「愛する」について (その9 念ずれば花ひらく)

 超介です。

 「念ずれば花ひらく」という石碑はご存知ですか。たとえばこのような。
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 「念ずれば花ひらく」の石碑は全世界に730基あるそうです。皆さんもどこかでご覧になっているかもしれません。 作者である詩人 坂村真民 さんは 熊本で生まれ、その後、愛媛県の高校教員、58歳からは松山市の南 砥部町(砥部焼きという磁器で知られています)にタンポポ堂なる居を構えられ、詩作に専念されていました。2005年97歳で他界されました。

 (砥部焼きの町には歩道の敷石やら、壁画、道路標識などいろいろな箇所に磁器が使われているのです)
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 この詩人の記念館が2012年3月11日砥部町にオープンしました。

 記念館の展示室入り口近く、一番初めに目にする詩です。

  わたしの詩  わたしの詩は/生きるために苦しみ/生きるために泣き/生きるためにさげすまれ/はずかしめられても/なお生きようとする/そういう人たちに/ささげる/わたしの願の/かたまりであり/湧き水である  真民

 愛を歌う詩人です。

 一年前のちょうど今日、平成を語るときに抜きにしえない東北の震災がありました。わたしはこの日、真新しい記念館で真民さんの詩を読み、生きる勇気を汲み取り、被災地の人たちの命に思いをこめ、復興を祈りました。

「愛する」について (その8 心の国境を愛の歌で超える)

 超介です。

 日露戦争当時、松山ではロシア人捕虜を数千人迎え入れました。家族をロシアとの戦争でなくした人もいる中で、敵国の捕虜をどのように迎え入れるかについて多くの対立がありました。

 しかし、捕虜と松山人との交流は2国間の戦いの最中にもかかわらず行われました。根底には四国人のお遍路さんに対する「おもてなし」のこころがあったといわれています。

 道後温泉でくつろぐロシア人将校、松山中心部の商店街「大街道」を散歩する将校、地元住民との自転車競走等の写真が残っています。

 そして、平成の今も生涯をこの地で終えた人の墓地、「ロシア人墓地」の清掃が、市民やら中学生により行われています。

 松山城二の丸にあった泉のあとからは約100年間眠っていた金貨が発見されました。その金貨にはロシア人男性と、日本人女性の名前が彫り込まれていました。

 このことから「誓いのコイン」というミュージカルが生まれました。目に傷を負った青年将校二コライは、日本人を憎んでいますが、篤志(ボランティア)看護婦であり、ロシア語が話せるサチの献身的な介護により心を少しずつ開いていきます。
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(このパンフと一緒に写っているのは伊予柑、今旬です。ジューシーで香りよくおいしいです)

 そして、2国をつなぐ架け橋になろうと、将来を誓い合う2人でしたが、それぞれの事情で許されず、必ず迎えに来るといって二コライは母国に帰ります。が、数ヵ月後に二コライの訃報がサチの元にとどきます。サチは二コライから預かっていた金貨のペンダントに思いをこめ泉に投げ入れます。

 日本人であること、ロシア人であることを超えて、人としてのつながりを追い求めることが大切であると気がつき、2人はそのことを追及していきます。厳しい現実あろうと、その人の心の真ん中にある思いを確かめ、夢を、目標をもって生きていくことの強さを示してくれるミュージカルでした。

 次の歌が繰り返されます。

    この星が出来たとき/国境はなかった/国境が出来たとき/争いがうまれた/
   国と国をへだてる国境は/消せないけれど/人と人をへだてる国境を/
越えていこう/
 心の国境を越えたい/力ではなく愛の歌で/心の国境を越えたい/ 
灯火かかげ自分の足で

「わたし」考2

超介です。
 
 日本文理大(大分県) チアリーディング部 BRAVES は昨年、チアリーディングのすべての国内大会を制し、さらに世界大会でも優勝しました。連続して12年、13年と優勝を続けている大会もあるそうです。

