マニュアル(達成動機的行為)について

「教育コーチング」が人生を変えるきっかけとなった超介です。

たとえば、コンビ二などで接客の様子を観察していると、マニュアルどおり、マニュアル以上等の動きがわかるようになります。いかにその仕事にコミットしているか、というのは意外とはっきりと態度やら行動に出ているものです。

最近知りましたが、心理学の用語で「達成動機」と「親和動機」という言葉があります。「達成動機」とは、ある行為をするのは自分のためであって、相手のためではない場合のことです。その行為は自分のため、自分の目的達成のための手段として行為するときのこと。

マニュアルのみに従った行動は「達成動機的」だと思います。このとき、サービスを受ける相手は、そのサービスへの価値を低下させてしまいがちです。この動機は意外とはっきりと外に伝わるものなのです。わからない、関係ないと考える人もいるようですが。

こんなことを書くのは、自戒からです。コーチングをしたり、前でファシリテーションをしたりする時
「達成動機的」であれば、それらの行為は相手に届きにくくなると思うのです。意識のベクトルが相手に向かわずに、自分に向かいやすいのは、それが原因かなと。

「親和動機的」とは、人と人が同調しあい、相互にフィードバックループで心がつながっている、相手の気持ちは自分にとっても重要であると同時に、自分をかえる力もある、その様な状態(相手との関係)であるときをいうそうです。

それで、こういう言葉を知ったので時々自分の行為にチェックを入れます。2つの動機のどちらが今は強いのか、と。不安にもなります、相手のためという気持ちは自分の眼にも見えませんから。

レッドロビンの赤い芽(般若心経)

「教育コーチング」に助けてもらっている超介です。

レッドロビンの赤い芽が成長して普通の葉に変わっていましたが、さらにまた赤い新芽が伸びてきています。

過去の手帳を繰っていると、2004年2月21日から3月22日までの間で合計1022回般若心経を唱えた記録がありました。これを唱えるだけですくわれる、それで覚えました。そのような気持ちになった事情を思い出して切なくなります。

最近、福岡伸一さんの「動的平衡」という本を読んで、般若心経の教えに通じると思いました。

般若心経から学んだことは、「世界は一つであること」。私達の身体は、宇宙を構成する物質のかけらから出来上がっています。本はといえば、恒星が爆発して飛び散った物質、それらが時を経て私の身体を作ったと。ミクロの眼で、そしてマクロな時間の流れを捉え、見渡せば、物質の「流れのよどみ」が私達たちの一瞬の生。

すくわれると感じるのは、自然界のあらゆるものがすべてつながっている、という教えからでしょうか。私は一人ではないという、孤独感からの救われの感情。我々の存在は固定ではなく、モノではなく、流れていく、コト(現象)であるから。

悩むと考えることの違いは、答え(仮説でも)がでるかどうかのちがいであるとわかりました。悩み苦しむときはこのことを覚えておきたい、そう思っています。刺激に対して無意識に反応する人は考えることがない、悩みはそんな構造の中からおこる。悩むときはある、でもそのあとは、同じ刺激に対して無意識の反応はしないでいようと。

もし、刺激を受け止めてから、その意味を自分のミッションに照らし、選択肢を考え、そして自由意志で行動を選べば、それは悩むのではなく対応することであり、流れていくことができる。

でも悩んでしまうと悪循環にはまりそこからは抜け出せない。大きなやさしい世界の一部になれないから苦しい。どんなことが身の上に起こったとしても、そのような思考回路を持てば人はサーボ機構をもった生物として生きていける(人は成長したい生き物だ。人は答えを自分の中に持っている。ひとはそれぞれ。)と。

悩むときは、コトバがつながり堂々巡りをして苦しい。でも考えること―そのときは常に未来がある、期待感がある―ので次々と考えを思いつくことができてたのしいのです。

極々私的話ですが・・・

「教育コーチング」修行中の超介です。

 父は地産の農作物販売(道の駅での)の会計をボランティア(手当てなし)でやっている。70歳の頃から学び始めたパソコン(エクセル)を使っているようだ。自分の年齢ではパソコンが使える人が少ない、などといっている(81歳だ!そりゃそうだろう、身内自慢)。

