感謝の心

 感謝の心を味わう超介です。

 これまでに楽しかったこと、うれしかったことを書きだすセルフワークをやっていました。最初は『そんなにうれしかったこと、あったかなぁ』と、感じながら始めました。『そうだな、真鯛を釣り上げた時があった、あれは感動した』『資格試験に合格した、あれも苦労したので、合格の賞状が届いたときはうれしかったな』と書き始めました。

 それから、いまは亡き祖父と松茸取りに行ったことを思い出します。小学生の低学年の思い出ですが、その時の土のにおい、中腹からの松林になっていて、腰を曲げて地面をあちこちながめながら、落ち葉が盛り上がっているところ、松の木の根もとをさがしたこと。そっと土からはがす時の感触を思い出します。

 いつの間にか用意した12枚のカードは全部埋まり、当時の見たこと、におい、味わい、考えたこと、感じたことがよみがえります。そして私が特に父と母、そして祖父から本当に愛されていたことに気が付きます。当時は感じていなかったけれど、いまはそれがはっきり自覚できるのです。

 大変おとなしい子供であった私、特に母からは本当に大切にしてもらっていたことが分かります。その時は意味がわかりませんでしたが、いまはすべてわかり、大変幸せであることを感じます。

 小学3年生の時、学芸会で歌の発表を父兄の前でしたこと、私に自信を持たせるために母が担任と相談して決めたことのようでした。虫やら植物に興味があったので、大人の自然愛好会に話をつけて参加させてくれたこと、運動会で体調がすぐれないのに一緒に走ってくれたこと、プラモデルを一緒につくってくれたこと、シダ植物の採集を手伝ってくれたこと、誕生会を開いてくれたこと、乳牛の世話を一緒にしたこと、・・・・・・・数え切れないほどの出来事がよみがえります。それらのたくさんの事柄の、その時々の母の気持ちがわかります。母自身は無心でやってくれたに違いなのですが、それらの行為の奥にあるものが想像できるのです。

 感謝をしています。
母さん、父さんありがとう。
長生きしてくれよ。

 そのようにしみじみと思いました。

ある日の夢から

 夢の意味を考えている超介です。

2週間前になりますが、久しぶりに夢を覚えていました。

 自宅にあるせまい庭の片隅に椿があります。その周囲にダリア(球根)を植えると妻がいいました。
そこで庭を見ると、彼女が椿の周囲にぐるりと穴を掘っています。妻は姿を見せません。土が周辺にかたまっているので、私は自分の足でそれをどけようとしますが、なぜか土が重くて動きにくいのです。

 それから場面が変わって、携帯電話をみていますが、それがどうも自分のものではないような気がします。シルバーの比較的丸い形態のものです。変だなと思っていると、また別のものが出てきます。ますますわかりにくくなってきます。

 さらに場面が変わりました。公共施設のようなところで友人に出会いました。この友人は細かいところに気がつく人です。彼にある人を紹介してもらいました。その人はどうやらその施設の長のようなのです。私は尊敬できる年長の人と話がしたいと思っていたようです。

 ベンチに座って紹介してもらって話をします。傾聴を意識していて、楽しく会話ができています。途中でお昼であることに気がついて、友人はお弁当を2個持ってきました。私の分はありませんので、荷物はそこに置いて、買いに行きました。

 ところがお店に行くと、お弁当はもう売り切れていてありません。それで、さらに歩き次のお店で食事をすることにしました。食べ終わって時間がたっていることに気が付き、自分の荷物を置いていることに気がついて、どうしよう、と焦っている時に目が覚めました。

 今回の夢は意味がピンとこない部分が多かったのです。一つだけわかること、それは私はメンタ―のような人を探していて、その候補者が夢に現れたようです。それ以外の部分は何を意味しているのか不明?想像できることがあればだれか教えてください。

(追記:ブログに書く私自身の内容はほぼ事実です。人のことを書くときは表現したいことの本質は変えていません、が年齢、性別、場所、時、ストーリは脚色しています。)

出会いから(3)