 2月下旬、愛媛のある会に招待された彼らが、その技を披露してくれました。彼らの技が繰り出される毎に館内を埋め尽くした3000人ほどの聴衆は息をのみ、盛大な拍手をしました。

 人が2段、3段と、音楽に合わせて、組みあがって、それからさらにトップの人から自然落下するように崩れ、解体します。それが、さまざまな形で繰り返されるのです。そのなかに彼らの仲間意識が見えるのです。それはたとえば、それぞれの演技の間の動きにも表れます。

 演技の間には、息を整える時間が数秒あり、その時間にも彼らは、身体でリズムを取り合い共振しています。「さあ、いこう」「まかせろ」とでも言うかのように目を見て、うなずき合い、身体が共振しているのです。

 演技の合間に観客たちにほんの数十秒程度ずつ語りかける言葉は、「ありがとう、来てくれて。見てください、わたしたちの動きを・・・」などと、直接的で、単純です。でも何よりも真摯、誠実さがこめられていることがわかるのです。

 彼らの技は高難度ですごいのですが、でも真骨頂は技ではなく、技を演技する、その過程の姿勢から、その名前にふさわしく、人々に勇気、元気を与え、絆を感じさせる点なのです。

 一人の「わたし」がチームの全員とつながっていて、大きな「わたし」を感じることができます。その大きな「わたし」が、観客自身のなかにもある勇気と、元気を掘り起こしてくれ、絆を感じさせてくれ、観客も活性化していくのです。

「わたし」考

 超介です。

 激しい感情であれば、はっきり自覚が出来ますが、気分にどっぷりつかっているときにはそれが自覚できにくいことに気づきました。体全体で気分を感じ、その横に「わたし」の身をおけばそれが自覚できます。そのようにしてしばらく時間をすごします。ああこれが気分で、感情につながっていくんだ、というように。

 海から上がって砂浜に腰を下ろし、そして海を見ているようです。海の中にいるうちは見えない怒りのつまったビニール袋や、不満だらけの釘が刺さった板、寂しさでぼろぼろになって沈んでいる空き缶などが体にあたり居心地が悪かったのです。

 ところが、少し意識してみれば「わたし」は、いつの間にか砂の上にすわり、それらの面白くない感情の海を客観的に見ることができているのです。このことに気がついたときに「わたし」はある小説を読んでいました。

 文学賞受賞作品の「道化師の蝶」という小説は年中飛行機に乗っていて、着想を捉える小さな銀色の捕虫網を振り回わす人物(けったいな人物ですが、面白いですねえ)がまず登場し、「わたし」が彼の仕事を聴くことから始まります。次の章では、実は前章は「猫の下で読むに限る」(なんという表題、猫の下・・は、桜の木の下・・・からのパロデイのような・・・)という死に絶えた言語で書かれた小説の翻訳であると「わたし」は述べるのです。

 さらに次の章では、「わたし」は「猫の下で読むに限る」という小説を書いたらしい「友幸友幸」(どう読むのでしょうか?)なる人物らしいのです。このように、次々と「わたし」がたくさん出てきて、最初は異なる「わたし」なのですが、次第に混沌としてきます。いろいろな「わたし」がいるのが自然であるとおもえてきます。大きな「わたし」がいて七変化しているみたいな・・・・。時々吹き出しました。わかりにくいですが、おもしろい。

 このへんてこりんな小説を読み終えた翌日、幼少期の体験から「わたし」を再発見しようと、出家したいと考えていた人に出会いました。その人の部下が(小年少女を救済する仕事をしています)「(非行少年・少女の救済は)熱意だけで何とかなると考えていたけれど、それだけではなんともならない。」ということに気がついた、とはなし、上司は「支援する環境さえあれば彼らは自然に変わる、それを具体的に作るには・・・」というようなことを話しはじめました。さらにその上司は「わたし」とは何かを考えざるをえなかった自分の幼年期の体験を語てくれました。(つづく)

腰痛、いたた!