 父は農家の長男で、家屋、田畑、山林を守りぬくことをあたりまえのこととして、山林組合、地元の鉄工所、叔父(父の弟)の会社(大阪)、農地整理組合の仕事、地域の諸々の団体の役員等をこなしつつ、長男としての役割を果たしてきた。

 離れて暮らす長男の息子(私)に「いつ帰ってくる」(丹波に住むの意味)と無言で問いかけてくる。そのことをめぐって言い争ったこともある。いまできるだけのことをする。それでよし、といって自分を許すことにしている。でも、とても切ない気持ちになることもある。

 できないことについてもがくことが多い。よく見わたせば、そこら中に未解決の問題がある。自身の周囲だけでなく、日本中がいや世界中に未解決の問題があふれている。

 自分が変われば世界が変わって見える、これは原理である。

 この原理を信じ、めがねの曇りをゆっくり丁寧に磨く作業をおこなう。5年ほど前からたくさんの本を読みはじめた。特にこの2年ほどはその読書からめがねのくもりをとる方法に出会うことが多くなったように思う。

 ロジカルシンキングを中心とした問題解決法の学び、コーチングからはいったコミュニケションの学び、脳科学、心理学の世界を取り入れた先哲の啓蒙書からの学び等だ。

 壁には結構ぶつかる。以前は、ぶつかることが非常に恐怖であったけれど、今は少しめがねの曇りがとれてきたので「ああ、ぶつかる」てな感じで、すこしラクである。うまくいくこともある、いかないこともある。

 誰かが書いていた、人生はテストであると。実力が発揮できることもある、できないこともある。そう考えて(少し客観的になって)そして真剣に再度テストに取り組んでいこう。

5月の薫風をうけて

「教育コーチング」で変わろうとしている超介です。

故郷丹波に戻り田植えをしてきました。田植機で苗を四条ずつ植えつけていきます。手植えの記憶もおぼろげに残っていますが、大変な重労働でした。機械だと1日で2箇所計0.5ヘクタールばかりの水田の作業が終わります。苗も農協から事前に購入しハウスで育てています。

竹藪には、筍もまだ生えていて、毎朝、両親が採りにいきます。にょきっと曲がっているその内側の地面にクワを入れてグイッと土をおこせば、地下茎と筍の根っこが切れます。一袋1・2本、100円・300円程度の値を付け道の駅に出荷します。安さと新鮮さでなかなかの人気、棚に並ぶのを待っている人もいます。

小川沿いに咲いていた菜の花、その花はもう先っちょに少し残っている程度で、根元には細長い種子の入ったさやが並んでいます。カラスノエンドウの紫色の花が咲き乱れていて、5月の薫風に蓬の葉っぱ、桜の青葉も銀色がかった裏面をみせます。

その風の芯の中には、ほんの少し次の季節の予感があります。歩きながら思わず両手を広げて5月の薫風を受け止めます。そうだこれからはもっと外に出よう、外に目を向けようと、思いました。一人で歩くときも自己との対話ばかりに終始せず、もっと外の世界とつながっていようと。そのような意識になる季節です。

コーチングの自己課題、「一緒にいる」に加えてさらにもっと「信頼」を深めていくために「興味と関心」をその場にもつことにします。『「話す」時の意識のベクトルを自分にでなく相手に向けること。この感覚を掴みましょう』、そう指摘してもらいました。

そんなこともあって、5月の薫風のなか、外への意識とつながりを大切にしようと考えたのです。コーチングや、ファシリテーションにおいても場を構成する人たちの息吹をフルに感じることができるように、もっと自由に場に合わせてうごけるようにします。

変わる

「教育コーチング」による自身の変化を自覚している超介です。

レッドロビンの赤かった若葉はその赤みを薄くし、紫がかった濃いグリーン色に変わりました(日陰のロビンはまだ赤い芽をつけています)。花が雲のように咲きほこり、枝を隠していた桜、その桜も今は若葉をすぎた青々とした葉で覆われています。

