コーチの立場と視点から

超介です。

 コーチングを意識し始めてから、子供たちの学習指導を次のようにしてきました。

小中学生の学習内容であれば(もちろん全員ではないですが)、段階を踏めばほとんど100%に近い力をつけることができます。指導していて「やったら出来るのになあ」といつも感じてしまうのです。多くの先生たちがきっとそう感じているとおもいます。小中学生が学ぶ内容は、明確だから教える方はそう感じてしまうのです。でも、そこからさらに一歩進めて、子供を支援するためには、視点を、教える自分の方から、子供のほうに切り替えることが大切です。

ひとり、ひとりの子供の視点から勉強を捉え直すと、いろいろなことが見えてきます。新しいことを学び、体験する、出来るようになりたいと思うのは、子供本来の姿です。子供だけではなく、大人でもそうで、人は本来、成長したい存在です。その本来の姿を邪魔するものがあるだけなのです。見えてくるのは邪魔するもの。これをどう取り扱うか、コーチは生徒(クライアント)と一緒にそれを行います。

邪魔する物は、その生徒と環境の関わりの中に現れてきます。それに生徒自身が気がつくと、変化が現れます。その変化を見つけて、コーチは生徒(クライアント)に伝えます。すると、さらにクライアントは変化します。それを繰り返します。その過程でコーチは焦らず、じっくりと生徒(クライアント)を信じて、取り組みます。学習する機会を通じて以上のように、生徒自身が気づいていくことを大切にしてきました。その過程が生きる力の成長に繋がっていくと思っています。

環境との関わりで一番大きなウェイトを占めるのは、子供達が実際に生活する場、つまり多くの場合は家庭です。だから保護者との関係つくりは大切で、時には差しでがましくも感じたことをお伝えするために、時間を取っていただきます。そして一緒に話し合ったり、考えたりするのです。もちろん、時には子供も一緒に話し合います。

一緒に考えるという立場をとるのは、私と他の人が感じ方も、考えも異なることを前提としているからです。58歳で、2人の息子がいて、独身で、両親と同居していて・・・・・・、という環境で捉える私の感じ方は、一例で特殊と思うからです。

 以上のようなことを大切にしてやってきました。

最近読んだ本から

 超介です。

 数週間前に購入した[「自分」の壁 ](養老孟司)を読みました。これを一通り読了後、千葉で2泊3日の研修(第24回人生航海図)を受講しました。この読書体験と研修はつながっていて、研修で体験したことがこの本のなかで説明されているような印象でした。

 本の表題も、研修での私自身の目標と重なっています。私は研修で第2の人生をスタートさせるための課題として突破力、行動力を得る をあげていましたが、それはそれまでの得ている力を捨ててミッションを達成する課程から体感することができました。自分の壁を一部壊したのです。

 本書では、筆者が自分と世界がつながっていることを様々な事例を引き出しながらあげています。体内の他者(ミトコンドリアは細胞に住み着いた他者)の存在。内蔵にたくさんの細菌が共生していること。ヒトデもトンボも蝶も、幼虫から生体への変態は、全く別の生き物に変わるが、それは元々別の生物が合体しているのではないか。

 世界、自然の一部が自分であり、地図で例えれば自分とは、地図上の矢印のようなものであると述べています。自分とは世界の中の部分である。人間は自然の一部、田んぼは自分、海も自分であると。そしてこの自分は世界の中でえこひいきする部分なので、いったん自分から出て行った、つばやら大小便やら切られた爪やらにたいしては排他的になる、のではないか、と。

 自然的なものだけではなく、社会的な物事ともつながっているので、例えば原子力発電の問題も自分の問題であるし、世界で起こっている様々な事柄も全部つながっています。ますます、世界はつながり感を強化するように変化しています。

 自分が世界と、自然とつながっていることを考えれば、そこからは世界をかえることもできます。今回私が受講した千葉での2泊3日の研修で受講者は、道は異なりますが、それぞれが世界を良くする、という表現で自らのミッションを作りました。それは世界とのつながりを忘れない限り手段も方法もあるミッションです。

