みなさん、おはようございます。三重県の公立高校で吹奏楽部の顧問をしています、教育コーチのいっすぅぃ〜です。
先日、一人ひとりの生徒の奏法をチェックしていたときのことです。
ミスした生徒には、基本的に
・どういうイメージで入った?
(・そのイメージとのギャップは?)
・もっとイメージに近づくにはどんなことができる?
・じゃ、もう一度やってみようか
という感じの声掛けをしながら、音の変化、余計な力みがないかを観察しています
一人の新入生が、部屋を出ながら先輩に言うのです。聞こえちゃいました
「石田先生って、怒らないですよね。でも、それが怖いです」
聞こえたときには、「そうかぁ〜」なんて思ったのですが、考えてみて怖くなってきました。
怒られるのが普通の指導 → 怒られて指導されたと感じる → 怒られないと物足らないと感じる → 怒って欲しいと思う
どこで、断ち切れるのだろうか。 どこで私が“陽性”と感じるスパイラルに入るのだろうか。
既にご経験のある方、書き込みをお願いします。
ししです。
「怒られる=承認されている」と
錯覚する負のスパイラルがあると思います:!!!:
夫婦・親子・恋人間の
虐待やDVもその典型。
無視されて居場所がなくなるのが、
怖いから・・・:cry:
私は、「存在承認=当たり前承認」が
必要と思っています。
当たり前のように感じてること。
日常的なことに、感謝や承認をする:heart:
朝が来ること・命あること・空気あること
学校に通えること・部活できること・
音楽に触れること・・・有難う:-P
大切な人からの存在承認が、
自己肯定感を上げると信じて、
今日も、伝えます「ありがとう」:**:
確かに…。
一方で、いっすぃ〜さんの真剣さや本気が伝わってきて
「怖い」という表現になったのかも、、、
なんて思いました。
そういえば、
怒らなくても、気迫が伝わってきて
こちらの背筋が伸びる、
そんな先生、いらしたなあ。
キヨシです。
確かに普通に話していると怒っておらず、
怒っていることが、指導されていると
保護者の方が思われているようにも
思いますね。
また、怒られたことがない子も最近は
いますね。これは、良し悪しのどちらの
面もあるように思いますね。
自分の演奏をしっかり観察する声かけをされていて、素敵だなと感じました。
受け身で怒られるのと違って、自分を観察するのは、鏡に映った現実の自分と向かい合う怖さがあるのかなと思いました。
いっすぅぃ〜です。
ししさん>
「当たり前承認」:**: いいですね。
♪あたりまえ〜、あたりまえ〜♪
聞く度に思い出せそうです。
あるくさん>
そうです、私はいつだって本気!
でも、怖くはないかと・・・。
キヨシさん>
高校という現場にいても
「怒られすぎて慣れっこ」
「ちょっとのことで怒られたと大きな反応」
触れ幅が大きくなっているように感じます。
ころさん>
「現実の自分と向き合う怖さ」
そうですね。
そんな風にも届いているんですね:!!!:
初めてかきこみをします。
バッチと申します。
休日に地元の高校で演劇部のコーチをさせてもらっていますが、自分にも似たような経験がありました。
初めは『どうしてそうなっちゃうんだよ~?全然怒ってないのに~!』
なあんて思っていましたが、今から考えてみると、その部員達との付き合いも浅く、信頼関係を築ける程のコミュニケーションをとれていないのもあったと思います。
人と人なので、信頼関係を築けるまでにかかる時間も必要だし、信頼する時を決めるのは相手なので難しいですよね。
でも、焦らずにじっくり接すれば、いつか必ず時は来ると思います。
あとは、周りの部員(先輩とか)の指摘の仕方が、厳しい物言いや高圧的になっていると、そういうスパイラルが当たり前になってしまう可能性があるので、気を配っています。
演奏の見方やコーチの仕方、とてもお上手ですね。参考になりました!