超介です。

 腰は英語でbackというらしいですね。英語の発音を学ぶ必要があって音読をしています。1時間ほどトレーニングをすると、(日本語と違う脳の部分を動かしているからでしょうか)運動した後の爽快感に近いものが残ります。英語そのままを体に入れるように、意味はその後ついでに、程度の感覚で音読を繰り返すのです。

 「英語をそのまま理解できるレベル」まではいかなくとも、唇、歯、舌、そして口の形を操作して発語していると、頭も心も、どこかが変わっていくように感じます。ネイティブスピーカーにリードしてもらいながら読んでいます。音読は身体トレーニングです。 

 腰痛がありました。今冬から急に痛み出した腰痛。特に車の運転をした後やら、帰宅後(深夜ですが)痛むことがあります。痛くて歩行が困難になり、うずくまることが年明けから続きました。続きました、と過去形、今はだいぶ良くなりました。

 腰の痛みは腰骨と背骨の付け根あたりの痛覚なので、内部からの感じですが、英語ではbackというようです。それでは背中は、どういうのでしょうか。体芯が痛いのでbackが痛いじゃないだろうと。

 身体メッセージがあるとすれば、腰痛の、世界が私に伝えんとするメッセージは?体の内部から何を伝えようとしているのか?

 大昔の人たちは、自分と世界を隔てる言葉をも身に付けていなかったので、世界と共生していたと思います。世界の一部が自分であるので、連動して動いていた、たとえば敵か仲間かそれとも獲物か、瞬時に見極め、身を潜めたり、親愛の動作をとったり、武器を構え、攻撃の姿勢に移ったりしていた、瞬時に悩まずに。身体が反応する、そんな能力の塊であったと思うのです。

無意識に体が反応している、でもそれは何らかの世界からのメッセージを受けてにちがいないと。IT化が進んで、問診もタブレットPCを用いたり、院内ネットワークで、カルテやら検査、レントゲン写真やらを瞬時に取り込んでサーバー内の患者毎のファイルに整理された病院の脊椎センターの医師は私に向かって「関節に異常はありません。心配されるようなことはありません。まあ、年齢からくる要素もあって・・・・」と語ってくれました。

世界からの私宛の腰痛を通じてのメッセージは「お前はもうとしだよ!」という、ごくごく当たり前の内容だったみたいで・・・・うう・・・・。音読以外にも身体トレーニングしなくっちゃ、と反省した次第です。

厳寒、春よ こい!

 超介です。

 厳寒中、ピラカンサの実が、映えています。枝と葉ばかりのもありますが、多くの庭木やら街路樹のそれには赤い粒が房状に鈴生り、花が少ない今、人目を引いています。実がない、枝と葉ばかりのものは鳥がついばんだあと、それはピラカンサの本来の戦略目的を達成した成果です。

 秋から冬にかけての長期間、こぼれんばかりの赤い実をつけているのは、人様の視覚に訴えるのが狙いではなく、飢えた鳥達の食事となり、その体内にはいり、運搬され、しかるべくところで播種してもらって子孫を増やすのが狙い。

 松山の椿祭りは1月30日〜2月1日の3日間でした。椿さんの時期がいちばん寒い、ということは、この後、春きたる、となるのです。春よ、来い! はーるよ こい!最終日の23時(この時刻で屋台は撤去)少し前、参拝にいきました。車両規制され、両脇にぎっしりと屋台が出ている参道、さまざま店のネタをひやかし見ながら、数百メートル歩いて社に到着。奉納ちょうちんでいっぱいの門をくぐり石段を二、三十段あがって拝殿に向かい、小銭を投げ入れ、鈴の綱をふり、手を合わせ、心を集中します。 
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 商売繁盛の神様ですが、この身すべてよろしくと、心をこめて全部お願いしてきました。それから、左手に向かい本殿を取り巻く回廊を通って右手から出ます。、その間、縦横1メートルくらいの大きさの12枚の絵馬やら、おみくじを引いてそれを引っ掛けるところ、それからこの神社にちなんだ「○○つばき」なるお飾り(?)—–これは1年もの、1年経てば又神社に戻します。愛嬌があって評判—–などたくさんあってこれらを見ておわれば、椿神社参拝の主たる行動はおしまいです。
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神様に(あてにはならないことがわかっていて)何万人もの人々が手を合わせていくのは(私は痛い身体を引きづって・・・・・右腰の関節が炎症、左足はかかとの皮膚をいため、歩行が億劫な状態・・・・)心の底の方では、祈ることに何かの意味を見ているからだと思います。

