激痛・手術・回復 で学んだこと

胆のう結石、胆嚢炎のため手術を受けました。のたうちまわる痛みをこれほど長時間覚えたことはありませんでした。深夜12時頃から翌日11時頃まで腹痛で約11時間、一睡もできず苦しみました。原因が判明し、痛みが起こってから40時間後に手術を受けました。術後4日後には仕事に戻れました。人差し指の先ほどの石が4つほど出てきました。

この5日間は濃い時間でした。退院できた時、心からすべての人に感謝をしました。人生に対する姿勢が変わりました。お世話になった愛媛県立中央病院(救命センター5階に5日間入院していました)の医師、看護師さんには本当に、本当によくしていただきました。痛みと不自由さで苦しむ患者へのcareの中にプロとしての知識と行動力、人としての明るさ、誠実さを体験、あるいは見聞きし感動しました。

そのような、医療従事者の皆さんと、高度にIT化された施設に支えられて、術後の身体の回復力を食事毎に実感していきました。手術後、最初の食事は翌日の昼食でしたが、二口程度食すると身体が発熱し始め半分程度しか食べられませんでした。が、一食毎に回復し、3食目からはおいしく完食できました。

病院には書籍数冊と音楽やら講演の音声ファイルが入ったデジタルレコーダーを持ち込み、昼間は本で気を紛らわせました。チャンスととらえて、普段読みにくい理論書を持ち込みました。2冊は読めましたが、想定ほどは進みませんでした。消灯後はイヤホンで音楽(モーツアルトと川中美幸と高橋真梨子とフォークソング)と講演(セルフカウンセリングの)を聴いて眠れぬ夜を過ごしました。

ある心理学者の「己を成長させるためではなく、他者を操作するために自らの力を使うすべての人を私は神経症と呼ぶ」という言葉がピーンと響きました。

いつの間にか神経症的になっている自分を振り返らせてくれる言葉、私がどこにいるのかをある方向から教えてくれる言葉だからです。同時に自らの力を他者との関わり合いの中でいかに使うか、その見本を今回の入院中に、医療従事者の方たちの中に見出しえたと思うのです。

その2つのことが、退院後、私の人生に対する見方を変えたのです。(きっと)

屈折する

空中から水中へ
空中からレンズへ
光はその都度スピードを変えるので屈折する。

人も屈折する。
目的を持って生きていても、
大きな壁に突き当たると、進めなくなり
スピードと方向を変える。

そうして、しばらくしてまた壁に突き当たり偏向する。

(永い間進んできて、自分が屈折していることも分からなくなる)

私は空気から水中に入ったのが多分小学校に入学した時
(集団の息苦しさを感じた)
さらにレンズに入ったのが・・・・・・・。

それから何回も見えない壁に突き当たり屈折し続けてきた。

 でもこれまでの体験で学習したので、
今は光(心)が屈折しそうになってもスピードは落ちない
(と思っている)
復元力が強くなったのだ

あなたは心が折れそうになって時どうしていますか?

海と山と港の地方都市で亡くなった義父

義父が亡くなった。 

濃い人であった。

私とは全く違う人であった。

鉄工所のおやじであった。

今春、何回目かの入院をした際、
「思い残すことはない。いつ死んでもよい。」
といった。

20数年前に初めて出会って拒否された。
が、ある日突然、からりと受け入れてもらった。

孫も生まれ、私たちの家族の訪問を
心から喜んでもらえるようになった。

何度も一緒に釣行した。
アジ、サバ、グレ、シイラ、タイ、ホゴ、メバル、ヤズ、イサキ・・・・・・
宇和海でさまざまな魚を釣った。

貝堀りにもいった。

たくさんのお酒を一緒に飲んだ。

痛みを訴えたりはするが、愚痴を言わなかった。

家族だけでお別れをした。

亡くなって、穴があいて、
しみじみとその存在の大きさが伝わってくる。

成長(選択の自由)

よくないと思っていてもつい取ってしまう行動には
そうするだけの、気がついていない「見返り」があります。

なぜあなたはそのような悪いことや
周囲が困惑するような行動をとるのでしょうか?