 子供たちからたくさん学んでいる超介です。

 かつて出会った会話の少ない小学生の話です。お母さんと面談した時にも、そのことが話題に出ました。国語は苦手でした。言葉を出さないので、さもありなん。話はしませんが、動作はてきぱきしていました。口はほとんど動きませんが、目は動きます。目で会話するのです。私が話しかけると、彼は表情で答えるのです。もちろん笑いもします。

 私は、『もう少し話そうよ。』と言ったりはしますが、でも彼とのコミュニケーションはきちんと取れているように感じていたのです。意味のない会話をするより、よほど本質的なやり取りができます。「言語による会話の情報交換は全体の17%」でしたか、それぐらい、というのがよくわかります。彼とのコミュニケーションがそれを証明してくれました。ストレスはありませんでした。それよりじっくり感じることができるので楽しいくらいでした。

 日常の会話を振り返る時、意味の含有量の少ない言葉を発する時があります。建前だけから出てくる言葉であったり、思いつきであったり、その場しのぎであったり。それが、有効な場面もあるかもしれませんが、混乱したり疲れたりすることのほうが多いのです。意味のない言葉が多く飛び交うより、沈黙のほうが価値あり(と思います)。

 彼とのコミュニケーションに戻ります。もちろん、話をしないので彼自身の自己主張は弱いのです。でもそれは彼がなにも考えがないことを意味するわけではありません。何かをもっている人、のように感じていました。言葉は少ないですが、強い個性の持ち主だったのです。

目、表情でコミュニケ―ションを続けながら、彼が気持ちを開いたり、考えを深めたりする様子を見ていました。今は、話をしているようになっているかもしれません。

出会いから(2)

 少しずつ自己理解が進行している(つもり)の超介です。

 自分の気持ちにじっくり付き合い始めて、少しずつ心の動きが理解でき始めました。自分の気持ちを時々点検すると、心が1日の中でどんどん変わり続けることがわかりました。これまでは、そのことに意識を向けていませんでした。時には、ウツウツとした状態にはまり込んで、抜け出せないような時もあります。(これは大変苦しい、言葉では表現できにくいのですが。)

 これまで無視していた心の動きに気をつけ出すと、大変苦しいと感じることが出きてきたような。今まで踏みにじってきた気持ちが現出してきたような・・・。これはつらいけれども、でも正しいことのような・・・・・。

 未知な仕事等(と感じている)ことがあると不安が高まります。不安がどんどん拡大することがあります。鼓動が高まりその仕事の前日は眠れないこともあります。でも「できないことはできない、できることはできる」と冷静に割り切ることができれば解決できます。少し高い立場で見ることができればよいのです。

「心は脳が取り扱う情報空間である」という解釈があります。脳という臓器の中で起こっている現象であると心をとらえることができれば、たぶんもっともっと楽(自由)になると・・・。

 物事の意味に注目していくと、そのことに対する対処の仕方が見えてきます。少し高い立場で見つめること(抽象化能力だと思いますが)、それが高まると対処の仕方が見えてくるのです。

 機会があればその仕事の意味、出来事の意味を考えます。全体あるいは大きな流れとの関係に気がつきます(部分と全体の構造に気がつき、わかったという感じになる、これをゲシュタルトというそうです)。

 おそらく仕事ができる人は、きっとそのように把握できているので、ポイントをつかんで効率的に対処できるのです(あぁうらやましい! あぁうらやましい!)。 そのように物事を抽象化して捉えるようになりたい!