私の場合は、神様はすべてお見通しであるとし、考えずに心を集中させ、すべてお願いします。それで良し、具体的なことをごちゃごちゃいうのもせこい気がするので。神社に行ってお賽銭を払い、大きな鳥の背に乗せてもらい、どうぞ連れてってくださいとお願いします。赤い実のピラカンサみたいに・・・。

「愛する」について(その7 世界を愛する)

超介です。

 サバイバー(survive(切り抜けて生き残る)→surviver(生き残った者))という言葉をトリイ・へイデンという作家(代表作に「シーラという子」「タイガーと呼ばれた子」があります)の日本での講演をまとめた本で知りました。

 虐待を受けたあとで、あるいは虐待的な環境にいつつも、人生に向かい合い生きつづける人がサバイバーです。シーラには車の中で泣いたがゆえに母親に捨てられたという記憶が刻み込まれています。それでつらい虐待にあっても「泣かない」ということを守り続け、他人とのコミュニケーションをも取れなくなった幼女として「シーラという子」に登場します。彼女は教室に入るなり、部屋の隅の家具の下に一日中もぐりこみ、出てこようとも、話そうともしなかったのです。生き残るために彼女はそうしました。

 虐待というほどでなくとも、人生のある期間、ときにはつらかったり、孤独感にさいなまれたり、悲観的になって世界をうらむようなことはあるでしょう。そして心に傷を抱えたまま生きることもあります。

 そのようなときでもsurviveし、乗り越える人がいます。そのような人には何が起こっているのでしょうか。

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 私の生家は丹波山地の谷間にあり、庭から数十メートル、北以外の方向に進めば、畑、雑草地、隣家等を経て山林に入り、その後、緩やかな丹波山地が続きます。

 その山林の中に、かつて人が生活していたらしき痕跡があります。周りを雑草や木の葉、竹葉、腐葉土に覆われた石積みやら穴(井戸の跡)があります。

 そこには昔(たぶん江戸から明治にかけて)屋敷や、畑があり人が住んでいたのです。が、もうそのことは誰も知らず、もちろん記載された本もありません。その辺りは私の先祖が継承してきた土地なので、私につながる人たちの生活跡であると思います。

 百年以上前に、屋敷、農地があり人々が明るい空の下で生活していましたが、長い年月を経、山林の中に埋もれてしまいました。現在の様子を目の当たりにしつつ、その時の様子を思う時、私の中で、そこのほうにある、なにかの感情がゆれました。

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 松山が好きになっていることに気がついたのは一瞬でした。こちらに来て10数年以上たった、ある日の午後、建物の階段をおりて、四国山地の山々を見たときに、この地域が好きになっていることに気がつきました。そのときも、何かの感情がゆれたことを覚えています。それは、車の運転になれ、タイヤやらフロント、ハンドルが体の一部になったことを感じるのと同じ様でした。その土地が体の延長になったかのような親しい感じ。

 丹波にも愛媛にも過去から現在まで、多くの人がそこに住んでいて、そこは単なる空間ではなくて、人々の生活の場であり、人が作ってきた有形無形のものがあふれています。世界も人も一緒に変化しつつ時が流れて、時の、その経過の力でつながっていくものがあります。あたり前ですがそれを実感する、しないでは大違いで、感ずるとき、その人の世界に対する態度、生きかたが変わり始めると思うのです。