もし、あなたがその「見返りに」気がつけば
あなたの視界は広がり
ドキドキする生活がはじまります。

やめることができない悪癖にも
その背後に隠れている理由に気がついたとき
選択の自由が顔を出してきます。

だから、あなたには素直に向き合ってもらいたいのです。

私があなたの言葉を聴こうとするのはそのためです。

あなたの話を聴かせてほしいのです。
心の底にある言葉をながめてみましょう。

わたしはそのようにして、自由を感じることができました。

人生の出来事に落ち込んだ時も
勇気を出して、これでよし、と向き合うのです。

そこからじっくりと時間をかけていくと選択の自由が生まれてきて
勇気は確かに必要かもしれませんが、
エイ、とジャンプすれば
より深い、広い考え方を身につけて
未知の世界を体験することもできるのです。

だからあなたの話を聴くのです。
あなたにも自由と可能性を感じてほしいから。

夕空に金星と三日月がありました。

先週の日曜日のことであったと思います。

 三日月、それも本当に細い三日月が、まだ少し青味が残る夕空に浮かび、そのすぐ上(天頂方向)に輝ける金星がありました。黄色く輝く金星と三日月、2つに天体の形と色、すっきりとはれ上がった背景の空、みとれていました。お互いの距離は角度にしてせいぜい月2・3個分くらいだったでしょうか。

 現実の宇宙空間では、暗黒の中で太陽が輝きます。その何万分の一、いや何億分の一以下(もっともっとかな?)の光を遠く離れた地球が吸収し、さらにその光は空気分子にぶつかり、乱反射して大気を青く、白く、時にオレンジ色に輝く空をつくります。同じ太陽から出た光のほんのわずかなものが、やはり暗黒の空間に浮かぶ金星に届き反射しそのまたほんのわずかな光が地球に届きます。空の大気の色、月の光と、金星の光、元は同じ太陽の光、それらがその時の私の目に同時に届き、5月の夕方の西空を彩ります。

 私自身の体もDNAを介して網の目のようにつながる生物の系統に連結されています。身体を構成する原子までさかのぼれば、その大本は地球を構成している原子、さらに百数十億年以上前に暗黒の空間に浮かんでいた物質でありました。ずーとつながっていて、連綿と生物も無生物も光も全部つながっていて今ここにあります。

神社の周りには鬱蒼とした森があった(終わり)

神社の周りの森も、竹やぶも川の流れる音も消え、蝶も甲虫もその姿を減少させ、子供がほとんどいなくなり高齢者が増え、里山が荒れてきた。そして故郷にあった物語性が少なくなったように思ってしまう。多様性が減少した、と感じてしまう。

いろいろな物語があったムラが、明るく衛生的で効率的にはなったが平板な地域になった、かのように感じる。人々が地域を活性化したり、村起こしをしたりする気持ちが伝わる。健康的に生活できる基盤ができた、さらに夢を持って生きることができる地域にしたい、そう考えて・・・

多様性を感じる環境、自然は豊かな気がする。「人はそれぞれ」ということが認められる社会というのは結構大変だと思う。いろいろな人たちがコミュニケーションをとって生き生きと生活できる地域にするためには工夫が必要である。「人はそれぞれ」というのは簡単、それをどうするかである。考え方、感じ方が異なる人たちがチームを作って仕事をするときにどうマネージメントするか、結構大変。

多様性を感じる環境、自然作りにも同じようにマネージメント力が必要だとおもう。

私は多様な自分(これも自然の一部、多様だ!)を次のようにマネージメントしていきたい。

過去の自分に、過去にあった出来事を引き受けさせ
(いまの自分は その教訓のみを受け取る。ありがとう!過去の自分よ)

未来の自分に、これから起こる出来事を引き受けさせ
(いまの自分は 未来の自分ができるってことを信じている、不安を持ったりはしない。 信じているよ、未来の自分。)

そうして、今の自分は、今ここ で感じることをじっくりと味わうのだ。

神社の周りには鬱蒼とした森があった(その2)

