ウチのフリースクールには、個性豊かな中学生が5人いる。学年(学力)も性別も違う。そんな5人が楽しく学べる工夫(教材研究)をするのが楽しい。
先日も「OIOI」(丸井)の地下食料品売り場で買物をした時にもらったレジ袋を見て、「これはウケる!」と直観。
早速、翌日の国語の導入に使用した。「イラストの部分を正しく直して漢字を完成させなさい」という問題にした。
皆、「なんとなく分かるけど、どんなだっけ・・・」と頭を絞っていた。この懸命に考えるプロセスこそがアクティブラーニングの真髄ではないかと思っている。頭脳に汗をかくほどに頭脳がアクティブになっている様子がうかがえる。
ヒントを少し出すとそれはさらに促進され、ワイワイ言いながらプリントを仕上げていった。最後に、その漢字の下に書いてある英語を皆で音読して終了した。期せずして英語の勉強もできた。
次は、これを利用してデザインの勉強もしようと考えている。
こうして振り返ると日常の中で教材になるものが転がっていることに気づく。日々是教材である。
教えれば、二度学ぶ
当フリースクールでは数年前からアクティブラーニング型で学習している。
そのスタイルで学習してきた中学3年生2人が今年高校に進学し、当スクールを卒業する。
今、その2人の姿勢は一緒に学ぶ2年生や1年生に引き継がれようとしている。
まず、自らで考え、それを小グループで話し合い、全体に発表(プレゼン)して、最初の自分の考えをふり返って発展させていく。このサイクルで学習を続けている。教師は「教える」を手放して「寄り添う」。
学年(学力)、性別が違っても、対話しながら学習することで、「そんな発想があったか!」と、個性や多様性を認め合うことができる。また、「教えると二度学ぶ」のことわざのとおり、他人に教えることで、「分かったつもり」だった自分に気づけたり、学びがより明確になったりする。
このような良い伝統を後輩たちにも受け継いでほしいと願っている。
11月の体験セミナー
山形のね↑@たかやまです。
寒くならないうちに体験セミナーしてしまいたい。
(とっくに白鳥さんが来てしまった…冬がもうすぐそこに)
ということで、今月も開催しました。
なんとおひとり!めっちゃ贅沢!
参加された方はとても熱心で
愛情・信頼・尊重
そのままの方!
一人でも多くのそのまんまコーチが増えますように!
さぁ、来週は親力です。迷っている方どうぞどうぞ!
新しいことへの挑戦が意味するところ
超介です。
今年の稲作は刈り取れない圃場が18アールほどもあって、大変辛かったです。春から、いえその前の冬から苦労してやってきた成果を捨てたのですから。次年度に向けての学びにはなりましたが。
58歳を区切りにして、40年間いた環境から離れて再スタートして4年半経過しました。
それまで体験したことのない範疇のことに触れる機会をたくさん得ました。再スタートしたんだから学びなおしの期間があって当然と考え、1年間は方々へ研修に行き、個人塾を起業し、クラシックギターを弾き、英語を学び、登山を体験しようとし痛い目を見、自治会の仕事に取り組ませてもらい、稲作を大失敗し、DIY を始め妙なものを作り、星見をし…そろそろ畑もやろう、とやりたい放題です。次の人生の準備だと。
この4年半の動きを振り返る時、手に入れたものは「リアルな情報」です。それは読書よりも実体のあるものです。生き方がより、手応えのある方向へシフトしました。
わかっているけどできないことをできる様にするには?
超介です
わかっているけどできないことについては、その原因を考えることより、具体的に行動する方法を考えた方が成功しやすいと思います。
原因を考える時に、できない理由を探すことになって、できなくて当然という理由ずけがなされるからです。
ただ行動するのみ、ということです。そして、私の苦い経験からは、私の場合は、行動を繰り出せないのは体力不足や、気力不足であることが多いです。そのことに気がつかずに、できない状況が続いていて、原因探しの迷路に陥るのです。
いかに体力、気力をコントロールして集中できるかに注力するようになりました。
ほかの場所での体験セミナー
こんにちは!
山形の教育コーチのね↑@高山です。
10月10日は「明日のたね」様
10月16日は「Share Cafe おおきな木」様
で「体験セミナー」を開催しました。
参加した方の笑顔、ほっとした表情、自由さを感じる「!」という気づきに
嬉しくなる瞬間がたくさんありました。
ご縁があって鶴岡市に開業し、ご縁があってこういう場をいただけたことに感謝。
皆さんのご参加に感謝。
回を重ねるごとに、教育コーチングの必要性、ニーズの高まりを感じて
胸が熱くなります。
コーチネームの「ね↑」は
この地に根を張りたい
コーチングの根を張りたい
育ちの心をはぐくみたい
そういう思いが込められています。
こういう話が公共の場でも聞けると嬉しい
学校で講演会してほしい
という嬉しいお声もいただきました。
これをお読みのご関係者様。特に東北の方。
行きます!!