この1年間、自分の課題として「一緒にいる」を心がけてきました。仲間と「一緒にいる」、上司と部下と「一緒にいる」、会議で皆と「一緒にいる」、研修で「一緒にいる」・・・そんな過程で得たものは「ブレない自分」と「未来の自分と一緒にいる→なりたい自分になれる」です。

そのことをECTPの講座で発表しました。また、メニューをこなしていく中で、トレーナー、受講生の皆さんからFB(フィードバック)をもらいました。「超介さん、・が見えますよ。」と、見える姿をそのまま教えてもらうのです。自分では見えていない(意識できていない)姿を教えてもらいます。

そこから、自分の課題を見つけました。それは「信頼」です。自分に対する「信頼」、相手に対する「信頼」、これらを通じての「教育コーチング」に対する「信頼」。ここを深く掘り下げ(?)ればもっと力強いコーチング、ファシリテーションができるように思えたのです。

たぶん、それらはたくさんの人と関係を作りあうなかで深まっていくのかな、と。4月26日の東京の講座でそんな財産をもらいました。

その翌日、神戸空港近くの式場へ姪の結婚式に行きました。久しぶりに親戚の人たちに出会い、また新しい人たちとも知り合いになりました。新しい人だけでなく、懐かしい人たちともさらに、よい関係を作り上げていけそうな気がしました。

神戸空港の先端の式場に、若々しい新たな夫婦とその親族がいて、ガラスの向こうに瀬戸内海、さらに奥まって明石大橋が見えていました。幸せをたくさんいただきました。

壁にぶつかる(その後)

「教育コーチング」のセミナーを6月14日に開催予定している超介です。

3月下旬に投稿した「火事」跡には青々と草がはえ、焼け焦げ跡はほとんど見えないほどです。焼けなかったところはそのまま枯れ草で覆われていますが、焼けたあとのほうが若い草が大きく伸びていました。

小学3年生の男の子がわがままをいって、前週の約束をまもりません。約束をたがえたことを注意して守らせます。頑固に彼は拒否しますが、ここは負けてはならぬと、許しません。

頬をふくらませて不満をあらわし、うろうろします。で、うろうろはしましたが、彼はしぶしぶ、我慢して約束を守ります。「お、これで、一つクリアしたな」と。ここで関係を壊してしまうような行動を彼がくりだせば、私の負け。どきどきものでした。毎回、これはいけるかな、とぎりぎりの負荷をかけます。負けるときも結構あります。

大人でも、失敗した後、再スタートし、新たなよりよい位置に立つことができます。人に反省を求めるときには相手が了解できるところまで傾聴したり、時には激しく想いをぶつけたりして、立ち位置を確かめます。

相手が了解できるところまでいかず、こちらがあきらめ、途中で追いかけを放棄して「もういいや」と逃げ出してしまう。たとえば、上司にその癖がつくと、もう彼の部下は変われません。

でも、追いかけて、「ああ、あなたはそこに居るのか」とわかるとその場所に、的確な質問/傾聴/承認を繰り返すことができて、そして、前に進めるように思うのです。

忙しいと、ついつい間に合わせと妥協の関係に終始してしまいます。でも、いつまででもそれでは進化がありません。

どのような人間関係が作れるのかも、自分次第であると思い始めました。

壁にぶつかる

「教育コーチング」をつかい悪戦苦闘人生の超介です。

壁にぶつかることはよくある。

彼がぶつかっているのは勉強の壁だ。
壁にぶつかっても、倒れても、時間はかかるけれども手をついて起き上がる。
でもまた、倒れて、またふらふらしながら起き上がる。
必死でやっているわけではなく、ただそれが当たり前のように繰り返している。
そのように勉強の壁にぶつかり続けている小学4年生がいる。
私は彼を尊敬する。

思考の壁にぶつかる中年の男がいる。
彼は今、概念のかたまり、否定のサングラスで世の中を見る。
彼の周囲で起きる事象は彼にとってはすべて自分を責める波動に見える。
受け止めた波動を悪意の波動で周囲に撒き散らす。
たった一度サングラスをはずせば世界は違って見えるはず、
私は、そう信じて彼の波動を受け止める。

