問をたてる・・・・から変わる(変化の中にチャンスを掴む 3)

 問を立てる、主体的である、立命する、選択することの重要性を再々教育コーチングで感じている超介です。

 答えが初めからある問題(数学の問題のように)に対処していると、いつの間にかそれを探す習慣が身についてしまいます。不都合なことがあれば、その原因の犯人探しを始めたりするのです。でも世界はそんなに単純ではなくて、どのように『問をたてるか』『答えをたてるか』が重要で、そうすればより創造的な関わり方をすることができます。

 誰の本に書いてあったかは忘れてしまいました。
『人生にはじめからは意味は無い、人生があなたに意味をつくることを求めている。』

 過去、何人かの首相の指南役でもあった陽明学者安岡正篤師の講演集から、知命と立命という言葉を知りました。次のような意味です。安岡師は『命』とは宇宙の本質たる限りなき創造変化であり、絶対的なものではあるけれども複雑な因果律がある、それを探って知り(知命)、因果の関係を操作して新しく運命を創造変化させていくことを『立命』、と説明しています。

 スティーブン・R・コビー著『7つの習慣』のうちの第一の習慣は『主体性を発揮する』です。主体性を発揮するとは、条件反射とは違います。つまり(外界からの)刺激をうけて考えもせずに無意識で反応、行動することではありません。人は刺激があれば、それを自覚、想像力、良心、自由意志により反応を選択することができる存在です。それが主体性を発揮することであり、人と動物との本質意的な違いなのです。

昨年末に『選択理論』を読み始め、「ああ、ここにも同じことが書いてある」そのように感じました。我々は環境から『情報』を得るだけで、その解釈はその人がそれぞれにすることができる。だから環境にコントロールされずにいることができる。行動を選択することができる。うつ状態も、落ち込みもそれは本人がそのように選択しているのである。だから、それ以外の選択も可能である。

 誰もが様々な悩みを抱えているように、私にも立ちふさがる壁があって、超えられない、どうしよう、そう思うことがあります。その解決法をいつも探しています。それで多くの本を読んで考えてきました。過去と他人はかえられない、けれど未来と自分は変え放題、を理解し、さらに自分を変える糸口も少しつかめてきたように思うのです。多くの人が同じことを伝えてくれています。

 立ちふさがる壁があっても、可能な範囲で一歩踏み出せば、気持ちが少し変わります。そこから新たなエネルギーが生まれ、まったく超えられないと思っていた壁、その高さが少し低く感じられます。さらに一歩踏み出し・・・・。

続けることから変化が生じる(変化の中のチャンスを掴む2)

教育コーチングを継続することで変化を見つけている超介です。

毎朝のウォーキングを2007年10月14日から始めて2年3ヶ月ほど経過しました。変化を感じるのは変わらないものがあるからであり、続ける(変わらない)ことにより変化を感じることが出来ます。以前は4km歩くのに疲れていた体がウォーキングを続けて、いまは10kmあるいても平気になったように。

 変化の中にチャンスを見出す方法の一つに続けることがあるのです。チャンスは自信となって私の目の前に現れてきました。ここ数年続けていることからいくつかの自信を得るようになりました。人様の前で話をすることも、そのうちの一つです。コミュ二ケーションについて20名弱の人たちと一緒に学ぶ機会を得、都度準備して運営することからもたくさんの学びがありました。続けることから人との関係も変化します。人間関係が変化して深く話すチャンスがつかめます。

 読書習慣もこれまでの乱読から、これはと思った書物を繰り返して読み、内容を身につけるようにし始めました、これも習慣になりつつあります。いくつかの範疇では、これはとおもう書物を繰り返して読みます。すると、徐々に知識がつもり、自分の体験と重ねてみたりして熟読していくうちに知恵となり、仕事、生活の様々な局面でパワーを感じることがあります。根気よく続けていくと知識が知恵に変化します。変化してチャンスがつかめる。

 このブログへの投稿も、継続すれば何かのチャンスがつかめるのでは、そう思います。日々の様々な事象との出会いの中で、気づいたことを種として、文を作ることは楽しみでもあり、更なる気づきを得るきっかけにもなります。書くことは『描くこと』に通じていて未来をかいま見ることもありますし・・・。
続けると未来が変化してくるかも?