生命の森での体験から(人生航海図受講で得たもの)

超介です。

 自分にはないもの、いえ正確には、あるけれども自覚できず隠れているpower、これをつかむ体験をしてきました。

 日本青少年育成協会主催の 第24回人生航海図(in 千葉)がその体験の場です。7月12日から14日、2泊3日、20代、30代中心の受講生の中にまじっての受講。そこは「生命の森リゾート」と命名された、深い深い森の木々に包まれた空間です。実は数年前から、このセミナーに興味のアンテナはたっていたのですが、「私には受講は無理」と思っていました。根底には不安があり、それは「時間も、お金も、体力もない、だから無理」と正当化していました。

 35年間勤務していた会社を退職し、郷里に戻り第2の人生をスタートしたとき、生きぐるしさがありました。理由をつくって、限定的に人生に向かいあおうとしている自分を感じていました。そんな背中をコーチングで知り得た人たちがぽんと、おしてくれました。航海図に参加し、何かをつかもうと、決めました。

 私は、表現型が左脳型ですが、その思考をつかって不安を正当化する理屈をつけやすいので、それが自らの行動を制限してきたように感じます。行動の制限は世界を広くしないので、リスクは少ないけれども感動もまた少ない、重たい鎧をかぶって生きているようなものです。その鎧がずいぶん溶けた、と感じるのです。

 自分のミッションを作る、それを伝える、それをとる、ということを身体能力を限界まで振り絞り続けることで、何かの固い鎧が溶けてきたように感じます。あるトレーナーは、限界まで力を出し切って息も絶え絶えの私、そして再挑戦したいという私に「今、持っているものを捨ててとりにいってください」とリクエストしてくれました。「細かいことを積み重ねる力はあります。ほかの力は?」「ミッションを邪魔するもの対策にエネルギーを使っていませんか?」などのフィードバックをも受け取りました。

 そしておこった不思議な体験はまさに「仲間によって力を与えられる」ことを知る、でした。心を込めて応援してくれる人たちによって達成できた、という体験、自分と、仲間にある、心の力、信頼の力があることの体感です。

 いろいろな生き物がうごめく生命の森と同様に、私の体の中にも様々な命の力が刻み込まれていて、それらを知ることができたのです。かけがえのない体験でした。私は体が軽くなり、より自由を手に入れたのです。
 

電波による不調から

超介です。

電波による体調不良、と思われるような倦怠感、頭痛にとらわれていました。なんとなく朝起床後そのような症状を感じたので、最初は疲労かな、と考えていました。face book で電波による障害記事に出会い、生活環境を見直した結果、その不調は随分と改善しました。

思いもつかぬ事が原因で起こっている不都合があったり、その不都合の原因を全く違えて捉えていることがあり得ます。そのためにも捉え直しをすることは大切であると思いました。今回も、倦怠感、頭痛が起こるのは、気合が入っていない、頑張らないといけない、というように精神論的にとらわれてしまっていれば、未だ抜け出せずにグズグズしていたかもしれません。

数年前に電波障害について興味を持って読んだことがありました。それが、自分の身に起こってそして、ネット上でその言葉にタイミングよく出くわしたので対応できました。知らないままだとうまく対処出来なかったに違いありません。

私が出会う様々な壁も、その原因は私が思っていない、違ったところにあることが多かったり、或いは壁ですらなく、単なる思い込みであることも結構ありました。不安感などはその際たるもので自分の思い込み以外の何物でもありません。

思い込みにとらわれて不自由に生きるのではなくて、もっと自由を感じながら生きていきたいと思います。そのためにも多様な体験が必要であり、その際に最重要な武器、はやはり言葉(とかイメージ、映像)だと思います。言葉(とか、イメージ、映像)によって思考するからです。言葉は思考のレンズであり、遠くも近くも、全体も部分も、時間をもそれで見ることができると思うのです。

