料理の楽しさ

超介です。

 丹波に越してきてから(丹波に帰ってきてから、という方が正しいのですが、これまでの人生の中では、生まれてから丹波に住んでいたのが18年、それから丹波を離れて四国愛媛に住んでいたのが40年、四国の方が長くて、故郷的感覚になっているので)食事を作ることが多くなりました。

 料理の手順は簡単です。いつも冷蔵庫やら、納屋に置いてある野菜類の食材をみて、それからネットで検索して調理します。ネットで検索すると、入力する食材の種類にもよりますが、レシピの種類が数千から数百出てきます。その中から私に作れそうなものを選んで、プリントアウトして、それを見ながら作ります。ほぼ毎日これを繰り返しています。

 その結果、プリントアウトしたレシピが半年で180種ほどもたまりました。お味噌汁やピラフ、パスタ、カレー、てんぷら、ラーメン、うどんなど簡単なものは別ですが毎日異なるものを作るので、作り方もほとんど覚えていません。でも作っているうちに、だんだんとレシピ通りでなくともそれなりに料理ってできるもんだなあ、と思うようになりました。

 例えば、中華風のあんをかけた野菜とかまぼこの炒め物であれば、青梗菜でなくとも、白菜でも、小松菜でも美味しいし、しいたけを入れてもokとか、調味料の種類と、量も多少変えても食べられるということなどです。料理を長くやっている人であれば当たり前の事なんでしょうが、独りでレシピを見てやっているうちに気がつきました。

 料理番組などを見ていると、料理人が実にうまくそこにあるもので調理をします。きっと頭の中で、材料を見て出来上がりのイメージができて、手順が浮かんでくるんだと思います。こういうのを上達するというんだろうと。この材料から出来上がりを想定して、段取りをつけて実行するというのはとても楽しいですが、やらないとわからないことなんだと、分かりました。

 料理の道も奥が深くて、挑戦してるといろんなことが学べそうです。

「場」から学ぶ

  超介です。

  2014年もあと1か月を残すばかりとなりました。今春、今後の人生のための
充填の1年にしようと考えました。そして、5月からの7か月間あまりの期間に
丹波を離れ京都、千葉、東京、名古屋の地で累計18日ほど研修に参加すること
ができました。その場で意識して理解できてわかったことも、身体が(意識は
伴っていないけれど)力を得ていることにより理解できたこともありました。
たとえば自分の体力の限界は超えているのに、まさに周囲の仲間たちの励まし
によって力を得て目標を達成できた体験などです。

  その「場」から影響をうけていたことに後日気が付くことも多々ありま
した。「場」がエネルギーを与えてくれているのです。そこで放射されてい
る、主催者の意図、トレーナーの、そして同じ学びを求めて集まっている
仲間の活動が発散するもの、それらが「場」を構成していて、そこに意図を
もってかかわっていれば、その時には理解できていなくとも、後日意味を
見出すことがたびたびありました。

 それは、その時に意識して理解できていることではなく無意識のうちに、
そこでやり取りされた言葉やら、身体の動き、感情等が、私のうちにたまっ
てきて、身体が自動的に無意識理に情報を再構成し学習しているような感じ
なのです。

  さらに、これはある研修で、毎回1月間実践していることですが、直感
的にテキストから「keyword」を選び、それと1月間「一緒にいる」という
メニュー。これは自分の日常が学びの「場」になります。「key word」
と一緒にいるとは、たとえば私は自室の椅子のすぐ上の天井に、そこは低い
天井で頭上2,30cmのところですが、A4の紙に「key word」を貼って、
それを再々見るのです。すると、生活の中で出会う課題に向き合っているとき
、それが解決のためのヒントを方針を指示してくれたりするのです。

  無意識理におけるこのような学びは教育コーチングの
「信念のトライアングル」
(人は自分の中に答えを持っている、人は育とうとする生き物だ、人はそれぞれ)
が表出しているように思います。