 誰もが持っている多様な可能性、人には本人も気がつかない可能性の種を持っていて、何かのきっかけがあると(そしてエネルギー注入が継続されると)その種から芽吹くものがあるとおもうのです。熱帯のジャングルのような多様性に満ちた存在、それが人だと(おお、変な比喩!)思います。そこかしこ歩くジャングル!?

変化を作り、変化になれ・・・変化の中のチャンスをつかむ

教育コーチングを通じて変化の中にチャンスを見つけて掴み取る超介です。

 30日から久しぶりに丹波市に戻り正月を迎え、今日3日、松山に戻ってきました。故郷で正月を迎えるのは、もう何十年ぶりかになります。両親と3人で過ごす年末、餅つきも、おせちつくりも手伝うことの無いまま大晦日を迎えました。

 31日の夜から正月にかけて近所の神社では焚き火をし初詣に来る人を迎えます。お神酒、昆布茶、お菓子などを用意しておきます。その際に父と一緒に少しお手伝いをしました。丸いお月さん、しんしんと雪がながれてきて、寒い大晦日。元旦の朝には1・2センチの雪が積もっていました。

 2009年より少し変えるぞ、変化にチャレンジ、変化をつくる、日常から、少し異なる体験をと、帰りの高速道路も少し変えてみましたが、見事に道に迷い大阪の市内でうろうろし1時間ばかり余計に時間がかかりました。ナビはつけていないので、地図を見て道を探しましたが、30日の夜の大阪の幹線道路は車もおおくて大変、戻るのに苦労しました。帰郷中は時間もゆっくりとれたので、朝の散歩にも時間をかけました。ちょっと遠出して10kmほどあるきました。少し自信が付きました。普段は4km程度です。年末から少し意識して日常から変化を作り出そうと。

 帰路もいつもは瀬戸大橋ルートを通りますが、明石大橋淡路ルートで帰りました。風景が新鮮、気分が変わります。

 年頭のテーマこのように・・・

  変化を作り、変化に慣れ、変化を楽しみ、変化の中にチャンスを見つけ、掴む!! 

 『ゆでカエル』にはなりたくないのです。(いきなり熱湯の容器に入れられたカエルはびっくりして飛び出して生き残る。でも、ゆっくりと熱せられた容器の中に入れられたカエルは、その中の水がお湯になって、そして熱湯になるうちに、いつの間にかのぼせて死んでしまう。)なかなか見通しのきかない(ただ、見通す能力が無いだけ?)泥の中のような状況でも、足と手でかき回し、たしかなものを探して掴む、それを足し合わせてチャンスとするのです。

庚寅(こういん/かのえとら)の年

2010年も教育コーチングを地域に深く理解,浸透させることを希う超介です。

 みなさま明けましておめでとうございます。 お正月はいかがお過ごしでしょうか? 私は、休み中にこれまで断片的にしか読めていなかった本を通読しました。(といっても、これを書いているのは12月27日なので、これは予告と期待をこめています。)

 さて、今年 庚寅(こういん・かのえとら)の年であります。この干支の意味を調べてみました。
(干支の活学 安岡正篤著 プレジデント社から引用します。)

  庚:この文字は次のような意味があると解説されています。
    『この「庚」には三つの意味がある。第一は継承・継続、第二は償う、第三は更新。つまり庚は、前年からのものを断絶することなく継続して、いろいろの罪・汚れを祓い清めて償うとともに、思い切って更新していかねばならぬということである。』(同書p108)
  寅:この文字には次のような意味があると解説されています。
    『「寅」の字は宀は建物、組織、存在を表し、真ん中の(ウ冠とハを除いた部分) は人が差し向かいになっておる象形文字で、手を合わせる・約束する・協力する意を表し、下のハは人です。だから<つつしむ>、<たすける>という意味がある。しかし助け合うには一人ではどうにもならない、志を同じにするものが助け合うのです。そこで寅には同僚という意味があって・・・』
                                     (同書p167) 
それで、この二つの文字の意味から、西暦2010年、庚寅の年の意味を解釈すればつぎのように
なるのではないでしょうか。