 つらいときがあります。弧独感にとらわれ、辛い世界の中で生きていくことから脱出したいと思うとき。思いが通じる世界ではなく、愛してほしい人から、愛されずに、時には虐待された子供のように、心が傷つき、世界に対するあきらめがおこるとき。でも、我慢し、挑戦し、大きく感情をも揺らせながらでも生きていく・・・・・・そうできれば・・・・・・・。

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 人は変わり続けていくことができます。愛されなくとも、いつかは愛すことができたり、我慢をしたりしていくうちに、時間が過ぎていくうちに、世界とうまくつきあうことができるようになると思うのです。

「愛する」について(その6 心のモードチェンジ)

 超介です。

 一日の終わりに、その日のことを思い出したり、朝、前日のことを思い出したりする人は多いと思います。心の中が雑然、ざわざわしてくるとき、さまざまな不安定さを伴う心中、鎮魂し、モードチェンジを行います。

 分析思考傾向が強くて、ついついこれまでの経験、体験、環境と心の不安定さを関係づけてしまいがち。でも分析しても心、鎮魂せぬことの方が多く、分析せずにありのままを受け取ろうと。(じぶんをゆるす)

 目を閉じ、何かあるいは誰かからの、『やらないといけない攻撃』(これは他人からの、どこか依存した思考、自分自身からではない)を脇におき、自分を取り戻す、自分だけになるのです。物思いにふけるように、自分ひとりになろうと、心に決めて。

 どんなところからでもよい、他人の思考に依存しないで生きようと決意して(まるで中学生か、高校生のようですね。五十路の半ばなのに!!)います。壁にぶつかり、心が折れそうになるたび、『いかん、いかんよりかかっている、しっかりせい』と。

 ふと気が緩み、どうかした瞬間に、『愛される人になりたい』と依存してしまい、卑屈になります。そうではなくて『愛する人になること』を選択します。でも、まだどこか甘えが出、同時に安易な感情に押し流され、やっと依存心に気がつき、鎮魂、自分を取り戻すことを始めるのです。

 それでモードチェンジを試みます。

 心全体のモードチェンジ、次元をあげる。
 
  超えるぞ、 進化していくぞ、と。

四国松山 道後の紹介

 超介です。

 今回は四国松山道後の紹介です。
 先日久しぶりに道後にて食事、ガラス美術館にもいきました。

 松山市内を走る路面電車(おとな150円 子供80円)の終点が道後駅。日に数回は漱石の『坊ちゃん』に出てくるような蒸気の電車(に模したもの。こちらは確か1000円ほどもしますが)が到着します。これまた、明治時代風の駅舎を出れば、広場の先には『からくり時計』が設置されていて、ちょうどの時刻にはそのひょうけた動きと音楽に、人があつまります。近くには足湯も。

 道後温泉本館(建物が古式ゆかしい温泉、それだけ暗さもありますが。市は数年かけて補修工事を計画しているようです。)および新館椿湯(こちらは大理石をふんだんに用いた明るい浴場)に浸かったあと、近隣のそぞろ歩きがお勧め。ただし、今は松山も一番寒い時期なので防寒着用で。

 ここ中予松山(愛媛=伊予 を三つに分ける呼び名のひとつが中予、あと東予、南予と呼ぶ。)では『椿さん』という商売の神おわす、椿神社(椿神社は市の南地区にあり、東地区の道後からは車で30分くらいのところにあります)のお祭り時が最寒い時期といわれていて、今年はそれが1月末。このお祭りはとにかく1Km(もっとあるかも)ほどもある参道にぎっしりと屋台が立ち並ぶのが圧巻です。それにつられて老若男女、どっさりと集まります。

 でありますから、今は年中で最も寒い時期。四国松山、暖かい、と思われるかもしれません。雪はめったに積もりませぬ。しかし暖房も厚着も必要。海沿いの松山に向けての高速道路が積雪で通行止め、となることも冬季期間中は何回かあるのですよ。