心の壁にぶつかる私がいる。
日常で感じる無力感やら、感情の振れの底に何があるかを探す。
人に指摘されたことに落ち込み、前を向いて歩いてきたと思っていたら、
一歩も前に進めていなかったと感じてしまう、そのときの心の底にある壁。
その向こうに何があるかを探す。
壁の向こうにふわふわした頼りない白いものがある(たぶん)。
意識のピンセットを研ぎ澄まし、そいつをつまみ日の下にひきづりだしてやる!

壁にぶちあたっている人たち、彼らが壁を乗り越える、潜り抜けるために
「教育コーチング」は有効な武器になる。

「質問」が意識を変え・・・人生を変える。

「教育コーチング」普及活動ing の超介です。

模擬テストの答案を生徒に返却し訂正していきます。50点満点中の25点が数学。間違えているところを一緒に見直します。

「?,老彁嗣簑蝓△海海派箙罎良佞永№ナ間違えた2点減、数字の転記ミスで2点減 ?△漏領─⊂豺腓凌瑤里?ぞえ間違い(図はあってる)で2点減 ?H屬亙∫?式の文章題で式たたたず0点でも、ここを思いだせばできる(4点取れる)、・・・・・・・・・・、つまり43点は取れていてもおかしくないね、もうひとがんばりすればできるね。」と私。

この「もうひとがんばり」が「私」にはわかる「もうひとがんばり」、でも中3の彼女には見通しにくい「がんばり」であるので、このままでは、ここまで踏みこめそうにありません。なぜか・・・、仮説を立てて進めないからです。可能性はある、実行はできそうにない。そこをうめるのがコーチング。

自ら、何があればできる?と質問して学習を進めることができれば、できる。コーチングでそれをやります(これが自立学習mineの目指すところ、ちょっとPR)。前向き、開いた質問からはじめます。
これで、彼女はずいぶん変わってきました。

コーチングしながら、自分もそうかも、と気がつきます。生徒と一緒ではないかと。もう少し見通しの立つ人が見れば、もうひとがんばりできれば可能性が一気に広がるのに、それができていない自分かも?・・・・・。

仮説を立てます。もう一歩踏み出せば、できるようになるはず、自身の内側に能力は潜んでいるのであるから。たった一歩踏み出すだけでよい、そこから新しい体験が生まれ、さらに次々とカスケードに体験がすすんで知恵が生まれて・・・と。

あるベテラン講師が「授業中でやった問題が模試にでてる、自宅でも復習していれば得点できていたのに・・・」と、家庭で自主学習できない生徒を嘆いています。

「でも、先生、あなたは自分の仕事のための勉強を、自主的に、プライベートの時間を使ってやっていますか?」と、問いかけます。自分のためになるとわかっていても、やれるひとと、やれない人がいます。やれるひととやらない人の違いはどこにあるのか?

やれるひとは「何があればできる?」と問うて、それで「どうする?」と詰めていける人。本当にできる人は習慣的にやれます。

何があればやれるのか、できていればどんな気分か?と自分にも生徒にも未来に向けての質問をします。

焦点(ピント)をあわせる

「教育コーチング」普及活動中の超介です。

松山の桜は満開を過ぎ散り始めました。毎日、桜の木の下を通る度に、まだ咲いているな、と見ていましたが、今朝は路上にピンクの花びらが点々と散らばっていました。我慢強く咲いていて、早く見にきてね、催促しているようでしたが、そろそろ限界、今週中に散ってしまいそうです。