2009年に筋道がついてきて方向性がきまってきた。翌2010年はこれを断続させること
なく、継承することが大切である。ただしよりよいあり方を求めていくときに、一人の力ではどうにもならない、やはり構成員が力をあわせ、心を合わせて助け合ってやっていくことが必要である。そして変えるべき部分は思い切って更新すること。但し変化にともなう色々な犠牲もある。それらに配
慮しつつやっていくこと。

 非常に玉虫色の解釈ですが、どうでしょうか?国家の運営も新体制となり、筋道がつきつつある(と思いたいですね)2009年でした。今年はそれを断絶させること無く・・・・。と解釈します。みなさんの所属されている団体、或いはご家庭に適用されると、どのような指針が得られるでしょうか?

試してみてください。

 

この世に自ら決断して生まれてきた私

教育コーチングを通じて生まれてきた意味を知りつつある超介です。

昨日『見通しが立たない状況下で生き残る法』(宗像恒次著 きこ書房)という本を書店で見つけました。その最後から2ページ目に「人に愛があるとき、命がある」という言葉がありその次のページに詩があります。
     
 人が変わるとき、
      それは自分がいかに恵まれてきた
      存在かに気づけ、
      自分の運命に感謝するときである。
      そして、人が本当に変わるとき、
      この世に自ら決断して
      生まれてきたことに気づき、
      魂の真の意味に気づいたときである。

 私は、この中の
この世に自ら決断して
  生まれてきたことに気づき
  魂の真の意味に気づいたときである

 という後半のフレーズに強く惹かれています。この『とき』を探してきたような気がしているのです。あいまいな先にそれが見え隠れしているのです。

 なぜあいまいか、というと『自ら決断して』生まれてくる、とありまが、決断する私 と生 まれてくる私 は普通同時にはありえないのです。が、私のここまでの人生を振り返ると、そのようにおもえる、という意味なら理解できるからです。

 私には、自分を愛してくれたひとを裏切っているのではないかという気持ちが無意識裡にあって、そのことが『私は幸せになってはいけない』という意識につながり、辛いことを選択してきたのではないか、そのように“もやもや”思うことがあります。

 その“もやもや”もその『とき』がきたら、すっかり晴れ、その裏切りと感じている意味、辛いことの選択の意味が分かり、それらに取り組んいける『自由』が得られるように思うのです。

 だから気になるのです。
 

パンフレットから考えたこと

教育コーチングが集団のコミュ二ケーション構造を変えると考えている超介です。

某社の社長より同業他組織の新設コース立ち上げ説明会の資料(パンフレット類)を入手しました。業界大手の企業のその資料は新設コースの概念からカリキュラム、教材、効果等々がカラーで写真と図をふんだんにいれて説明されています。そのコースについて調べていた私は、お見事!!さすが!!と脱帽であります。

昨日のこと、40代のお母さんと中学生の息子さんについての面談をしました。担当者から、話がなかなか通じないと、報告があったので同席することにしました。実はその方は中国から日本に来ている人でした。中国は高度経済成長の時代を迎えている国ですが、ここは日本です。はじめは考え方の違いが壁になるかな、と思っていましたが、コーチング、ドーカチングの説明をし始めると、そのお母さんは『私はまったくドーカチングです』と素直に感想を述べられました。

 家庭では『たしかに私は上から押しつけてばかりです。でも自由にさせるのは、不安で・・・』と、まったくこちらの想定どおりの反応(といっては失礼かも知れませんが・・・)です。パパママコーチングの実践の場であります。中国と日本の違いも少しお話しました。40分ほどで面談(コーチング)を終えました。お見えになった時より明るく元気になられたお母さんと『一緒にやりましょうね、みんな味方ですよ。』と握手をしました。

 経済的な成長が保証されているかのような豊かな時代が終わり、日本の多くの企業は大変厳しい環境に取り囲まれているようです。そのような時代の中でもきちんといい仕事をしている会社もあって、冒頭の同業者の資料からはその会社がその好例であるように思われたのです。

