超介です
釜石市に行くことを決めて、旅行社で相談してみると市内での宿泊は難しい、行って探せばあるかもしれないが、ということであったので内陸部の花巻市に宿を取り、翌日太平洋目指して、釜石線に乗ることにしました。
松山から成田までジェットスター、東京までリムジンで戻り、東北新幹線で新花巻についたのは8月11日の午後10時半頃、釜石線は終電後、タクシーで花巻駅周辺の宿に入りました。
翌日、7時前に起床、食事をすませJR花巻駅に徒歩で向かい、1日パスの乗車券を購入。時間があったので郷里の両親向けのお土産を買って宅配を依頼しました。花巻市は宮沢賢治の地であり、駅前広場には頂上に風車を載せた高さ10メートル前後の銀色の塔が十数本あったり、釜石線が銀河鉄道になぞらえられていたり、賢治関連の施設展示が数カ所あるようです。
快速電車で釜石に着いたのは午前中11時過ぎ、駅前から海に向かって歩いて行きました。駅前には新日鉄の工場があって、普通の地方都市の風景ですが、1キロ程も歩けば空き地があちこちに現れてきます。瓦礫はきれいに片付けられていますが、建物の跡地が点在しているのです。そして1階が破壊されたまま残っていたり、1階はもとより2階も板が打ち付けられたままのビル、更には数十センチも曲げられた鉄骨がむき出し、壁も破壊された空きビルやらが現れてきます。
海岸近くではガソリンスタンドも営業中であり、護岸内では漁具を片付ける人たちもいて日常の生活は感じられます。でも多くはなく、とくに行き交う人は本当に少ないのです。真夏の昼近くであったこともあるでしょうが。何かの庁舎の壁面に津波時の波の高さの掲示があって、それは2階の天井の高さでした。
その高さを見ていると、海の広さ、甚大な容積に比してこの陸地の儚さが感じられてきました。深い深い海の底の、地球の大きさに比すれば、ほんのちょっとした振動があって、それが起因して起こった津波の高さが、そこでした。もし巨人であるのならその視線の高さから、海の縁のほんのちょっとした高さの位置に広がるこの陸地のあやうさが感じられるかもしれません。今の私の背丈からは、がっしりとしたこの街を守っている堤防やら人々が住む(住んでいた)建物の頑丈さがかんじられるのに。壊滅的な打撃を受けたこの街の2年半後の姿を見て得られたものは、やはりまだ言葉にはなりません。合掌。
帰りは、銀河鉄道になぞらえられた釜石線を2両編成の普通列車で花巻目指して、戻りました。途中炎天の為か、後ろの車両が故障、(ワンマンカーであったので)車掌さんが一人で30分ほど奮闘されるも、修復せず前方車両に牽引されて移動。でも誰も文句言わず、また、冷房も効かず照明もつかないので『前方車両に移動を』と呼びかける車内放送にも応じる人は数人だけでした。
途中1時間余裕があったので、遠野の駅名を見て思わず下車しました。民俗学の柳田国男の遠野物語の地です。駅前のカッパ、信号のてっぺんの和服姿の少女の像やら、焦げ茶色の木で作られた建てものが立ち並ぶ街並みは釜石の街並みとは対照的です。でも、遠野に伝承されている物語の原点には大きな悲しみやら事件があったのかもしれません。時が過ぎ人の口を経由されるうちに事件が物語化し、残っているのかも。そのように悲しみも時の流れにより鎮魂化されるのでしょうか。