里山が荒れている、ように思える。人の手が入っていないようにおもえる。どんどん里の近くにまで木が生え、草はらが穏やかに広がり徐々に山になっていた地域がなくなり、伐採がされないままに伸びた林が民家の近くまで押し寄せているのである。里山にはクヌギやら、栗の木もあって、カブトムシやらクワガタムシ(僕たちはオニムシとよんでいた)が樹液の匂いに集まってくる。地区の子供たちは、どこにそんな樹木があるのかよく知っていて、夏休みには早朝から取りに行くのだ。そのうちの一本の木の近くで網をふってオオムラサキを捕まえたことが一度ある。紫というよりも濃い青色を翅の中にひそませていた。(後でそれがオオムラサキという日本の国蝶であることを図鑑で調べたのだ。)それからは一度も捕まえたこともみたこともない。幻の蝶となった。

神社の土塀の庇にはタテハ蝶の(一種であったと思うが)さなぎがぶら下がっていることがあった。羽化する蝶を見たことがあるし、境内の大木の下で角を生やした蝉の幼虫(冬草夏虫、という漢方薬の材料にも使われるらしきもの、蝉の幼虫に菌類が寄生したものである。)をとったこともある。また、土中の蝉の幼虫をそっとつかみだし、家に持ち帰り、植木の下におく。その夜真っ白に羽化した成体をみたり、朝方、翅に体液が沁み、色づいて飛んでいく油蝉やらニイ二イ蝉の観察を何回も繰り返した。自然の不思議さ は何回見ても私を飽きさせなかった。

里山の近くにはイノシシがよく出てきていたが、たまに猿も出てきていた。タヌキが民家の横を通る水路を出たり入ったりしながら愛嬌のある顔を出していたこともあった。ところが近年はいないらしい、どこに行ったのだろうか?それに代わってこの頃農家の作物を荒らすのは鹿である。夜陰に乗じて野菜、木々の若芽を食べているらしい。鹿用の背の高い防御の電気柵を張り巡らした畑が山のふもとにある。去年には、なんと 私の実家では両親が家屋に入り込んで棲んでいた帰化したと思われる アライグマ を捕まえたのである。何が起こっているのだろうか?田畑だけでなく、山の中も変化しているのであろうか?

整備された圃場は米つくりの仕事を効率化した。数反の田も1日もあれば十分田植えも済む、稲刈りも1日である。水路は整備され、川からモーターで組み上げられた水が勢いよく田植えシーズンにはよどみなくたっぷり流れている。人口の水路と区画整備された整然とした水田、そこに田植え機が入りエンジン音を響かせながら田植えは進む。除草剤、除虫剤を適宜散布して、水を調整していればほとんど計画通りの収穫が得られる。しかし稲作による収益は赤字か、せいぜいトントンではないのだろうか。投資にすごくお金がかかるのである。

1955年頃からの日本における高度経済成長の波は、農家にテレビ、洗濯機、冷蔵庫、掃除機等々電化製品を次々と運び込み、同時に耕運機、コンバイン、軽トラック、田植え機等々エンジンつきのものを運んだ。子どもたちは、都会に行き、成長の波の中で夢を見つけようと思い、成績の良い高校生は偏差値の高い大学を志向した。自己を掘り下げなくとも夢が外側にあるように思った。教師も大学を目指すことを奨励したものが多かったように思う。親も跡を継いでほしい(代々守ってきた家屋、山林、田畑を守ってほしい)けれど、子が将来を帰郷し同居することを期待しつつムラをでて、町に行くことを認めた。多くの人々は疑わなかったし、深くは考えず、流れを信じていた。やがて、経済的に無理をしてでも子供たちに大学までいかせる家庭が増えていった。若者はどんどんムラから離れて進学就職し、過疎化、高齢化が進んだ。

40戸ほどのムラにも小学生が20人ほどはいたように思うが40年後の今は2人(それも都会から移住してきた家族の子供)だけらしい。若者の多くはムラを離れた。ムラは激変した。これから、どうなるのだろうか?