 そこでは個人も素晴らしいのでしょうが、それ以上にチームの仕事がうまく回っているように感じたのです。チームの中で構成員が安心して、心からその目的にコミットできている状態、これを『ベクトルそろえ』が出来ている、というそうです。そのチームの中ではそこの構成員が自己開示とフィードバックを繰り返しつつ、よりよい人間関係を作り上げていっている、そう想像したのです。

 そして、そのような人間力の下地は家庭でこそ培われると思うのです。パパママコーチングが家庭を変え、地域を変え、社会を変え、日本を変える、そうなるようにより多くの人にお伝えしたいと思っているのです。パパママコーチングを含む、教育コーチングのパワーを!!

人生の学校

教育コーチングは生きる力の強化に役立つと感じている超介です。

 県外への日帰出張の仕事が派生し、高速道路を往復400kmほども走りました。出張先である企業の社長さんと仕事の話をし終えたあと、業界の状況をうかがいました。名刺をちらりと見てすばやく鍵となる箇所を組み立て、質問をします。(初対面コーチング、または ほっしー命名 魚釣りコーチング 6月9日の超介日記参照)
 
建築設計業のその社長は建築物の需要の変化を話しはじめました。一時期はビル設計中心であったがある時から住宅中心になった。設計業に携わる人も、流れに乗っていく人もいたし、そうしない人もいた。変化を見極めて仕事を創っていくことが大切、といって、今は特殊であるが、今後需要が見込める業界の設計に取り組んでいる旨教えていただきました。(内容は秘密です。)名刺にはその特殊な業界の社団法人の会員であることが記載されていたのです。(その情報を読み込んだ上で質問をするのです。)

彼は、高卒後企業に入り、その後、上記のように業界の流れは変わったけれど、それまでの顧客との付き合いを大切にするため、流れに乗らず、独立されたそうです。あくまでも顧客中心に考えられたとのこと。どんどん話して頂く内容を傾聴します。

そのように時代の変化を肌で感じ顧客を大切にし、ニーズを探し、仕事を創造している社長でした。そのような努力をされてきた方はこれからの教育についてお伺いすると、たいがい期待をこめて話していただけるのです。それで『これからの教育、何があればよいか?』と質問しました。

『いくら偏差値の高い大学を出たとしても、仕事が出来るかどうかはそれとは少し違うと思う。身体ですよ、体張って何が出来るかですよ。何を見つけ、仕事にするかは勉強とは違います。実学を学ぶこと、それに一番近い学びはチームワークが必要なスポーツ、かと思います。だから私の息子には・・・』

どんどん語っていただけるのです。

 初対面の人との充実した時間を終えて、帰路の車中で、『たとえば「人生の学校」といえるような学校ではなにがメニューか?』そのような質問を自分に対しておこないます。『スポーツ』『IT』『英語』『お金の知識』『物作り』『野外活動』『問題解決学』色々思いつきます。

それと絶対『コーチング』(対人関係構築力)も。皆さんは何を考えますか?

『新』使命を考える

 教育コーチングがきっかけとなって使命を考えるようになった超介です。

 『目の前に与件として現われている公的な仕事であれ、私的な仕事であれそれを通じて私自身と周囲の人に愛情と信頼と尊重を注ぎ込むこと。仕事をする理由はそこにある。生きる意味もそこにある。』そのように自身のミッションを考える様になりました。

 2年前には『人生のそのとき(今も)の自身への与件に対して、深く学び、創造し、行動し続ける。そのことをつうじて世界に「大切なこと」をつたえる、表現する人であり続けること。』としていました。自分のミッションと人とのかかわりについてはよくわかっていませんでした。

 それが少し変化してきたのは『グラッサー博士の選択理論』を学んだからです。(なんと影響を受けやすい!!)充実感やら生きがい感がどこにあるかをこの書物は教えてくれました。なぜ、コーチングであつかう質問が未来へ向けて素敵な領域でなしたほうがよいのかも考えさせてくれました。感情、生理的反応のコントロールの方法も、心理的な問題の取り扱い態度も教えてくれました。(もちろんまだまだ不十分な学びですが、それでも多くの気づきを得たのです。)まだ、ざーと3回ほど繰り返して読んだだけなのですが、じっくりと読み返し本質を掴み取っていきたいと思っているのです。