ピントを合わせて、日常と異なる世界を探検するのが中学生の頃の楽しみでした。

顕微鏡で淡水プランクトンの観察をする。丸い視野中のぼんやりした像がくっきりして浮かび上がる。
この瞬間に本でしか見たことのない世界が広がります。

暗夜、懐中電灯で星図を照らしファインダーを覗きながら、ターゲットの天体のある場所に望遠鏡を運びます。突然に見える何十万、何百万光年の先にある星雲やら星団。

その他に釣りやら、昆虫採集やら、植物採集やらを楽しみました。

コーチングを習ってからは人間関係にピントを合わせています。

特に子どもとの関係では、ピントの合った瞬間、これは突然にやってきます。今日はちょっと違うな、と思ったらふるまいが変わっていたりします。

子どもの行動が変わるときがあります。それは付き合ってみないとわかりませんでした。色々と試行錯誤してリクエストします。

このピントの合わせ方、一番大切なことは「一緒に居る」ことができるかどうかだと思います。相手に合わせつつ、時々こちらからもリクエストします。

小学低学年の子たちは特にどんどん変化します。脱皮していきます。濃密な時間を生きています。生きていくことは変わること、動くことだと教えてくれているようです。

自分の生活にピントを合わせます。やるべきこと、やりたいことを整理してリストアップ、スケジュールに落とし込んで、時々それを眺めてなすべきこと、やれているかチェックします。

うーむ、ピントの合っていない文章に・・・・。

考え方の枠を広げる(火事から考えたことpart?掘

「教育コーチ」修行中の超介です。

ゼロベース思考、というのはそれまでやっていた思考作業を一旦ガラガラポンと崩して、最初からやり直すこと、とおもっていました。電卓計算でたとえるならばメモリも全部消してACボタンをおしてやり直す、算盤でいうなら「ご破算で願いましては」ではじめること、のようにです。

 でも、数日前に本を読んでいて私的(超介的)最良の意味に気がつきました。

皆さんは日々の生活の中で、困難なこと、できそうにないこと(それが公的なことであれ、私的なことであれ)に出くわすことはありませんか?ありますよね。

たとえば、私は人前で話すことがイヤでたまりませんでした。ですから、会社の全体会議などでスピーチをすることがきまると、1週間ほど前からでも憂鬱でした。準備をしていても不安がこみ上げてきます。それを気にすればするほど、そうなります。

これをゼロベース思考で捉えなおします。この場合のゼロベース思考は「思考の枠」を拡大することです。いやなこと、というのはそれにこだわるからいやなことなのであり、そのときは「思考の枠」がそのいやなことを中心にして存在しています。その枠を最大限に広げるのがゼロベース思考です。すると、その枠内で新たな事象が浮かんでくるので、それとの有意義な関係を作るのです(構造化する、とかいうらしいです。)。

たとえば、スピーチをすることの延長上に、1年後に20名くらいの保護者の前でトレーナーとしてファシリテートしている自分をイメージするのです。そうすると、目の前のいやなことがそこに至る(ちょっとたとえとしては悪いですが)までのトレーニングの機会として見えてきます。やるべきことを大きく捉えなおします。メンタルエネルギーが必要ですが。

こんなことを考えるのは次のような事情からなのです。

朝起きると憂鬱な気分にとらわれます。その原因を考えました。それは、一つこなせば、また次へと、次から次へと向かい合うべき困難な事態に遭遇しているとおもっているからなのです。これが憂鬱の正体かと。でもその都度思考の枠をひろげることができれば(ゼロベース思考で位置を捉えなおせば)、違って感じられるはず、とやっと気づいたのです(ずーと朝が憂鬱でした。これまでは、ごまかしてエイ、ヤーとそのような気持ちを切り捨てていました)。

私の「最大・最深の思考の枠」を死後の世界まで広げます。すると、『私の葬式のとき、知人達が私のことを「超介さんは、本当に誠実に生きたひとだったよね」といってくれること』、これがその枠の中で一番大切なこととして浮かんできます。そこから、次々と現れる困難(と思われる)な事象を捉えなおします。すると、憂鬱な気持ちがおさまり,少し前向きの感情につながるのです(きっと)。
このような思考を繰り返せば習慣になり生まれ変わることができると思っているのです。

これもセルフコーチングだと思います。
「無意識の海から思考・判断・感情型を引き上げ、リストラクチャ、ブラッシュアップして再度無意識の海にそっと沈める」です。