田舎の春に思うこと

超介です。

丹波市に田植えのために帰省中です。

今年の五月三日は春なのに、丹波では少し寒さが残っていて、朝はストーブがほしく、温まってから仕事にでます。稲の苗も、もう少しそだってほしいと、田植え部隊面々(両親、私、姉、姉の息子夫婦の6人)の都合のつくかぎり、遅らせ、明日4日に行うことになりました。

今日は、カボチャの苗を畑に植えたり、蕨、菜蕗、タケノコを採ったり田舎の春を楽しんでいます。(写真はうまくロードできないので後日に再度投稿しますね)

普段は、あまりよく観察しないのですが、じっくり若葉もみると、とても深くみえます。味わいが深い、つまり情報量が多い、という意味です。言葉では若葉一文字、でもそのものから伝わってくるものは一単語では表現できません。

言葉は大変な情報量を最小限に包み込む風呂敷です。柿の木の若葉一枚からも、じっくり観察すれば、その表面には粉を吹いたかのごとく小さな毛状のものや、次々と細くなって枝分かれしていき、葉っぱ全体を細かく区分している葉脈、つやつやと光沢のある薄緑の表皮、そのかすかな色のまだらなぐあい、等々たくさんのリアルが浮かんできます。

そのリアルを受け止めているとき、人間も、その自然の一部であることに思いを巡らせます。

出会う人とのリアル、ちゃんと受け止めよう、一つも単語で割り切れる程人も、人生も単純ではないと。そのことに気をつけた上で関係を作っていこうと、感じるのです。

Change from black into white

超介です。

Chang color
色を変えることにしました

黒から白へ
ここまでなんとなく選んできた黒
これからは白に

白紙の白ではなくて
真珠色に近い白色

ジェット機、宇宙ロケットの
スピードと耐久性を含有する色

ガラスではなくて白磁
透明ではなく実在の白

黒い携帯電話を白に
白のウオークマン
白いiPod、ipad
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名刺入れも黒から白
黒いウィッシュは白いアクアに

色にこだわって変わる、
自分を変える、変わる。

あなたの色は何色?

超介です

あなたの色は何色?
What is your color?
というように訊かれて、
あなたはどのようにこたえるでしょうか?

心の中をながめて気持を確かめ
何色がそれにかなうのか
とあてはめてみたり、
もっと直接的に何色が好きか、つまり
どんな色調の洋服を身にまとっているか
自室の家具、カーペット、壁の様子を思い浮かべ
何を選択し、そうしたかをおもいだします

色の源は電磁波で
それは、周波数に応じたエネルギーを持つ
つまり色はパワーを持つ
(僕の身体は実際に
      それで治療をしてもらったのです)

だから、人には固有色があるのは当然で
そのスペクトルを分析できる人がいる

色が意識と無意識の世界
そのはざま説明する役割をにないつつ
物語は進みます

16年前の謎の解明が始まり
事実が明らかになります
日常の世界から異界にはいり
理由は不明のままですが
解明の旅、巡礼を終えたとき、
元の世界に戻り
再出発のエネルギーがうまれます

読者を楽しませそして
優しい気持ちにさせてくれます。

村上春樹 『色彩を持たない田崎つくると、彼の巡礼の年』
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春の感傷

 超介です。

 低気温のために開花が遅い川原の桜も、わずか1週間ほどで散ってしまい、いまや枝には若芽と1/10ほどの花びら、草原の上にピンクの点々を残しています。先週末は、温暖な松山も嵐に見舞われ、気温も下がって一時期冬に戻ったかのようでした。桜も一気に散りました。
 (こちらは散る前の、ほんの10日ほど前の川原の桜)
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  春は移動の時期、別れと出会いがそこここで繰り返されて新たな思いで歩み始めておられる方も多いと思います。私もそのうちの一人。教育コーチングを学びはじめてから、どんどん人生が変わり始めました。人生の隅に積み残していた課題が片付き始め、また、思わぬところから貴重なものが出てきたりしました。
 (これは今週初めの同じ桜)
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  10年以上前の春先、松山から高知県幡多郡の漁港に一人でよく釣行しました。ゆったりとカーブを描く、しかし ぎざぎざのリアス式海岸の地図上の一点の漁港を目指して海に向かう。深夜峠を越えて、眼下に漁港の桟橋の常夜灯の明かりが見え、ほっとしたこともあります。ほとんどが初めての土地なので、それは冒険とも探検ともいえるような釣行でした。何を求め、深夜、片道4時間以上もかけ、一人海に向かったのでしょうか。