 2009年もあと10日余りです。今年の漢字は『新』となった、ということをテレビでちらりと見ました。

 『新』は『立ち木を斧できる』と書く、そのようなことを学んだ記憶があります。『新』の字が今年の漢字であることを知ったとき、『どのような木が立っていて、それをどう斧で切るのだろうか』と想像しました。立っている木、それは枯れているか、生きているか、大木か小さな若木か、それを斧で断ち切るイメージが『新』のイメージなのです。樹液も飛び散るときがある、痛みも伴う、何回も斧を振り下ろし切りつけないと断ち切れないときもあるかもしれません。

 幾本かの立ち木が私の中にあって、いくつかを新しくしようと思います。ミッションは主要な一本。戸惑い、痛みもあるかもしれませんが『新』とは、それらを乗り越えておこなわれる行為らしいのです。

 翌年の新芽のために。

悲鳴の電話

教育コーチングで心の底を見つめている超介です。

最愛の夫を急病で2年前に亡くした女性からの電話でした。
ある小さな事件の被害者が私で加害者が彼女でした。話を聴いているうちに彼女の事情を知りました。
精神的な病、利き手の小指の骨折、生活苦、自殺未遂、親兄弟との付き合いが出来ず、友人もなく
天涯孤独の(と思っている)女性。苦しい心のうちを聴いてくれる人が誰もいない、親族からも
『お前が悪い、としか言ってくれない。攻められるばかり、話を聴いて欲しいだけなのに・・・』
これからも電話をしてもよいかと尋ねられ
『電話で話を聴くことは出来るよ。』
そう伝えると
『ごめんなさい、私が加害者であなたが被害者なのに、助けてもらって。悲しくて、つらくて外へ出る気にもなれない。ベッドから出る元気が無い。服を着替えることが出来ない。・・・・・・・・・・・・・。』

彼女の言葉は悲鳴そのものでした。普段の人との会話でもよく聞いてみれば、怒りや不満のなかに悲鳴が含まれていることがよくあります。

耳を済ませて、どこにこころの叫びがあるのかを探りあて、そこに集中します。

人の言葉の中の悲鳴、そこは、本人も意識できていないかもしれません。

その悲鳴を注意深く、きちんと聴くことができる人でありたいと思います。

『あなたはこう感じているのではないでしょうか』

自分が感じていることをフィードバックします。

私は、鈍感なので、余計に相手の心の痛みがわかる人 でありたいとねがいます。

冬の朝

教育コーチングによって多くの出会いを得ている超介です。

12月の中旬にふさわしい寒い季節になっています。朝のウォーキング時には長袖にウィンドブレーカーをきています。一昨日(16日)は道後平野の奥の四国山脈にうっすらと白いベールがかかっているのに気がつきました。

川原にあった草木もすっかりかれてしまい足もとの草も乾いた音を立てています。日も差ささず、風はありませんが寒いのです。でも30分も歩けば少し身体も温まり元気が出てきます。寝起きは憂鬱でも歩き出せばそのうち元気になります。

人は誰でも、一日の中でうつになったり躁になったりするときがあるのでしょうか?そんなことも師走は多忙さにまぎれて感じなくなってしまいやすいのです。そのもやもやが睡眠中に脳の中で想起され,未消化分が朝残るのです。(きっと)だから朝は気分が悪いのかな?

一昨日の夕方は、ある小学校に用事がありました。低学年担当の若い2人の先生と話をする機会がありました。わざわざ、時間をとっていただきました。ある生徒のことで相談にうかがったのです。立場(学校と塾)の違いはありますが、一人の生徒を通じて考えを話し合うことが出来ました。

ベクトルがそろった状態(この場合は一人の生徒の未来を願う気持ちを共有する)があると人と人とは話が弾みます。もう亡くなってしまった尊敬する師(僕はよい弟子ではなかったですが)はそのことを『意識ぞろえ』『ベクトルそろえ』と何回も強調して教えてくれたのです。

冬の朝のウォーキング途中でそのようなことを思い出しました。