みなさんいつもありがとうございます。
トレーナーの修業僧です。
今日は 学びが続くとき,続かないときの違い について,ぼやきます
くり返す,同じことを反復する これは,地味で結構しんどい作業です
このくり返すという作業が 続きときと,続かないときには違いがあります
「その先にあるものが明確であるか」
です。
部活指導や学習指導をしていると その部分は完璧にできるが
他の問いに埋め込まれたり, 試合や試験という大きな枠組みになると
とたんに力が発揮できないことがあります
普段の練習が目的(ゴール)となっていて その先で何ができるようになりたいのかが曖昧なために
本来の理想とする姿と結びつかず 練習のプロではあるが,本番の素人になってしまう状況
が起こりやすいと思っています
いま,わけあってコーチングセッションを年間何本行う という反復作業をくり返しています。
私の場合,昨日お伝えしたように もやもやを意味づけして表現する「ため」に この反復をくり返そうと決めています
勝手に,もやもやしていますので,なんとも言えませんが
コーチングは話題によって いつくかのカテゴリーに分けて整理できると思っています
それが実現することで 自分がより焦点化した支援ができ みんなにより,コーチングをわかりやすく伝える
ことができるのではともやもやと思っています。 (雑記帳にはイメージが落書きレベルでたまっています)
その先にあるものを明確化することで 毎回,焦点を当て続けて
「こんなことが見えた,気づいた」「次は何が見えるか」
と継続する勇気や意欲がわいてきます。
ある活動を通して,
「何ができるようになりたいのか」
この「できるようになる」は スキル(do)より,どんな人になりたいのか(be) というレベルに焦点が当たると,
より行動が具体化したり,意欲的になり そのための反復や学びが続くともいえます。
その先にどんなものをつかみたいのか その先にどんな人になりたいのか
意図することが 学ぶ意欲を引き出す
一つのコツなようです。 教育コーチングの引き出すコミュニケーションはこんな場面でも活躍します。
一見,当たり前なようですが,目標設定という従来からあった「基本の型」が
あふれるほどマスターできているか
この年末に再点検する価値がありそうです
投稿者: takaaki
道をきわめるとは〇〇が欠かせない
いつもありがとうございます。トレーナーの修業僧です。
AL型授業も日常としてずいぶん普及してきました。それでも,今までの教え方を捨てなければという不自由さにとらわれている方も見受けられます。 この点に関して一考をつぶやいてみます。
「型破り」という言葉をご存じでしょうか。 言葉どおり,既成の枠組みを超えて新しいものを生み出すという言葉です。
しかし,最近は従来の過度の協調教育への反省から, 過度の個性重視への傾向もあるように感じられています。
舞伎界の故中村勘三郎さんは次のように言っていました。 「型を身につけなければ、型破りにはなれない。 型を身につけてから破る。だから『型破り』って言うんだよ」
「若い人はすぐ『型破り』をやりたがるけど、 型を会得していない人間がそれをやろうとするのは、 ただの『形なし』だ」
まずは,基本の型を満たす。 その中であふれてきた「もっとこうしたら」を 追究することがスペシャリティー。
そのスペシャリティーを一流に仕上げることが「型破り」ともいえますね。
ALも同じように捉えてみてはいかがでしょうか。 昨今「今までの教え方じゃだめなのか」「捨てなきゃだめなのか」 という悩みと出会います。
今まで培ってきた教え方は, 伝統そのものであり,成果を生み出してきた キラキラ輝く教授の型なのです。
みなさんは,その基本の型を満たしている人。
解釈を少しだけ変えてみましょう。
捨てるのではなく,破るのです。 みなさんがそれぞれの基本の型に甘んじることなく,
破ることでみなさんの中にある 教育と教授の「主体」「対話」「省察」が融合した スペシャリティーあふれるAL型授業になるのです。
そして,AL型授業が基本の型として満たすことで さらに,AL型授業を破り,その先にある何かに たどり着くのではないでしょうか。
「道をきわめる」には,
基礎の模倣や反復は欠かせないようです。
授業でも,従来通り 教えるところはしっかりとレクチャーで教授し 模倣してほしいところはしっかりとリクエストする
といった基本を継承したうえで,
今の社会,これからの社会が求めている価値を融合 していけばよいのです。
今までのレガシーともいえる財産をすてるなんてもったいない! 全ては意味のある,価値のある個性です。
全部つかいきりましょう!