  暗いうちに漁船が出港し、海鳥が鳴き始め、朝日があたりを染め始め時間が進んでいきます。ジワリと時には一気に沈み込む浮きに竿を合わせ、リールを巻き上げ、海中の生き物の手ごたえを感じる。朝の海辺の風、潮、土と木々のかおり、その豊かさ、竿先の生き物の躍動の手ごたえを目ざして釣行していたように思います。

  年末から今年の桜の散るつい最近までに、出会い、身体の変化、新たな言語(英語とIT)の学び、そして人との出会い と別れなど、なんと色々なことが、次々と起こったことでしょう。凸凹のリアス式海岸のように激しい、でも豊かな人生の海との出会いでもあった春。

  I-podを購入しました。今春の総括そして今後の思いを込めて、『気高い夢を見よう。それがあなたの人生になる。』(ジェームズ アレン)という言葉を選び印字してもらいました。豊かな海の獲物の手ごたえを感じながらスタートできる幸せ。

「決まりきったステップ」とはちがう一歩を踏み出したとき素晴らしいことは起こる

 
超介です。

 表題の内容は、「決まりきったこと」の中には「無意識の中に潜む固定観念」それもこの程度であろうという、一見「常識」的なものの見方、とらわれの「概念」からの脱出のすすめ、というような意味です。

 できるのに、できないと思い込んでいた自分に気がつくことがありませんか?もう年だから、男だから、女だから、田舎だから、内気だから、そうそう、上司があんなだから、幹部があんなだから、パートナーが〜だから、・・・・、と依存をして、何もやらないこと或いはできない理由を見つけようとしたりしていることはありませんか。僕はよくあります。

 でも、少しだけそのことに自覚的であるようになり始めたので、少しずつ変わるようになりました。できないのではなく、やらない、行けないのではなく、行かないと言う回数が増えました。

 ほんの些細な『違う一歩』であるのに、素敵なことが起こり始めます。心の中で自由を感じ始めるのです。その自由とは自分の生き方は自分で決める、本来もっていたのに、どこかで置き忘れていた自由だと思います。

 これは心の持ち方の問題ではありません。行動の変革です。

さくら さくら 力の限り咲く さくら

 超介です。

 さくら、さくら、力の限り咲く、さくら
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 松山では3月31日の日曜日、桜の最盛期を迎えました。土曜日から日曜日にかけては、お天気もよく、石手川公園、城山、道後公園、等をはじめいたるところでピンクの花が咲き、やさしい春の日差しの中で人々は過ごすことができました。

 私も、華やぐ薄桃色の雲のような樹木に見とれ、1日をすごしました。そうして、そのとき『力の限り』『精一杯』という言葉が心に浮かびました。華麗な花の美しさの奥にはある、ひょっとしたら、狂気にも近いひたむきさ。。

 その後これは、この桜からだけではなくちょうど今読んでいる、それこそ私の能力からすれば『精一杯背伸びした』語学力でもって読んでいる英文のペーパーバックの内容にも満ち溢ると。そこからも連想を呼び込む力がきたのだと。

 それがこれ
          『20歳のときに知っておきたかったこと』
         (WhatIWish I Knew When IWas 20)
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 訳書の帯には 
       いくつになっても人生は変えられる 
       「決まりきった次のステップ」とは違う一歩を踏み出したときすばらしいことは起きる。

 とあります。
   
  はじめは英文では挫折するかな、と思っていましたが読み出すと、何回か英文を音読し始めると楽しくなり、あと、2,3週間後には終えてしまいそうなのです。もちろん日本語訳を眺めつつイメージを捉えるのです。意外と英文のほうが著者の『思い』も伝わってくるような箇所があります。

  さくら、は夜も昼も美しく咲き、松山をまさにピンク色に染めあげてくれました。
  流れるようなさくら
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  よるもさくさくら
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  万華鏡のさくら
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無常

 超介です。

 徳島への高速道路上で桜の開花に気付きました。途中休憩の際立ち寄った吉野川SAでも咲き始めていました。
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    年年歳歳花相似たり  歳歳年年人同じからず