是非お声がけください。
渦中の人は承認をする余裕がない
超介です。
渦中の人は承認する余裕がない、そのことを私が承認する。これは時に塾を運営していて感じることです。
どういうことか。
90歳手前の母の発言に繰り返しや、愚痴が増えてきて、それをいちいち指摘している自分に気がつきました。それは、無意識に反応していて、まずいとわかっていました。数ヶ月そのことと向き合い、少しずつ、受け止められる様になりました。そのままを受け止めずにイライラして、いちいち指摘している時は母を受け止めることができていなかったんです。それは、私が渦中の人だったからです。
私は毎月1回、コーチと契約をして30分の電話セッションをしていただいているのですが、そこでは渦中の人から出ることができてそれに気ががつき、意識ができました。意識ができるとコントロールでき始めます。
母から学んだことです。塾生と保護者に向かい合っていて私がコーチとして機能することの一つです。
ただ弾けばいいんでしょ、ではなく。
超介です。
自宅の庭に、7月初めから鮮やかな花をたくさん見せてくれていたノウゼンカズラの木があります。下旬の大雨にも耐え、咲き続けていました。たくさんあった蕾ももうほとんど咲いてしまい、最後のひとかたまりのオレンジの花が下がっています。
深みのある表現は、その奥に思想や心情つまりそこに至るプロセスを含んでいます。音楽を聴いて感動するとき、そこには音階、メロディー、音色だけではなくそれらがその中に思想や心情を含んでいるからで、それは理解しているつもりでした。が、さらに実感したのは自分で楽器を練習し始めてからです。
短い練習曲でも、プロの演奏は心を動かされることが多いのは、上記が理由です。おそらく、他の文化的な活動でも、スポーツでも同じで、観客が感動するのは結果だけではなくて、その活動の中にそこまでに至るプロセスを感じ取からだと思うのです。
ただ曲を弾くだけでなく、どの様な努力や工夫重ねれば良いか、その方向性がわかるのです。それは学ぶということ全般に通じることでもあるとおもいます。例えば教科の学習でも、誰かが、あるいは多くの人々が作り上げてきた体系を知ったり、使いこなすことは、なんらかのプロセスを学ぶことであり、様々な意義があります。それで丁寧に伝えたり、人が学ぶ場を整備していきたいと思うのです。
その様な学びは人に深みを与え、魅力的な人生を過ごす一助になると思うのです。
頭と心と体
超介です。
クラシックギターを2年半練習しています。まだ初心マークをべったり貼ってる状態です。それでもギターを通じてたくさんの気づきがありました。そのうちの一つです。
それは頭と心と身体が密接に関わっていることを実感することです。若い人には関係ないことかもしれません。あるいはもっと上手な人にも関係ないことかもしれません。
例えば、うまく弾けるかどうかは、弾こうと思ってギターを構えた時にわかる様になったことです。あるいは、集中できないと、急に弾けなくなること。逆に、曲のイメージが沸いたり、心から弾きたいという気持ちがあるときはうまくいくことなどです。
それで、エチュードを弾く時、ある程度運指等ができていれば、次には表現を考えて弾くのですが頭と心と身体は一致しているので、頭と身体を使って練習することが心に響くのです。感情が制御されそれは楽しみになるのです。
話さない子
超介です。
自分の経験からの話です。
幼い頃から口数が少ない子供でした。それは、言葉とその使い方を知らないからですが、他人とのコミュニケーションも取るのが大変苦手でした。どちらが原因かはわかりませんが、とにかく大人しく喋らない子供でした。今もその傾向があります。
滅多に口を開かない子、あまり話さない子供の傾向かもしれません、あるいは、私に特別なことかもしれませんが、ご参考まで。
言葉とその使い方が貧しかった私が、口を開くと周囲の人は、その意味を理解するべく、次々と質問をしてきます。それにはかなり困りました。例えば「学校に行くのが嫌」と言ったとしましょう。それは、かなり勇気がいる発言です。自分で学校に行くべきだとわかっていてもそのように言うことがあります。
その気持ちを受け止めてくれれば、それでよかったのですが、それ以上に踏み込まれると困るのです。「学校に行くのが嫌」という気持ちがあることだけの表明であるので、それ以上でも以下でもないのです。その発言の奥には自分のことを認めて欲しいという気持ちがあります。
隠れていてわかりにくいですが、自立の芽の様なものがあります。田圃の青い稲の中の穂の様に。