コーチングを行う時も言葉のセンスはとっても大切で、相手の言葉の重み、意味、イメージをコーチは注意して量ります。自分の言葉と相手の言葉が示しているものは異なることがおおいので、突き放したり、近づいたりしながら確かめ、付き合うのです。特に異なる文化で生きる人、或いはその言葉を知らない人、がそれが示していることを話す場合(例えば子供とのコミュニケーションなど)は特にそれらが必要です。言葉で世界を適切に表すセンスを身につけていきたいと思うのです。

捉え直しをする(その3)

超介です。
 
 悩んでいる問題が解決できると、そのことから自由になるので、晴れやかな気持ちで前へ進めます。そのときは、問題に関係することがらとのつながりがわかって全体が見通せたような感じがします。コーチングをうけて、自分の中にある言葉を探し出してみて、その解決案を導きだすことがあります。本を読んでその中からぴったりくる考え方に気がつくこともあります。

 人事上のトラブルに遭遇したとき、解決者としての立場で対応するとき、この捉え直しをしてもらおうとしたことがありました。Aさんのaという考え方、Bさんのbという考え方が対立しているときAさんにb,Bさんにaの考え方を理解してもらうことになります。それが理解できれば解決策が出てくると思って私は対処します。でも、なかなか解決はしません。お互いの話を伝えたり、議論してもらったりします。当事者同士が話をするのが早いのです。私たちは相手の考えを類推しますが、Aさんはbの考え方を間違えて捉えることが多いので、直接に話し合うことが一番なのです。

 その場ではうまくいかなかったとしても、あとでわかるかもしれないので、現場で、当事者と情報共有につとめてもらうことが一番です。でも、それが実現しないことが度々あります。私がもし当事者であれば、それは自分が変化することに対する抵抗ではなかろうかと思えます。ちっぽけな自分、受け身の自分。自己開示と相手との交流への恐怖は、ひょっとしたら幼いときのいじめの体験からかも知れません。でもそのことは、もう振り返ってもあまり意味はありません。行動するかどうかの選択にこそ意味があります。

  捉え直しをすることの効用は、自己啓発やら、起業家精神等についての書物でもたくさん見受けられます。私は「原因と結果の法則」やら、「20歳のときに知っておきたかったこと」(テイナ・シーリグ)を読んで多いに触発されました。

  それで、ipod をオンライン購入したときその背面に「気高い夢を見る。私はその通りの人になる。」と刻印してもらい、いつもそれを見ます。

とらえ直しをする(その2)

超介です。

  純粋に、事物だけをそのままに見る、ということは難しいことです。いつも私たちは何らかの思考枠にとらわれてしまう、何かのバイアスがかかっているのです。そもそも何もフレームを持たずには見る、という行為は成り立たないのです。

  たとえば、時系列抜きに思考はできません、そして時間は人が考えた枠です。自然は時間とは別にあるんだと思いますが、そのような世界に人は足を踏み入れることはできません。もしできれば時間旅行の可能性がひらけます。そのようなことはありえないでしょう。

  だから、概念で事物を見ているという事実を理解できていて、必要に応じて捉え直しができれば良いと思います。

  壁にぶつかったと感じたとき、その壁の向こう側へいくのであれば、壁を捉え直せばよいと。私は、これまでの人間関係において、何度も失敗をした、と思ったことがあります。最近も過去の人間関係の出来事を夢で見て、夢からさめて強い感情が起こりました。その感情は後悔につながりました。そして、まさに”自動的”にこれからは、このことに負けない生き方をしよう、と決意をしてしまいます。

  そして、過去のことを夢で思い出して新たな決意を”自動的”にする、ということの中に、まだそのことから自由になっていない、という事実があります。

 そのように起こったことに対して、上のように反応することは一つの形としてokだとは思うのですが、一方で狭いとも感じます。夢からさめて1週間ほどたった今、その決意は何だったろうと思ったりもします。いまは、夢から覚めて起こった強い感情の、そのもとをたどりたいのです。

