは、先生たちが「教えたい」「教えなければ」を手放す大切さです。
先生としての責任感やビリーフから、教えることを手放せなかったり、また教える快感も、
やめられない原因のひとつかなと感じました。
「教えなければ」「させなければ」を持っているうちは、主体的な学びの実現は難しいことでしょう。
ALをこれから実践しようとされている方、実践されている方には、ぜひそのベースとして
教育コーチングの考え方を知っていただきたいなと思います。
「教育コーチングをベースとしたアクティブラーニング実践講座」については、こちらをご覧下さい↓
今後の体験セミナーについては、こちらをご覧下さい↓
埼玉では7月12日に東浦和で開催します。
本を読むこと
超介です。
書棚を置くスペースが十分確保できたので、これまでに読んできた本も、読んでいない本も書棚に並べられます。これからは購入しても当分は処分したり、見えないところに保管する必要がなくなりました。幸せな気分です。
いろいろんジャンルの本を読んできたな、という思いがあります。同時に、手にとってページを繰ると、当時は感じたり、理解していなかったことがたくさん出てきて、なんだ、読めていなかったじゃないか、など思うのです。
サーと一通りに読んだ本が多いのですが、背表紙を見るとその内容の残骸が浮かび上がります。読書していた当時は、その時の問題意識があったからその本を読んだのですが、その後関係する範疇の体験が増えたので、新たなことが見えてくるのだと思えます。過去が新しい意味を帯びて蘇ってきて、ついつい読み耽ります。
現在自分が取り組んでいる事項についても、本にあたって振り返りをすると、うまく進んでいない事項の答えを見つけたりします。一冊の本だけでなく、様々な本にあたると時に、どんぴしゃりの答えを得ます。こんな時は、本当に嬉しいのです。
命名
超介です。
石や植物、虫の名前を調べるのが好きです。その名前の由来が面白いからです。最近、近所の野で観察していて、スズメが冒頭にある「スズメノエンドウ」「スズメノテッポウ」「スズメノヤリ」を見ました。大きさやら、形からなずけられていて、納得させられます。
石やら植物、虫以上にとても興味深いし、もちろん比較にはなりませんが、とても大切なのは人の命名です。世に生まれてきた命に名をつける時に、その命にどのように生きて欲しいか、その祈りからくる行為だからです。私も二人の子が生まれてきた時、それぞれに想いを込めて命名しました。
その想い通りにその人が生きるかどうかは構わないのです。ただ想いを込めるという、その命名する行為が人が生きていく上で最も基本的な生き方に通じるから、とても大切なのです。心の中で、こうあって欲しい、あるいはこうありたいという願いを持つことができるのは誰もが有する、基本的な、そして自由で豊かな行為だからです。
命名はそれが最も端的に行われる行為です。
習慣つくり(その2)
超介です。
外圧をつかって、例えばだれかに「勉強させられる」ことから習慣を作る道は、どこかで「自主的に学ぶ」に移行していかないと「抜け道」を探しがちになります。
本来やりたいこととして求められていればその傾向は小さくなるし、ちょっと寄り道しても戻りやすくなるのです。
宿題をする際、答えを写しその場をやり過ごす。英単語、漢字の練習を文字の練習的にやる、など「抜け道」はそこいらじゅうに見つけることができます。私も時に無意識にそれをやっていてはっと気が付くことがあります。
いわれたことをただやる、という習慣だけが身についてしまうと思わぬ失敗を起こすことがあるのです。ただやると同時に、あるいは後からでも行動の意味を確認しておかないと思わぬ陥穽に落ち込むことがあります。
学習面においてもよくおこることです。実力の伸長が努力と伴わないことの原因の一つになることがあります。
そして、仕事をする社会人の中にもそのことから派生する不祥事を起こす人のなんと多いことか。社会で起こる事件には、その逃げ道(→いいわけ)がいっぱいあふれているように思えるのです。
習慣つくり (その1)
超介です。
良い習慣つくりは幸せな人生を産みだすための一つの、しかし確実な方法であると思います。習慣が身につくとまさに人生が変わります。
塾を運営する際に、塾生たちが良い習慣を身に着けることができるようにと願っています。この習慣つくりのためには2つのアプローチが考えられます。それは外圧を利用する方法と自らの力でそれを獲得する方法です。
しかしながら、外圧を使う方法、例えば「勉強をさせる」にしても、それはどこかの段階で「自らの課題として取り組む」というようにシフトしていかないと習慣化はできません。習慣化ができないまま、外圧を使って課題に取り組んでいるとき、その効果は限定的です。
どちらの方法でも結果として習慣化ができればよいのですが、それは個人により、さらに何を習慣化するかにより異なってきます。
私は、塾生たちがどこかで自分の課題として学習やら受験に取り組み、その時に塾の場を外圧的に意識して使ってもらえるように心がけています。コーチングはそのためにとても有効です。そのように取り組めるようになった塾生たちは確実に実力を蓄えていきます。彼らの行動、態度を見ているとそのさまがよくわかります。