誰がため
教育コーチの修業僧です。
テストが終わり,子どもたちに返却しました。
テストとは鏡です。テストまでの思考,行動,生き方がフィードバックされるものがテストであるという1つの見方が存在します。
「テストを見たときに最初に浮かび上がる顔は誰でしょうか?」という質問を必ず生徒に届けるようにしています。生徒の答えに多いのは
お母さん,先生,部活の先生
自分に向けた鏡に映るのは,他人の顔。さらに「一体,誰のために学ぶのでしょうか?」と質問すると
自分のため
と生徒は頭の中ではわかっているようです。しかし,無意識の答えは違うようです。
この意識と無意識のズレは何を意味しているのでしょうか。テストは自己観察のための鏡です。自分は一体誰のために,何を目指して生きようとしているのか。
そんな,生き方の自問自答がテストを通してできる可能もあります。
テストは単に知識の到達度を評価するものだけではないと私は思っています。生き方を振り返るヒントは世の中にあふれている。そんな思いです。
みえないものとの対話
教育コーチの修業僧です。
娘(4歳)の観察日記です。
保育園に車で送っているなか,娘が車の窓を降ろしたり,上げたりと何度もくり返していました。
「壊れるからやめよう」と声をかけたい自分が居ましたが,何がしたのだろうと思いそのままにしておいたら,今度は手を窓の外に出しました。「あぶないなぁ」と自己話が起こりつつ,それも何がしたいのかな?と興味をもち見ていました。
すると,娘は私にこう語りかけてきたのです。
ねぇ,お父さん。「風はみえない。だけど,たしかにある。風はさわれる…」
!!!!!!。ドキッとしました。
子どもの方が常識にとらわれずに,ありのままを感じて表現して,認知できている。
今の自分は,いろいろ考えたり,行動したりする中で愛,勇気,エネルギーといって見えないものとの対話をしようとしています。
人は生まれたときから,見えないものを素直に感じて,受容して,対話する力がある。そんな力の発揮を邪魔せずに支援することが教育なんだなぁと思いました。
大人の常識で娘が何もしらない存在として,つい下の存在として,危ないからという常識から,娘の自然との対話を邪魔するところでした。
もっと,娘の力,可能を信じよう。
学びの多い朝の出来事でした。
ありのままを受け容れる
栃木は雨が続いています。教育コーチの修業僧です。
雨が降ったとき,傘を差すという行為をよく見かけます。私はよほどの雨,長距離ではないときは傘を手放して,雨を感じるようにしています。
人は不快にであうと,防御のために鎧や盾を装備して回避を試みようとします。怒り,絶望,あきらめ,といった怖れの感情から逃れようとします。
私の中にある自立は,「自己を受容する」があります。自己受容は,いい自分,イケていないと感じる自分,不快な感情になっている自分,それらがすべて自分であると認めていくことでもあります。
自己受容のトレーニングとして,雨に抵抗せず,ありのまま受けてみよう。雨が不快と決めるのは早いのかもしれない。なんて考えながら少々の雨を受容しています。
そもそも,人,雨は原子や素粒子レベルまで分解すれば同じエネルギー体として見ることができます。すると,「自分と同じものを拒否する自分って何だ?」と自問が沸いてきます。
雨に抵抗することは,ひょっとしたら,自分に抵抗していること,世界に抵抗していることなのかもしれないな…。と思ったりしています。
「雨の日は傘を」という常識の中にも,自己を探求する素材はあります。
みなさまも,日常の中から自己を探求する気づきにたくさん出会えますよう…。
対等な関係
教育コーチの修業僧です。
長女の観察日記です。
ピアノを弾きたいと願いながら,手つかずで,娘が習うことで,その夢がプチ実現中です。
「お父さんここだよ」。ヘ音記号の「ド」の音符の位置をはじめてしりました。ト音記号のさらに続きとして見るんだそうです。教科書で見たはずなんだけどな…。
音符をみても,鍵盤のドの位置とすぐにリンクしない。時間がかかる,間違える。思いどおりにできない。
一緒に娘が同じ鍵盤で,となりで練習している。
おんなじじゃなか。
どこかの社会的な一面で見たら上かもしれないけれども,ピアノは同格,いや,練習量からすでに負けている…。
人は多面的に見ると長短それぞれで,全体としてみたときに,平等で横の関係からできている。上や下を決めつける自分は安心や承認,居場所がほしいのかもしれません。
上で居たいということは,誰かを下に見ていること。下にみられた誰かは,居場所づくりに,他の誰かを下にみることがあるようです。生き方は連鎖しています。
個とは上も下も社会的な立場も超越したところにある根源的なもの。そこでは,すべてが同じ生命として同じ立場で尊重されるのだろうと思っています。
真の平等とは凸凹をならして平らにしていくことではなく,互いの凸凹を受容して同じと思える感覚と先にあるようです。
自分もまだまだこれから。修業が足りないな。
愛の力
教育コーチの修業僧です。
次女(2歳)の観察日記です。
次女は部屋から,ネックレスや指輪などの装飾品を見つけては,誰が教えたわけでもなく 適切な場所に装備することができます。
そんな,次女をみてドラクエを思い出した私は,冗談めいて「○○ちゃん(次女)は,素早さとか,みのまもりをいつく高めることができたの?」
と問いかけると,次女はすぐさま,「ちっが~う!」と,決めつけに反発して怒り出す。