 (道後温泉本館にもどります)本館を左に出れば、緩やかな坂が建物を半分取り囲んでいて、その先、さら左に進むとベージュの敷石の4、5人横に並んでもゆったりの歩道が両脇にある道に続きます。この あたり、周辺の旅館、ホテルが近年たてなおされたこともあり、(たぶん電柱も地下に)明るいのです。人力車があったり、足湯があったり、そぞろ歩きによいのです。

 先日、知人と会食の予定があり道後に路面電車でいきました。道後駅から商店街を散策、どのお店も明るく、若い店員さんも結構います。出口のところにある温泉本館を左に曲がります。『道後ぎやまんガラス館』を目指してあるき、入館しました。婚礼会場が前面にあって、ガラス工芸の展示場は建物の少し奥まったところにあります。そこにいたるまでの通路沿いには、青白く照明された池、その周囲には白鳥(これは道後温泉本館のシンボル、温泉のてっぺんに白鳥がいます。)があります。

 ガラス工芸は江戸時代から明治大正期にかけての、虫かご、キセル、タバコ盆(私にはこれがいちばん素敵でした。)金魚鉢、電灯の笠、すだれ、ガラス枕、もちろんコップやら、お皿やら各種食器も、さまざま色とりどりでした。小さな美術館ですが、変質しにくいガラスの工芸品、美術品の展示ゆえ、過去の人の日常がしのばれます。

 松山にきてね!

最近の読書

最近の読書

超介です。

 皆さん、明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

 ここ数ヶ月、読書は小説中心になりました。  

 特に、次の3つに惹かれました。

 1.池波正太郎 
  剣客商売
   文庫で出ています。全部で15,6冊あったでしょうか、読み出すととまらなくな
   ってしまいました。さまざまな職業の登場人物、剣の修行、そして料理等ついて、 
   主人公の剣の達人、秋山親子中心に描かれます。

 2.トリイ・ヘイデン 
  ?シーラという子 ?タイガーと呼ばれた子 ?機械仕掛けの猫 ?子どもたちは今
   障害児教育の経験のある著者がノンフィクションで書かれたのが?、?、たぶん半
   分以上フィクションであろうと思われるのが?、?は筆者の来日講演内容が中心の
   対談集です。?は虐待を受けた子が、熱心な教師により心を開いて成長し隠されて
   いた才能が周囲にに認められていくという物語です。?は?の続編でタイガー=シ 
   ーラです。シーラのその後の物語です。?のシーラがその内面の成長を自身で語り、 
   行動します。シーラの自立への物語です。?は複数のストーリーが同時に進行して
   いきます。自閉症のような子供とその親、教師が登場しますが、親と教師の話の中 
   に、入れ子のように、その親が物語をします。教師と子供への指導のストーリーは 
   最初は擬音を発する子が徐々に意味を含んだ言語を始め対話に至り、途中で現実に 
   起こったある事件を暗示するフレーズを話すようになります。複数のストーリーが 
   最後にそのつながりがあらわになります。 

ステイーグ・ラグーン
   ミレニアム1〜3(各部上下)
   話の内容は各部で独立していますが、ミレニアムという雑誌社の記者とドラゴンの
   タツーを入れ直感像記憶能力を備えた女性が主人公であり、特に2部と3部の話は
   連続しています。リスベットは問題解決能力は高いけれどコミュニケーションが取   
   もに解決します。2部、3部はそのリスベットの生い立ちにかかわる物語です。2
012年12月に3部が出版(ハヤカワ文庫)されたのですが、作者は2004年に
50歳でなくなっています。

 小説を読む面白さは、リアリテイを感じつつ、その世界に引き込まれていく過程にあります。作家が語るその世界にはさまざまな事象がちりばめられていて、読者はそこから刺激を受け、自分の持っている知識を刺激されつつイメージ空間を広げていきます。

 剣客商売では「剣の達人のものの見え方」(彼もまた、優秀な問題解決能力を有する人物です)、トリイ・ヘイデンの作品からは「障害児教育からの学び」、ミレニアムからは「情報操作能力」などを味わうことができました。