 それだからこそ、目標を立てる、ゴールをイメージすること、青写真を描くことが物事を進めていく上で重要なのだと。目標、ゴール、青写真、どれも抽象化の行きつく先なのですから。

 いつも仕事をやらされている(やらされる仕事は、仕事ではなくて作業なのですが・・・)あるいは人生に流されてしまっていると、その意味が把握しにくくなります。(反省、反省、反省・・・)

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 人間関係にゴールはないかもしれませんが、人と出会い、その意味を味わう(抽象化)のは、良い関係つくりのために、上手な関係つくりのために、だから、必要だと思っているのです。

出会いから

人と出会うたびにその人のこと、自分のことを想像するようになった超介です。

10歳年上の人生の先輩。話好きである。話を聞いてほしいのに、言いたいことをどんどんいう。途中で彼の話を遮って、そのことを伝えても、わかってもらえない。最初は聞くことができたが、繰り返されると聴くに堪えなくなった。私は、自分を薄情な奴だと思った。(たまに会わないと、会いたいと思う相手であるのに。)

 ある年長者と話をしていて考えが違うな、と気がつく。ふと自分の手を見ると怒りで震えている、お腹の奥でどきんどきんと波打つものがある。相手の一言がわたしの何かに触れた。相手により、心的態度(無意識理の)が変化している?生身、無意識理の自分の許容範囲に気づく。

 電話で2回相談をした女性と出会うことにした。
「主人が存命中にいろいろと物見遊山をさせてもらいました。その分苦労もしないといけいない、ということでしようかね。娘も仕事が忙しいので、それで私が孫の(中2男子)相手をしているのです。」 「私は弱いので、孫も遠慮なくものを言ってきます。ある日はお祖父さん(亡き夫)の仏壇をいたずらしようとするので、悲しくなって泣きました。」70歳前後の女性である。
話をお聴きしただけであるが。私のほんの一言をも、メモを取られ、「心がすっきりしました。ありがとうございました。」とおっしゃってかえられた。私は、彼女のこれまでの生涯を想像した。

 頭の回転は速いのに、粗暴なところがある生徒がいる。担当から相談を受けたのでその生徒と話をしたり、指導したりした。別れて暮らしている父親と母親にも別々に来てもらい話を聞いた。充分時間を取ってもらえず、途中で用事があるからといって出て行かれたお母さん。「厳しく対してください」と注文をつけて帰られたお父さん。その子供と両親のふるまい、表情を思い出しながら、楽しくない人間関係を想像してしまった。もう一度会うべきかどうか迷っている。

こころのかたち(開いている)から

『心が解放される方法の感覚をつかんだ』(と思っている)超介です。

私の心の構造は、オ・プンマインド、というのでもなく『開いている』漏斗(ジョウゴ)のように上のほうが開いていて後ろのほうが細くなっていて通りが悪くなっている。おまえは『開いている』と、今から37年ほど前にある人から指摘されました。その時は何となくそうか、と感じていました。

なんでも受け取ってしまうが、容量が小さいので、消化不良を起こして苦しむかのようでした。受け入れてしまう、そして後で苦労するのです。外に向かって開き、内側では閉じてしまっているかのような。

無意識理には様々なイメージが乱舞していて、時に外部からある刺激を受けるとつらいイメージが立ちあがってきて、心を暗くする。そこに埋没してしまうとウツ的になりやすい。そのことへの対処法がやっとつかめてきました。(たぶん、多くの人はできているのでしょうが)、『流す』ことがその解決方法であると。

『その時にその状態であることが認知できれば』越えられることに気がつきました。そのように時間をすごし、すっきりできることを頭の隅に置けばよいのです。

身の回りに起こる様々な事象についても、(変化することは不安を呼ぶので)マイナスイメージが起こりやすいのですが、それでも、さまざまな気分を『流す』ことにより、『その意味を考えることができるようになった』ので、楽になったように思います。『意味を考えることができる』ので『完了』させやすくなったのです。

 以上は「心がフッと軽くなる瞬間の心理学」(名越康文)から学んだことです。自由になる方法の一つであると思いました。

本との出会い

 出会いに意味を見出している超介です。
 ここ数年間、たくさんの「出会い」がありました。それぞれに意味があり、複数の出会いを見つめるとさらに「流れ」を感じます。中には、私が探し求めていた、その答えがあると思えるものもあるのです。意味の無いことは起こらない、というまさにそのまま・・・・。物語があります。