心にあらわれたのは次のこと
  今年も桜の花が毎年同じように清く咲く。
  出会いと別れの場面、不連続の人の生き様。

 連続な数直線を切断すれば、片方の端一点で決定することができるがもう一方は端がないということ。それが連続の意味(たとえば片方を1以上とすれば片方は1未満、1以上は、1が端で、その1点で終わり、未満のほうは永遠に1にちかより、端はありません)。ところが、人生の数直線は両方に端があるかのごとく、距離があります。それ以上は近寄れない。不連続なのです。

 不連続さに思わず、立ち止まり奈落の底を見るかのごとくの、厳しさを味わうのです。特に生き死にかかわらず、別離の場面では。

 でも、どんどん近寄ることができる人もいます。相手との人間関係は限りなく近くなってきます。(でもぴったりとは合わない) その条件は、関係つくりの、その人たちの言葉が何処から出てくるか、です。自らの心を振り返りながら、確かめながら言葉をつむぎだす人たちはどんどん近づいていけるのに。そうでない人とのギャップは、そのままでは埋まらない。

 これまでのコーチング体験で、そのことを強く感じました。自らの人生の課題と向き合って生きる人(たとえば病気、別れ(死別、離別)、起業、転職・・・・の時など)とのコーチングです。彼らは、自らの考えを、感じたことを振り返りながら、思考を重ね、五感をフルに使い、最後に直感で次の1歩を見出し発話します。

 僕は、そのような人たちと話をしてもらうことにより、たくさんのエネルギーをもらいます。クライアントもコーチもともに成長できる機会がセッションに出てくるのです。共生的コーチング。

言葉の力

 超介です。

 三寒四温。

 庭の椿が長く咲き続けているのに気がつきました。
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 朝のウォーキング途中、あるお庭に、一輪の桜の花を見つけました。今年はじめてのピンクの花。でも川原のそれのつぼみはまだまだかたそう。暖かい日が続いたり、又寒い日があったり、三寒四温の日々。
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 インフルエンザは下火になったようですが、花粉症が猛威。今年は花粉量が多いようです。昨年暑かったので花粉が多くできているらしい。目をこすったり、鼻をシュンシュンしている人 が多いで すね。皆さんはいかがですか?

 私も目の痛み、頭痛がひどい時があります。『色彩治療』で治そうかな、とおもい、先生に治療法をうかがうとツボにシールを貼るとのこと。症状が続きそうであれば、やってみようと思っています。花粉症は花粉に触れると即時(15分程度のうちに)に反応し、花粉がなくなっても数時間から半日程度症状は続くようです(内科医からの情報)。ひどくなって薬で対応しても、副作用で日常生活の質が落ち、仕事の生産性も下がるので『色彩治療』がベストかと思っています。

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 2月からは英語の学びのスタイルを身に付けようとしたので、日本語の読書時間が減りました。言葉の力を身に付ければ世界がよく見えるようになる、そして日本語だけでなく英語もさらにはIT語(つまりIT機器との付き合う力)も有効であると。

 ジョン万次郎の漂流記(HEART OF A SAMURAI)の中で、彼が航海術の書物に出会,い、それを学んで生きる武器としようとしたように、又、坂本竜馬が剣道の免許皆伝者であったように世界を切り開いていくサバイバルのためのツールがあります。現代では英語力もIT操作能力もサバイバルツールであることは間違いありません。

 荒唐無稽な仮定ですが、宮本武蔵が或いは坂本竜馬が今の世の中に生まれていたら、彼らは剣の道を歩んだでしょうか?語学力はグローバル時代の“剣道”の一形態なのでは。(すでに海援隊は英語の辞書も出版していたようです)でも、6年間、10年間学んでも英語ができない人が多いというのは(もちろん私もです)今の時代が認識できていないからだと思います。語学力はサバイバルツールなのに、それが分かっていないのです。(たぶん)

  2,3月はそのようなことを考えつつ過ごしました。英語の勉強を始めながら、英語の勉強法の本を1読んで音読トレーニングがポイントであると分かりました。その中でも次の1冊には大変勇気づけられました。
       「英語の話し方」(国弘正雄 たちばな出版)
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 直木賞または芥川賞或いは両方の受賞作家都知事が3代続きましたが、行政においても言葉の力は絶対必要で、現都知事が著者である次の新書も迫力があります。
        「言葉の力」(猪瀬直樹 中公クラレ新書)
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   精一杯背伸びをする、夢を持って生きる、そのために言語力は必須能力のひとつだと。

   皆さん、たくさん本を読みましょう。

「今ここ」その2

 超介です。

 「今ここ」にある自分の気持ち、状況をしっかりと認識できたときに受身ではなくて、次の積極的な行動が取れる、ということが分かりました。それは(おそらく)どんなにつらいときでも、そのような能力、資質を人間は持っている、ということが分かったということです。