心と身体

超介です。

 丹波では、ストーブやら温風機、加湿器を使うようになりました。皆さんいかがお過ごしですか
私は四国松山にいた頃より寒さを感じています。

 最近、ある言葉と再会しました。それはフリッツ・パールズという心理療法家の「ゲシュタルトの祈り」です。有名なフレーズなのでご存知の方も多いとおもいます。以前にもこのブログに書きましたが(2010年10月18日)この中の「私は何もあなたの気に入られるために生きているのではない」というフレーズに再び、揺さぶられました。それは、挑戦したい、と願い、あることに臨んでいる時のこと。そうと決めたものの、あとで、強い不安に襲われました。やることに意味を見出したはずなのに、やれる見通しがあると踏んで決めたこと、でも心の何処かで嫌な感情が起こってきます。

 ああ、また出てきたな、と思いました。この気持ちにはよく出会うのです。以前は無意識に感じていましたが最近は少し客観視できて、その感情に振り回されずに捉えられる時間が増えました。そして、それを探求して見えてきたことは「他者の視線を意識している自分」です。この時にこのパールズの言葉が背中を押してくれているように思えたのです。

 さらに、私の持病である尋常性乾癬が免疫性の疾患であり、それはどうやら自分と他者の区別が明確にできていないことと関わる、ということを知ってさらに理解が深まりました。皮膚科の医師のもとでの治療、民間療法の先生の親身なアドバイスと治療法を提案いただき随分改善したのですが、完治には至っていません。そんな時に「病気は才能」(おのころ心平)というDVDをみてこの疾患と心の関わりのヒントを得ました。

 ああ、この病気は私のbeliefのようなものと関わっていて、これでいいの?と問いかけてくれているんだ、と思えたのです。さらに病気にとどまらず、これまでの人生で起こってきたことと私のbeliefとの関わりが理解できたように思うのです。

 未来と私は変えることができる、これが現在の私が考えた基本の処方箋です。日々の生活の中でやることをきちんと決め、実行して、十分に感じて味わい、また決めて実行して、という過程の中で深まるものをつかんでいくのです。

言葉の意味、使い方

超介です

数年前は本からから学ぶことが中心でしたが、ネットが加わり、さらには人と出会って学ぶ機会が増えてきました。その中で言葉の重み、意味の含量のようなものを感じるようになりました。特に現場に近い、生の人との出会いからそうおもいます。本やらネットで言葉の引き出しを作り、そしての中身を生の現場で拾っています。ずると、言葉選びに敏感、慎重になるのです。

引き出しの中身が気になると、本を読むのにも慎重になって以前は読み飛ばしていたような項目が、読み飛ばせなくなったり、途中で読書をやめる、以前は興味があった本がそれほどでなくなったりしています。逆にそれほど興味がなかった物語、小説に関心が移ったりしています。

話し言葉も、意味を確かめながら聞いたり、話したりすることが増えてきました。その結果、話す内容に慎重になり、必然ゆっくりになりました。相手の言葉の意味が気になったり、以前は随分考えもせずに話していた事に気が付いたりします。そして、そのような言葉でつくった話を聞いてもらうことは、心が整理できてスッキリ、話し手が新たな気づきを得る機会が増えてきて、行動へのモチベーションが高まります。

文章を書くことは、聴く、話すより意味のつながりを確かめる良い方法です。自分の考えを外に出してまた読み直すことが確実にできるからです。書き言葉は引き出しのラベルを整理してきちんと並べて整理して体系付けて理解したり、伝えたりする、ということができます。その言葉の意味にはその人が無限と言って良いほどの情報のつながりがあるので、人によって響きが違ってきます。それは人が持っているすごい能力でまだまだコンピュータが真似をできない能力です。

自分で始める(2)

超介です。

周囲に依存しなくなって自分で始めるようになったとき、ではどうするか、と自分で考えます。そうすれば、対象からちょっと離れたり、理由を探したり、目的をつくったりさがしたりしはじめます。そして道が幾つかあることを知り、その中の一つを選択することができるのです。

