眼に見えないもの

いよいよ迫ってきた9月6日の「教育コーチング」セミナー準備中の超介です。

 お盆の休みの間は主に読書にふけっています。といっても普段から読書の時間は多いと感じているので、他のこと(たとえば海釣りとか)をと思うのですが、まあ、書籍から触発されることが結構あるので、こちらのほうが面白くてこうなってしまっています。

 「力」、「電流」、「磁力」とか眼に見えないけれども「存在」するものを知ったとき、その意味を実感(慣れるまで)時間がかかりました。世界に「存在」するとは、それを知覚する私がいて始まる関係(? たぶん正しいと、思っています)であると意識できるまで。

 で、私にだけ存在して、他の人には存在しないものがあるのが自然であることが理解できました。人の知覚の仕組み(脳みその構造)はおそらく個人差があるんでしょうから。コミュ二ケーションが取れているときはそんな違いを乗り越えているときですよね。同じものをはじめから見ている人とは関係つくりはコントロールしやすい、でも見えていない人とは・・・。苦労します。

 苦労しますが、でもふと同じものを見ているな、と感じられるときは幸せになります。それは相手が見ている地図の一部を発見したときです。信頼関係が一歩進むときです。人と関わってよかったと感じ、大切にしたい時間です。

「一緒に居る」ように努力をしていると、そのような時間に時々立ち会えて幸せになれるのです。

3 thoughts on “眼に見えないもの”

  1. ○そらです。
     海釣り・・憧れます。
    ○「人はそれぞれ」っていうのは、冷たく突き放すことではなくて、
     それぞれの感じ方を尊重して、
     味わおうとする温かな信念なんですよね。
     私は、よく理解できない相手を、
     コントロールしてやろうとしていた頃に比べると
     随分、温かくなってきたと思います。
     ありがたいことです。 

  2. キヨシです。
    相手との関係や距離。
    これも自分が作れる部分があるんですよね。
    でも、理解してもらえた時は喜びですね。

  3. 島根の おかです。
     
    『私にだけ存在して、他の人には存在しないものがあるのが自然であることが理解できました。』
      
     私にとってこれは「なるほど!」でした。
     だから、「相手を理解しようにも、時には理解できなくて戦争にまでなってしまうのかもしれない」なと思えました。(戦争の場合、理解しようとしない場合も多いと思っていますが・・・)
     だから、「理解したいのに、相手を理解できない自分がいたんだ」と思いました。
     
     行動の元となる、意欲の元となる「あるもの(信じるもの)」の存在自体が見えていない間は相手が理解できないのも当たり前だな、って。。。
     
     それでも、「愛情」「信頼」「尊重」が根底にあれば前向きにコミュニケーションはできると信じたいです。 

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