  そのもとの事柄をたどって言葉できちんと説明できたときに、それが捉え直しができたということであり、そこから始まる決意はもっと自然で、身体でわかったように思えて、長続きしていくことが、きっとできます。ちなみに、今回のことについて、私は、まだそのもとまでたどりついていません。宿題を残しています。

捉え直しをする(その1)

超介です。

  故郷丹波に移住して、良いとこ探しをしているうちに、少しずつこの地に対する捉え方が変わりつつあるようにおもいます。捉え直しができそうです。18歳までは、いや生まれてからの58歳になるまでの58年間、私を捉えていた丹波に対する感情は、狭いところ、何もない、だからつまらない、早く出て行きたい、すみたくない、でした。

  もちろん、今でも「私のすむこの家からは最短のお店は1キロほど離れたヤマザキデイリーストアだけでコンビニは8kmはなれたところにローソンがあるだけです」。そして、このとき、事実に即していえば「最短のお店は1キロほどはなれたヤマザキデイリーストアで、コンビニは8kmはなれたところのローソンです」です。この2つの複文の前段と後段に、前の文章では「だけ」がはいり後ろの文章には入りません。「だけ」を入れると、そこに私の「だから少なすぎるんだ、さみしいんだ、不便なんだ」という考え方が入り込みそうな余地があります。

  しかし、「事実」を述べる後ろの文章に注意を振り向ければ、そこからどのような「思考」をするかは自由です。好きになるか、嫌いになるかは私が決めることができます。この決めることができる、ということに気がついて、それが実行できれば捉え直しができます。

  例えば「お店が遠いので、お金を使う機会がないので、無駄使いしにくい、お金が節約できる」「簡単にものが手に入りにくいので、身の回りにあるもので工夫をし始めて、それが楽しい」「甘いもの等を買って、食べる機会が少なくなっているので、たまに買うことのできる100円のお菓子がおいしい」というように。

  そして、丹波が嫌いになった、のも、丹波が好きになった、のも、どちらも決めているのは私自身であることに気がつきます。気がつけば自由になります。

  「事実」と「概念」をきちんと分けて捉えていけば「概念」にふりまわされて疲れてしまっている自分に気がつくことがあります。それを捉え直しする方法の一つが苦手なもの、人に対する「良いとこ探し」です。このことはコーチングで学んでいましたが、最近自分の身に起こったことに対して気がつくことができました。そして気がつくことでわたしは、自由になりました。

不安をコントロールする

 超介です。

 不安もみずからが作り出すものなので、それをコントロールするのも自分次第、ということがわかるためには、まず、それを頭で理解するだけではだめで体験が必要でした。それは、思い切ってやってみるという体験です。さけることもできることでも、気にかかること、あるいは先延ばしするだけになることなどを思い切ってやってみると、行動してよかったと思えます。少なくとも、結果が出るので次に進みやすくなるからです。

 行動することに対する障壁が低くなったとしても、不安は別の角度から襲ってきます。ある範疇の事柄についての無意識の中に潜む否定的な考えが突然支配的になるのです。それは、これまでいつもだめだと考えてしまっていて、それが定着しているような感じなのです。それがわき起こってくるとき、ときには体調が悪いのではないか、だからそのように感じるのだ、というように割り切ろうとすることもあります。体調の場合もあるかもしれませんが、でもよくよく考えてみると、その否定的な考え方が体調の悪さを作り出し、否定的な考え等は持っていないんだと、カムフラージュしているときもあります。

 選択心理学で学んだことですが、思考と行動と生理的反応と感情は一つのまとまりである。そして生理的反応と感情はコントロールできないけれど、思考と行動はコントロールできる。だから思考と行動を選択することにより生理的反応と感情も管理できる。

 また、生理的反応と感情の役割はセンサーであるとしています。

 「ああ、自分はネガテイブになっているなあ」と自己承認を始めることができれば不安の感情が派生する原因が見えてきて、とるべき行動に結びつく、と思うのです。そういう意味では不安という感情もとるべき行動を決定するためのセンサーの働きをしてくれます。