その時に自由の実感、結果やら未体験への期待感があります。それらが緊張とドキドキ感を与えてくれるのです。これが自分ではじめることが素敵な理由です。緊張感とドキドキ感は以前にも感じたことがありました。その時はそれらを不安と捉えていて、だから、「嫌だな」と考えていました。

期待感と不安感は紙一重です。「ドキドキして、おもしろいやろう。」と言葉で背中を押してもらえた時、分かる程度の差です。自立するという意識の高まりがその人のうちにあって、本で読んだり、誰かから言ってもらうとかして、何かから、そんな意味合いの言葉でつついてもらう時、殻が割れて自立が孵化するのかもしれません。卒琢同機です。

私の場合、まず意識の高まりは、それまでの体験の積み重ねが与えてくれているように思います。数年前のことです。家庭も仕事もうまくいかなくなって、途方にくれたとき、何かできる前向きのこととしてはじめた学び、それは深夜営業の古書店の徘徊、深夜喫茶での読書でした。また、体の調子が最悪になってたくさんの病院通いでもダメで、自分で体質改善しよう、食事制限は自分でできる、それではじめたダイエット。とにかくやってみよう、それから考えようとしていました。

そのままにするか、何かするかの選択でしかなかったです。追い込まれないと始まりませんでしたが、それでも一歩踏み出すと、しばらくは続きます。その繰り返しをしているうちに、少し工夫も生まれて、自分への信頼を少しづつ高めてくれました。

そうして、できるかもしれない、と可能性になんとなく気がついたとき、周囲から言葉を拾ったり、人からアドバイスをいただいたりして一歩を踏み出すことができています。さらに進化し、多様な道から選べて、自由に踏み出せるようになります。

コーチングを学んでやってきたことを自身でも追体験し、繰り返しているような気がします。そしてこれは、私の仕事においてこれからも大切で有効なものなのです。

自分で始める

超介です

会社に勤務していた時代、いかにそこに依存していたか、ということに気づかされています。会社員時代は、定められた時間に、定められた場所で定められた範疇の仕事をすることができますが、そこを離れると、一切が自分の自由で、もちろん責任も自分です。

でも、いざ自由になると、何をするのかも自分で決めることになります。この時、自分で決めなければならない(ので大変)と思うか、そうではなくて、自分で決めることができる(ので楽しい)と思うか、このどちらも選択することができます。

退職後、松山から郷里に引越しをして数か月経過して、少し落ち着いたとき、最初は「決めなければならないので大変」でしたが、今は「決めることができるので楽しい」を選択しています。

過去数十年の、決して短くはない人生において身に着けてきたものをいったんおいて、再度生きなおすことを始めようと思えたのは昨年の春でした。それから退職することを決めたのがその年の夏過ぎ、実行したのが今春。

さらに半年経過して、少しずつ自分がやりたいことへの理解が始まりました。依存できにくい状況になってやっと、理解が始まりました。それからは身の回りにあるチャンスに積極的になりました。今までもチャンスはあったはずなのに、見ようとしてこなかったことにも気づきました。

自分で始めることはとても素敵なことです。

農作物の育ちと環境

超介です。

昨日、稲刈りを終えました。高齢の両親が中心になって田圃の管理を行ってきました。叔父、甥、妹夫婦にも来てもらい、作業を無事終えることができました。昨年の収量実績は生籾重量で2.7トン、今年は2.6トンなので100kgの減収です。今年は例年に比べ、気候が不順で稲作には不適であったからでしょう。出来高は環境に敏感に反応するようです。

今年は稲だけでなく色々な農作物の成長を見ることができました。キャベツ、胡瓜、トマト、茄子、南瓜、スイカ、唐辛子、パプリカ、ニラ、ジャガイモ、玉ねぎ等様々です。両親が栽培しているのを時に手伝った程度なので、農作物の栽培の全過程を理解できたわけではありませんが。