人は育とうとする生き物です。自分を輝くことを望み,よくなることを望み,そのためにいろいろな思考や行動を選択します。2歳の次女であっても例外ではありません。
光るものを身につけることで,自己の内面の輝きを受け取ってほしかったのかなぁと思っています。
当然,手放すことに猛烈な抵抗を表現します。逃げる,泣く,怒る,反撃する…。ありとあらゆる手段を選択して,自己の輝きを表現する装飾品を守ろうとするのです。私がボスキャラにみえたのかな?何が起こると手放すのかなと私が思考をしているときのことです。
母親が長女とお風呂に入りました。抵抗していた次女は当然おいてきぼりです。
すると,あれだけ手放すのを抵抗していた装飾類を一気に手放し,「おか~さ~ん!」と泣きながらお風呂場へダッシュしていったのです。
人は育とうとする生き物です。すべての生命の根源は愛なのではないかと思っています。
どんなに,自分を輝かせるものが目の前にあったとしても,愛されている,自分はここに居てもいいんだという,安心感や所属感を充足する愛にはかなわないようです。
コーチングのスキルや理念に傾倒することなく,あり方から人の育ちを支援したいと改めて気づく瞬間でした。
邪魔するもの
教育コーチの修業僧です。
今日は私の4歳になる長女の観察日記です。
父「くもんの宿題おわそっか?」 娘「・・・・(聴いてないふり)」
ここで,娘が言ったことをやらないことや,自分の思いどおりにならないことに腹を立てると,つい怒りたくなるものです。
でも,娘には娘のやらないを選択する事情があるようです。そんな事情は何だろうと思うと興味がわいてきます。
父「くもんたのしい?」 娘「つまんない」 父「何がつまんないの?」 娘「だって,○○ちゃん(自分のこと)小学生みたく,足し算できるから。」 「お父さんとお風呂で練習してるからできるのに…」 ち「数字(読みかき)ばっかりでつまんない…」 父「そっか。足し算しよっか?」 娘「うん!」
娘は数字を足し算に活用したくて,それがいつまでも実現できないことに不快を感じていたようです。そうわかれば,父はさっそく足し算の問題づくり。
娘の顔はニッコニコ。もちろん,数字を読み書きする基礎があっての足し算。くもんは○○ちゃんの役にたってたみたいだねと伝えると「うん」といって,その日は足し算とくもんをいつになく自分から進んでやっていました。
最後には,「先生(父)はもう何も言わないでね。自分でやるから。」と一人で黙々と足し算を解いていました。
やっぱり,子どもは育とうとする生き物なんですね。
調和
教育コーチの修業僧です
自然体験授業がありました。そこで得た気づき「調和」について整理します。
自然の中にある「木」「草」「水」がそれぞれが邪魔をせず,無意図,素朴,自然に存在しています。それでいて,互いを邪魔せず森という全の調和を生み出しています。
どの場所やどの角度から見ても違和感のない,感動や癒やしを与える調和のとれたものです。エネルギーといった波動さえ感じさせるほどの見事な調和です。
それぞれ形や姿,色,年齢どれ一つ同じ物はない確立した個でありながら,その個が1つの全をなしている。全でありながら,それぞれが個として輝いている。
そんな個でありながら全,全でありながら個であるという調和の素晴らしさを体感しました。
教育コーチとして私が目指す自立も同じです。互いが個として邪魔せず調和する社会。共同体感覚にあふれた社会。個でありがら全,全でありながら個として輝ける社会。
見たい社会はすでに目の前に存在していたんだなぁと気づきました。 自己を知り,自己の調和と統合を図り,自己と世界の調和を目指す。その先に目指す自己実現が待っているような気がしました。
社会の中で活きる個
教育コーチの修業僧です。 我が家の日常の一場面です。
階段から姉妹が降りる。妹が一番に降りたくて,先に降りようとしている 姉を降りないでと怒る。
父が姉に「妹にゴールを譲ってあげようか」 姉「うん。わかった」
ところが,妹はゆずろうとする姉の服を引っ張り妨害する。 すると姉は先に階段を降りきってしまう。
「なんで降りたの」と約束が違うと問い詰めることもできますが, それぞれに事情があると尊重しようとするといろいろな興味が沸いてきます。
父「どうしたの?」 姉「服をひっぱたからバツを与えたの」
正そうと,個をむりやり矯正するダメ出しはお互いにストレスになります。 社会で得た「バツを与える」常識を娘が書き換えるお手伝いをしました。
まずは,そんな姉の思いをそのまま受け取りました。 父「そうか。バツを与えたんだ。」「○○(姉)ちゃんはバツするのが好き?」 姉「ううん。きらい。」 父「そっか,きらいなんだ」「これからバツいる?」 姉「いらない。」 父「これから○○(姉)ちゃんの毎日から,バツがなくなったら,すごくうれしいな」
すると,姉はギューっと抱きつき,「わかった」と一言,父に届けてニコニコしていました。
姉は4歳です。4歳にして自分の能力や常識で世界や他人に影響を及ぼしたいとか,正しく評価したいという承認の欲求にもとづいて,自分にとって気に入らないことにはバツを与えるという社会に知らず知らずにうちに組み込まれているんだと実感しました。
4歳にして,ダメ出し,評価,罰が渦巻く社会の中で日々育っていると思うと,家庭や学校における教育の重要性がますます再認識できました。
幸せな社会に生きる自立した人へ育つために支援をし続ける教育コーチでこれからもありたいな。