修業僧です。
テストの諸注意について
机の中に物をいれないで取り組む
最後まで寝ないで取り組む
キョロキョロ周りを見ずに取り組む
過去の私が子どもに提示していた言い方の一部です。
そもそも禁止事項を書くということは,過去の私の中に子どもができないという無意識の怖れや不信があったのかもしれません。
机には筆記用具をだけをおきましょう
最後までチャレンジを続けましょう
意識と視線は常に自分の問題と解答に向け続けましょう
と言葉にするほうが本当に伝えたい思いを届けることができる可能が広がりそうです。
私はいま,子どもは大丈夫と信頼するあり方を大切にしています。
いわれなくても本来ちゃんとできるという信頼から子どもに問いかけをします。
試験準備完了ってどんな状態?
本当の実力を出し切れた自分は50分間何をしてきたんだろう?
子どもの力は無限大です。自分たちでこうなりたいと答えを見つけて
言われなくても自分の理想に近づこうとします。その時はたとえできな
かったとしても子どもはちゃんと理想に近づきたいという思いを秘めています。
そう信じて関わった方が毎日お互いが生き生きとして楽しいかなと私は思うのです。
教育コーチとして自立を支援することは,日々自己を探求することなようです。
今日の気づきとの出会いに感謝します。
月: 2017年8月
教育の根深さ
修業僧です。
「上司が呼んでるよ。至急来るようにって。」
この言葉にぶら下がっていた私の感情は「怖れ」でした。
「何を言われる!?」「最近,何かしてしまったのか!?」
と最近の悪い点ばかりを振り返る自分。
結局は本当に急ぎの情報確認があっただけでした。
過去の先生や大人に呼び出され叱られてきた過去の自分が,必死に「危ない」「危険だ」と今の自分を守ろうとしていたようです。
過去のダメだしなどの強い否定はずっと無意識の部分に残り続けて,ついつい自分自身に心のブレーキをかけたり,分厚い鎧を身につけるようにと私に提案することがあるようです。
教育の力は根強いものです。
上司が呼んだとき,「自分の能力をどこに発揮してほしいのだろう」「何の役に立てるのかな?」「どんな学びや気づきに出会えるのだろう」と前向きに足を運ぶたぬきさんがあふれる社会になったら何が起こるのだろう。そのためには何を?
愛情・尊重・信頼に基づく教育のあり方を改めて考える出来事でした。
夏休みの課題
超介です。
夏休みは、それぞれに教科の学習以外に、自由研究やら、作文、絵画、工作、部活動の合宿、旅行等様々な課題をこなすよい機会です。それぞれ具体的なテーマが用意されているわけではなく、どんな研究を行うか、どんな本を読むかは、自分で考えて決めます。
それは、教科の宿題と違って、ゼロから考えるとても良い経験だと思います。課題のスタイルは指示されますが、内容はその人が決めることができるからです。課題ですから、その点ではコントロールされていますが、内容は多くの場合は自由であるので、能動性を発揮することが可能です。
自由研究の相談を受けるのはとても面白いです。コーチングのテーマとしてはまず、「何を扱う?」「どのようにあつかう?」という風に質問が立てやすいからです。教科の学習時は、答えが一つの場合が多いので、解へ誘導しがちですが、これらには答えは開かれていて無数にあるからです。
論理的思考
超介です。
塾生から作文の相談を受けました。
かつて、中学受験生に集団クラスで作文の授業をしたことがありました。テーマを提示して所定文字数以内で書く、という課題の授業でした。日本語の文法を中心に教えました。日本文が正しく書けない小学生が多く、それを修正することに終始し、悪戦苦闘しました。
今回、多少課題は残っていましたが、日本文はある程度書けます。それで、構成を考えることを提案しました。将来必要になってくるであろう、枠思考(フレームワーク)です。フレームそのものを発想してもらうことは難しすぎると考えて、いくつかの型を教えました。例えば読書感想文なら、
1.どのような物語か、一文で表現する。 2.心を惹かれた箇所を3箇所程度あげて、理由を書く。 3.教訓をまとめる。
というふうに。
本来なら、フレームをいくつか学べば、応用ができて、自ら枠を考えることができはじめると思います。小、中学生の間にその例をいくつか学んでほしいと思いました。
これは、論理的思考を鍛えることにつながるトレーニングだと思います。現行の学習課題を扱いつつ取り入れていきたいと思います。そうすればプログラミング思考につながると思います。
苦手なことに取り組む方法(その7)
苦手なことに取り組む方法(その7)
超介です。
苦手なことの中には、性格から派生することがあるかもしれません。
私の例です。
私は大変内気な子供でした。他人、特に同世代の子供と遊ぶことができなく、いじめられたり、保育園に行くのが嫌で泣いて駄々をこねたりと、ほとんど毎日でした。小学生になっても、誰ともほとんど口をきかず、休み時間もクラスメートと遊べず、びくびくし、我慢をしながら、じっとしていたことを思い出します。学校が恐怖でした。
そういった性格の子供でしたが、時間の経過とともに付き合い方を学習してそれなりの生活を送れるようになりました。が、しかし成人してからもそういった人付き合いに対する苦手意識はあります。還暦を超えた今も残っているように感じます。
しかしながら、そういった性格は両親やら、先生方の心配を引き起こし、いじめの対象になったり、クラブ活動やら、学校行事に消極的であったり、学習にも集中できなかったりと本人にとっても周囲にとってもつらいことが多かったのですが、一方で其処に所以する長所も短所以上に、年齢とともに、伸長してきたように思えます。
例えば、性格の、その弱さはある人たちからは優しさとみられて、年下の子供たちから慕われたり、あるいは年上の世代の人にも素直さと捉えられて、様々な支援を得てきたように思います。特に社会人になってからは世代が上の人たちで、私が尊敬する人物にかなり多く出会うことができました。自分が有していないからこそ、彼らが当たり前にふるまう逞しい行動や知恵にあこがれの感情を持ち、同時にそれらを滋養にし、私という、固有の性格を育ててきたように思えるのです。
そして、一例ですが、人の話をよく聞くことのトレーニングが自然となされ、様々な人やら場、機会の出会が生まれ、多種多様な仕事の体験やら資格の取得を得てきたことが、必然的な流れとして、今は良く理解できるのです。この辺りの事情は、たくさんのドラマを含んでいます。書ききれないので、何かの機会に表現したいと思っています。
性格上の悩みがあっても、それとどう付き合うかで大きく人生は変化します。その悩みは意味と意義がある悩みです。もし、そのような人がいれば、じっくり付き合ってほしいと思います。その方法の一つとしてコーチングを受けたり学んだりすることはとても有用です。