でも改めて実感したことは、彼らが持っている逞しい成長力と、同時に環境がとても大切で手入れをしないと美味しい作物は出来ないということ。嵐、台風、大雨に出会ってボロボロになっても生き残っていれば、そして環境を整えてあげれば復活してくれました。

有機栽培でも、自然農法でも、同じなのですが「人の手」が作物にはとても大切であるということです。畑を耕し、播種して苗を育て、土中適切な深さに植える。草取りを行い、施肥し、水の管理を行い、時には除草、除虫、害獣防止柵を作り、防鳥策を講じてやっと収穫できます。作物が育つには環境整備がとても大事。そして、作物はそれらに確かに反応して育つのです。たとえ途中でこけてもタイミング良く手入れできれば復活もしたのです。

野生の草木も環境に相応しいものがそこに生えています。日当たりの良いところには様々な雑草が繁茂しますが、日当たりの悪い、林のなかには草は生えません。水気のないところにシダやら苔も生えません。同様に作物には、それに適した環境が必要なのです。タネをまいてほっておいて育つのは、たまたまその環境がその種に作物に適していたからです。

野菜は自然のものではなく、人が食用等に長い年月をかけて改良してきたものです。だから、それは当然です。適切な環境を与えてあげないと能力は発揮しません。

人も同じ。その人に応じた環境が整った時に、人は最大限の能力を発揮することが出来る、そう連想しました。個性に応じた環境整備、つまり、教育の質がその人にもともと備わっている能力の発掘に大切です。ほったらかしで人が育ったとすれば、それは偶然そうなっただけだと。

教育コーチングは人が育つための環境整備の強力なOS です。

意味のある流れが教えてくれたこと

超介です。

 1.まずやってみよう。 
 2.振り返ってみよう。なにか気づきがないか。
 3.それでこれからどうする?

 と、説明がくりかえされました。何がおこるんだろう、不安そうな受講者20名ほどを前にしてトレーナーが強調します。東京ドーム近くの会場で2日間、計16時間ほどの実習中心セミナー。スムースにはいれたメニューもありましたが、「なぜこんなことをするの?」と疑問が最初に頭に浮かんだのもありました。さらに「これは意図がよく分かる、その通りだ」と理解でき「よし実生活でも実行するぞ」と思えたのも。それだけで「時間とお金をかけた。元が取れた。」と感じ、いくつかの場でそう発言しました。

 でも、中には「なんでこんなことするの?」と意味のわからない実習もありました。ところが、研修をおえ、東京でもう一泊し、前日お世話になったトレーナーの方々の事務所に伺って、そして丹波に戻って翌日、朝目が覚めたとき、突然に効果が実感できていたのです。私の中で何かが生まれていることに気がつきました。

 それは、私の感じ方の変化です。トレーナーの指示に従って30分ほども、思いつく言葉を探して繰り返して叫んだり、人と向き合って瞳を見つめながら考えを何回も何回も伝え合ったりしたこと。選択した行動、結果を相手を変えながらくりかえす実習。最後の日に仲間と、そしてそれを支えている人の打ち上げ会の体験。一人をのぞいて、1ヶ月前には全く知らない人ばかりでしたが、そんな人たちと時間を共有しているうちに生まれてきたもの。

 ちょうど1ヶ月ほど前、千葉の深い森の中で3日間にわたり受講した人生航海図でえたものがさらに力をえた感じです。それは、朝、目が覚めたときに、同じグループの5名の顔、同じ研修を受けたグループ外の人、トレーナーの顔が思い出されて、それらがとても懐かしさ、親しみのある人としてでてきたことから気づいたのです。

 今、 ここ数年間に、周囲で生じた様々な出来事が、全部意味を持ってつながってみえ、想いが深くなっている自分を感じています。

コーチの立場と視点から(3)