 学びのタイミングは最悪の状況のときほど良いのかもしれません。だから死ぬなと、子供たちに伝えたいと思うのです。いじめ、体罰等のニュースを見聞きしたときにとそう思うのです。

 レジリエンスという、逆境に耐え抜いていく力の源泉は何処にあるのでしょうか。世の中にはそれを強くもてている場合(人、状況)とそうではない場合があるようです。私自身の体験でいえば、小さな逆境(順境ではないけれど、少し弱い逆境)を潜り抜けていくうちに、その人の中にレジリエンスの種がまかれ育っていくように思えます。

 その種(タネ)の一つは「我慢」の体験かもしれません。たとえば小学校入学するまでコーラーは飲ま(せ)ない、誕生日とクリスマスだけにケーキを食べる、とか。生命にかかわりのないものを一定期間我慢す(させ)る様な体験。或いは自然の中で生活する体験―電気も水道もないところで冒険をして過ごす体験とか。受験もひとつのきっかけになりえます。

 また、レジリエンスは自分を客観視できる力とも関係があると思います。逆境(と多くの人が思う状況)を見抜き、時間・場所・対象等々の環境変化を待ったり働きかけたりできる力、見通し、目標、ビジョンを描く力らとともにあるのです。

 生涯をかけてそのような生きていく力(戦っていける力)を磨き続けていこうと思います。

「今、ここ」

 超介です。

 2月は本当に早く過ぎていきました。能動的に行動して経験知を増やしているとき、節目に時間の経過が早かったと感じられることがあります。受身の行動ではなくて、チャレンジで、E(estimate)→P(plan)→D(do)→C(check)→T(taste)のサイクルをまわしつつ動けていれば進化も成長もある忙しさですが、さて私の2月は・・・・?

 学びでは新しいことを2つ、少し無理かなと思いながら始めたのです。が、やってみるとまずまずいけそうと、・・・。そういうことは多いですね。もう少し時間が経過して成果がでれば書きたいと思います。何事も継続できれば、あらたに分かること、見えることがより明確になるとおもえるので、そこまでいけばかくネタにします。3ヶ月、半年と続けるとネタにもなるかと・・・・。

 3年間ほど出席を続けているセミナー(といっても2ヶ月に1回2時間程度のセミナーですから、受講時間は合計30時間程度)があります。産業カウンセリングのセミナーです。職場のメンタルヘルスのための講習会ですが最初は交流分析、ABC理論等のさまざまな心理学の紹介から始まり、今年は傾聴体験を中心としたより実践的な内容でした。はじめは緊張もし、内容もなかなか理解しにくかったのですが、今では楽しみになりました。

 2月中にあったセミナーのテーマは「今ここでの話をする」でした。講義が70分、ワークが30分程度でした。これまでもセミナーのトレーナーは「今ここ」について何回か繰り返されたのですが、今回は、私には「今ここ」という言葉が心の中に入った気がしたのです。ピクンと浮きが海面下の魚の行動に反応したかのような微妙な感じ。タイの一気のあたりではなく、最初のチヌのそれのように。

 それは、「今ここ」に生きていることをどう感じ、考えているか、そこに立脚できていれば「よい」と直感的に分かるからです。でも「よい」というのは「そこから始めればよい」ということなので何か、「それで満足」ではなく・・。流れで捉えるのです。

 ちょうど人間の肉体(実は世界の全てがそうなのですが)の本質が福岡紳一さんの書物にあるように「動的平衡」という見方 「肉体も、分子・原子が入って、出ていく、ひと時もとどまらずに、身体はその流れの「よどみ」のようなものであるという」に似ています。健康的に生きるということは、この身体に入り、出て行くこの物質の適切な流れをコントロールすることです。このことは半年間のプチ断食の体験から実感しました。

 「今ここ」に話を戻すと、「E→P→D→C→T→E→・・・・・」のサイクルをしっかりと自覚して生きていけばよい、という感じなのです。そうであれば進化し成長することができるということです。たぶん。自己の内側を眺めながら、常識にとらわれすぎず、他者の目を意識しすぎず、時には自己を無意識に縛っているものに挑戦しつつ、体験を重ねれば進んでいけるという・・・・・。

 長々と書いてしまいました。
 ここまで読んでいただきありがとうございました。