大きな変化はゆっくり進む(その3)  神社の周りには鬱蒼とした森があった

神社の境内からは子供たちのソフトボールをする歓声が聞こえていた。鳥居を超えればホームランであり、そこを一部の運動能力の高い少年達はバットでうち超えた。境内北側には石垣がありその奥は神社を外界から遮るかのように森があった。さらに西側には幅12,3メートルほどの川が流れていて、それほど高低差はないが堰があり、水音が神社の境内まで聞こえてきていた。

境内の南東から東の位置に川は流れていて、その岸には竹林が広がっている。また西側には一段高いところがあり、そこには祠と小さな鳥居、樹齢が百年以上の樹、むくろがあって中にも何かが祭ってあるような大木やら、銀杏の木、大人の背丈の数倍もある巨岩等々があった。神社はたくさんの自然に取り囲まれていたのだ。

鳥居から神社に入れば、そこは日常とは異なる空間であったのである。それが40年後のいまではすっかり取り払われ、境内の樹木こそ残っているが、森はゲートボール用のグラウンドになり、竹林は切り倒され、川は圃場整備に伴って流れを変えられ、その水音は境内には聞こえてこない。開けた空間になり、何かがそこに住まわっているような物語は生まれなくなった。

神社の変化も大きいが、それは衛生的で明るくなったともいえる。それよりも大きな変化は、そしてこっちのほうが重大ではないかと感じるのは虫たちがその種類も、量も劇的に減っていることである。

5月の連休に丹波の里に帰った時、とくに気がついたのはそのことであった。まるでレイチェルカーソンの「沈黙の春」ではないか、そう感じてしまった。虫取り網とかごをもって菜種畑に行ってみればモンシロチョウやらモンキチョウやらが複数匹がまとわりながら飛んでいたり、花を見れば蜂やらあるいは小さないくつかの種類の甲虫たちが身を潜めていたように思う。時には小さなカミキリムシもいた。が今は視界に入るのはやっと2匹くらいの頼りないモンシロチョウだけであり、花に虫はいない。

虫がいないのは、嫌いな人にはいいかもしれないが、でも虫がいないと多くの果実は実らない。

大きな変化はゆっくりと進む(その2)

人の成長はゆっくりと進むのに、僕たちは待てずに木を割って覗き込み、あれこれといじくりまわし、阻害することも多いようにおもう。

7、8歳から15歳くらいまでの子供たちの学習指導では、つい自分目線でその子の成長を見てしまい「こうすればもっと効果がある」などと思ってしまい、余計な助言、支援をしてしまっている人は多い。

子供の成長を待てないのである。まっすぐに、効率的に学ぶことが栄養になるとは限らないのに。じれったくてついつい先走って子供をつつきまわす人が多い。木を割って芽を摘むのである。

その子は敏感に反応する子供であった。他人の言葉を気にしてしまい、我を見失い言葉に振り回されてしまうのだ。コントロールされやすいのである。学習は少し遅れているが、それは自分の頭で考える習慣が見つかっていないからのように見える。

この1年でそれが少しずつ変化しているのがわかる。本質的な、大きな変化はゆっくり進むのでわかりにくいが、焦って余計な手を入れると成長が歪むので注意が必要だとおもってきた。学ぶことの実感をつかめればもっと深く理解でき、しっかりと進めるはずである。

人は本来「成長したい存在である」ことを信じて向かい合うことは本当に大切である。それは相手をどんどん理解することにつながっていく。

ものがたり

固有時、という時間があるらしい。現代物理学では時間はそれ自体が独立してあるのではなく、物質の変化に従属しているというような意味らしい。確かに変化のまったくない宇宙のどこかでは時間はない。

お金も、貴金属も、土地も、そのようなものが人々の心を引き付けるのは、それらがなにか「ものがたり」を生み出しそうな気がするからだ。物事が変わっていくことを話していくことが物語である。良い物語は、その移り変わり、順序が心に訴えかける

ものがたりの中で僕たちは時間の流れを感じる。今どこにいるのか、どこから来たのかなど生きていることの意味を知る。20世紀から21世紀にかけての数十年、世界は劇的に変化していて、そこで生きている僕たちは本当にたくさんの ものがたり を味わっているのだと思う。

僕自身のこれまででも、生まれてから今まで、たくさんのことがあった。それらはズシリ、ズシリと心の中を去来する。際限なくさまざまな映像が流れだしてくる。ものがたりがいっぱい出てくる。僕たちの固有時は太く激しく波打っている。

人とコミュニケーションをとっていくことは ものがたり を共有することでもある。あなたのこれまでの ものがたり をぜひ聞かせてほしい。じっくりときかせてほしい。そんなコーチングはとても楽しい。