 本との出会いも流れを感じ、答えを見つけることがあります。最近出会った本の一部を紹介したいと思います。 

   河合準雄  「ユング心理学入門」(培風館)
 古本屋で見かけたので思わず購入してしまいました。私にとっては、少し難しい内容でしたが ユングの心理学 の実践例がふんだんにある解説書、読み応えがありました。筆者自身が体験してきたことを中心にユングの心理学が解説がしてあるのです。外向と内向、感覚と思考等のタイプ、無意識と意識、自我と自己、元型そして夢についてその意味するところがある程度理解できました。

   諸富祥彦  「初めてのカウンセリング入門 上下」(誠信書房) 
 ジュンク堂(松山では最も豊富な種類の本がある、書店です。)で見つけました。同じ著者の新書を何冊か読んでいて、わかりやすかったので購入して読みました。さまざまな心理学の流派についての解説とカウンセリングの入門の解説書で、総論的でした。1通りしか読んでいませんが、もう何回か読んでみようと思得る本です。

  名越康文  「心がフッと軽くなる「瞬間の心理学」」(角川SCC新書)
 日曜日、書店の棚売りスペースに数冊立てて置いてありました。立ち読みをし、思わずその内容に引きつけられて購入。直後の1時間ほどで読んでしまいました。対話型式の読みやすい本です。心の取扱いについて身近に感じられました。この頃の私の気分をうまく説明してくれる本でした。

   鈴木博   「自分が源泉」(創元社)
 ついに、読みました。というのは、発売直後に立ち読みして内容の濃さに気をひかれ、いつかは読みたいと思っていました。今月、ある人の講演にて著者の名前が出てきて、読書欲を刺激されたのです。書かれていることのうち、いくつかのささやかな実践をし始めました。

  吉田典生   「なぜ「できる人」は「できる人」を育てられないのか」(日本実業出版社)
 この本も以前から書店でよく見かけていましたが、表題が気にいらなかったので遠慮していまし。古書店で手にとって読んでいると、引き込まれ購入してしまいました。他人のありのままを受け入れること、それが「できる人」は往々にしてできていないことに気がつかない、といったことが具体的に書かれています。人を受け入れることの感覚をきちんとつかむことの大切さ、改めて確認できました。

 最近の読書傾向です。心理学の理論と実践、そのようなテーマでまとまりそうです。人と向かい合う時に、私自身がどのような人であり得るのか、それが試されることが多いのです。社外の人との交渉の場でも、そして子供たち、保護者の方との向かい合いでも試されます。(そう思うのです。)

 このような試み(読書をして学んだことを取り入れて生きていく)を繰り返して、習慣にしていきたいと思います。ああでもない、こうでもないと試行錯誤しつつ、つかみ取るのです。

夢から・不安・祈り

夢からコンプレックスを感じている超介です。

 夢をみました。

 周囲は見覚えのない顔の人ばかり(私より若い、後輩の大学生)のいる大学内を歩いています。私は大学を卒業できない不安に捉われていました。

 大講義室で語学の授業があるのですが、ほとんど欠席していて最後のコマのほうで授業に出ているのです。思い出すと他の実験等の授業にも出ていないことに気がついて、途方に暮れています。

 なぜか夫婦で大学の寮らしき建物に引っ越してきて、私はベランダでたくさんの本を積み上げています。でもそこは、居住スペースに付随しているのではなくて、別のところに部屋があり他の荷物をそこに置かねばなりません。部屋へ行ってみると、うなぎの寝床のような奥までながい部屋です。家具は見当たりません。薄い青のカーペットが敷いてあります。こんなところに、と茫然としていると、管理人のような女性が、新入居者らしい人と入ってきます。

 どうやら私は部屋を間違えたようです。でも鍵を合わせると、きちんと合うのです。なぜ?と立ちすくんでいます。ここで目が覚めました。

 不安(コンプレックス)なことがあってそれが大学を卒業できないことに投影されているのだろうと。これまでも数回同じように卒業できない夢を見たのです。後半のベランダでの書物の積み上げ、部屋の間違いは初めて見る夢でした。(これは単純に本が多くなり、家人に責められていることからの反映?わかりやすい!)