超介です。

 クライアントが安心して自己の内面と向かい合えるように、コーチはクライアントと一緒にいるようにします。全ての会話、対話をそのようにする必要はないのですが、ここぞという時には、コーチはクライアントと一緒にいて彼、彼女が語れるようにします。

 語ることができないとき、それをクライアントは意識していないほうが多いと思いますが、邪魔するものがあります。コーチングを習い始めた時は、その邪魔するものに付き合ってしまってダラダラと時間が経過することがあり、深まらないな、と反省することがありました。クライアントへフィードバックがうまくできていなかったのです。

 的確なフィードバックは問題をクライアントの思っても見なかった視点から、解決することがあります。

 私がクライアントとして、ある人にコーチングを受けていた時です。「ある人間関係において、嫌だなと感じること」について話をしていました。コーチは、その話を傾聴したあと「あなたの、(相手に対する)深い愛情を感じます」と言ってくれたのです。私はそれを聞いて、はっとして大切な人間関係であることに気がついて、その「嫌だな」と思っていることについて、ただしく受け止め、自分が対処できることに気がついたのです。コーチの的確なフィードバックはクライアントが見えていない部分、気がついていない部分を指摘することがあって、それが新たな問題の捉え方をクライアントにさせることがあるのです。

 それから、そのように、コーチは興味と関心をもってクライアントの言葉を受け止めて、承認して、時にkey wordを繰り返したり、フィードバックを返したりしていると、なんというかクライアントの心がポンと開いたように感じるときがあります。そしてそのときにつながりのようなものを感じて、より深くクライアントを理解したように思えるのです。

  普段の会話でも、時に心がつながったとおもえるときがあります。コーチングは、それの起こる確率を高めることができるのです。こういうときにコーチングをやっていてよかったと感じます。

コーチの立場と視点から(2)

超介です。

 コーチングを学び実践すると、普段の会話も自然と変化しました。まず、最後まで話を聴けるようになりました。以前は、会話中、頭の中に考えが浮かび、それを言いたくて口を挟んだり、自分の考えに誘導したりしていましたが、それを意識してなくすようになりました。傾聴の3要素である 1.相手に集中する 2.判断を脇に置く 3.沈黙を大切にする  をすればこれができるようになります。そして、これらのことが出来るようになると、人の話がよくわかるようになります。そして、話し手に集中しているので、話し手が急に話題を変えたり、こちらの話を遮ったりすることによく気がつくようになりました。

 また、人の話を傾聴すれば、話し手がスッキリして、元気になる様子を繰り返し体験しました。周囲には話を聞いて欲しい人がたくさんいることにも気がつきました。丁寧に傾聴すると話し手は自らの内面と向き合いながら、考えを深めていき、新たな気づきをえたり、気持ちの整理ができて次の行動のエネルギーを獲得されるのです。

 ある程度会話の回数を重ねた人とは、信頼関係が深まり、次第に内に秘めていた想いやら悩みを打ち明けてくれるようになりました。内容を秘守をし、時にはアドバイスをします。特に、気になることについては、私の考えを伝えます。「(話し手のその)相手のそのままを認めれば」と言いたい時もあります。特に「(話し手が)依存しているなあ」と感じることがあり「他人のせいにするのではなく、あなたがどうしたいか、どうするかが大切」と言いたい時がよくありました。

 考えを求められれば、それらを伝えますが、多くの場合は、それは私自身の課題であるように思えるので、一旦脇に置く 場合のほうが多いのです。自分の課題を相手の中に見つけることが多いことを知っているからです。脇に置いて再び相手に集中します。それでもやっぱりそのことが気になる場合は、つまり脇におけない時は伝えます。

 伝えた場合、気がついて「(話し手のその)相手をそのまま認めて」自分の中のこだわりから自由になられる場合もあります。「いやいや、やっぱり認められない」という人もいて、その場合は「認めることができないんだ、それで、どうするの?」と伝えていきます・

 人とはあまり多くを話さない性格でしたが、コーチングを学んでからは会話が自由になりました。