 これまで、あまりにも与えられた仕事やら、私事に受け身で対処してきたため、
このセンサーの働かせ方はまだ十分に身に付いていません。フリーになった今は、自分で決めることが増えてきて、このセンサーを使いこなしつつ行動をすることが課題です。

 ここまで読んでいただきありがとうございました。

ペースをつかむ

超介です。

 新しい環境にだいぶ慣れてきました。丹波に住まう前に四国松山で40年間過ごしたこと、松山のすばらしさがあって、こちらに移り住んだ最初の2ヶ月間ほどの、丹波での生活には違和感がかなりありました。退職して定職を持たぬフリーの身、就活中の身であることも影響して、身体的には、夜眠りが浅い、疲労感、頭痛、腹痛等となって表れてきていました。

 多分環境変化に適応ができていないんだろうな、と。40年前に松山に一人で生活を始めて、なじんで、好きになったとはっきり意識できたのは10年後であったし・・・。でも、今回は少し人生経験もあって、最初から丹波での生活の 良いとこさがし を始めました。それと符合するかのようにコーチングカレッジでメタ認知を学んで自分の状況をちょっと離れてみること、これも意識しておこなえ、そうは落ち込まずにいることができています。

 嫌な環境、嫌な人とはつきあう必要もないかもしれません。でもさけられない環境、人間関係、かつそれらを受け入れにくいとき、スムースにするときに「良いとこ探し」は有効だとおもいます。教育コーチングでも関係を考えるときの、観点を変えるものの見方、事実と概念等を学びました。

 以前、教務指導の現場にいた頃、職場の大先輩に、うまくなじんでくれない子供について相談し、大先輩は「生徒理解」という考え方を教えてくれました。それは「この子はこんな子、と決めつけるのではなくて、現在のその子の環境、これまでの環境、場面毎のその子の振る舞い等々いつも踏み込んで見ていきましょう」、というような意味でした。理解するの進行形(理解ing?),動きがあるのです。

 人も、環境も「こんなもんだ」と決めつければ、そこでとどまってしまう、ということ。はじめから結論を出してしまうと、そうなってしまい、その結論でokの場合はいいのですが、不満であるなら、それは変えれる、いや変われる、と今は思えます。

 コーチングをやっていて、ふと「この人はこんな人なんだ」と決める自分に気がつきます。それから、そこからはなれます。それをおいといて再度相手に集中します。そうした方が良い成果が出ます。

 未来と自分は変え放題、これでいこうと。そしてそのために動いていこうと。

就活

超介です。

 四国松山から兵庫県丹波市に引っ越し後、1ヶ月あまり経過しました。生まれた土地で再スタートして様々なことを経験することができました。実家の農作業は田植えから始まり、その水田の管理(主に圃場の水量調整)、田圃と畑の周りの土手の草刈り、畑の耕し、それに伴い田植機、トラクター、耕運機、草刈り機、農作業用運搬機の使い方の基本、それから所有している田畑の特徴、自治区の日役等。両親の体力等の衰えも目の当たりに実感しています。

 今日は就活セミナーに参加してきました。かつて採用の仕事をしていたのと逆の立場で、今度は採用される側に。今日のセミナーは就職活動にあたっての心構えがテーマで、自己分析等をおこないました。一番難しかったのは将来像の設定、つまり目標設定です。ここで思考停止。「こんな突拍子もないこと考えてもなー」とか「本当は自分がなにをやりたいんだろう?」とか、決められない自分がいます。いまは「でも、人生の一大チャンス、いい機会であるので、じっくり考えよう」と開き直っています。

 セミナーではこれまでにやってきたこと・できること(can)、やりたいこと(want)、そしてやるべきこと(must)の3つの円の共通部分が大きいと自由自在に働きやすいなど、教えていただきました。重なりはまだ見えにくいのです。丹波に帰ってきたことはmustの円を確認するためでもありました。じっくり考えるのは、この3つ、これをじっくり見つめれば見えてくるはず、と思うからです。
 
 結構大きな変化を超えてきた自分に少し自信がついてきて、それは未来像に少しずつ好影響を与えてきているように、そう感じます。