 私には不安があって、それが何かを邪魔している?! それがこの夢の意味かな?

 「ゲシュタルトの祈り」という詩を思い出しました。

        ゲシュタルトの祈り

    私は私のために生きる。あなたはあなたのために生きる。
    私は何もあなたの期待に応えるために、この世に生きているわけじゃない。
    そして、あなたも私の期待に応えるために、この世にいるわけじゃない。
    私は私。あなたはあなた。
    でも、偶然が私たちを出会わせるなら、それは素敵なことだ。
    たとえ出会えなくても、それもまた同じように素晴らしいことだ。
                                           フレデリック・パールズ

 「祈り」とパールズがいうように、「私はわたしのために生きる」こと、「あなたがあなたのために生きる」こと、それは生まれつきそうあることが自然とできるのではなくて、「祈って」までも、注力して手に入れることなのでしょう。確かに私たちは、よくよく振り返ってみれば誰かに何かを依存して生きてしまっていて、そのゆえに悩みやら、不安を抱え込んでしまうような、そういう気がします。

 何かを気にして引っ張られている状態が不安を抱いている状態で、それが多くの時だけれども、私は私のために生きる、あなたはあなたのために生きる、それでよいと、ありのままに受け入れることができていれば私の感じているコンプレックス、不安のようなものはきっと・・・・・・。毎日のことをきちんと、区切りをつけて完了させていけば、不安からは自由になれる、そうありたい。

 この詩のように祈ります。

インナーチャイルド

 南の国のホ・オポノポノから学んだこと(超介)

心のどこかに住んでいて
時々顔を出してくる存在
あなたの存在に気がついた日を覚えています

それは遠くではない日のこと
朝ベッドから起きることができなくて
不安と迷いに捉われている時でした
あなたの存在に気がついたのは

今までも確かにいたのだけれど
私があまりにもあなたを無視して
世界に反応してしまっていたので
気がつきませんでした

ごめんなさい
許してください

声に出してそうつぶやいたとき
あなたがいることに気がついたのです

ありがとう
あなたを愛しています

そうつぶやいたとき
私の胸の中に熱いものが流れました

遠い昔の友達に出会った時のようなこころもち
それはひょっとしたら
あなたとの別れが
物心つく前であったからかもしれません

再会できてよかった
いいえ、あなたはいつもそこにいて
ずーと我慢して待ってくれたに違いないけれど

 不安と迷いの雲が晴れ
心は軽くなっていました

熟達する

4キロメートルを32分30秒でウォ―キング+ジョギングするようになった超介です。徐々にジョギングする距離が延びてきてタイムが短縮されてきました。でも、がんばりすぎるともたなくなるのでしばらく32分台前後で11月末まではやろうと思っています。12月頃からは30分未満を目標にしようと。

これは私の生家の周辺です。この山のふもとの小さな集落で生まれて18歳までここで過ごしました。おだやかな丹波山地のなかの小さな谷間の中の集落です。

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ここが遊び場であった近所の神社、蝉の幼虫をとって羽化を観察することが楽しみでした。脱皮すること、変わること。

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知人にレコ―ディングダイエットをやって、見るからに細くなった人がいます。記録すること、自分のやったことを見直すだけでずいぶん人は変われるものですね。

一日のうちに振りかえりの時間をもち、心の見直しをすることの意義を知りました。入浴中にその時間を取ったりする人、就寝前にブランデーをちびちび舐めつつ行う人、朝の散歩を使う人。

私は、意義はわかっていますが、なかなかうまく見直せません。(ということを振り返っています。)その時々で外界と反応してしまっていて、本当に何がしたいのかじっくり考えることをせずにさまざまに歩いてきたような・・・。

そのように反応して生きてきて取得したものがたくさんあります。体験財産はたくさんあります。それでこれからはもう少しゆっくりと熟達していく部分をも、もちたいと感じ始めました。

運動も、勉強も、仕事も、人間関係も少しずつ努力を継続していって力を蓄えていこうと、秋の夜長に欲深く考えています。