超介です。
激しい感情であれば、はっきり自覚が出来ますが、気分にどっぷりつかっているときにはそれが自覚できにくいことに気づきました。体全体で気分を感じ、その横に「わたし」の身をおけばそれが自覚できます。そのようにしてしばらく時間をすごします。ああこれが気分で、感情につながっていくんだ、というように。
海から上がって砂浜に腰を下ろし、そして海を見ているようです。海の中にいるうちは見えない怒りのつまったビニール袋や、不満だらけの釘が刺さった板、寂しさでぼろぼろになって沈んでいる空き缶などが体にあたり居心地が悪かったのです。
ところが、少し意識してみれば「わたし」は、いつの間にか砂の上にすわり、それらの面白くない感情の海を客観的に見ることができているのです。このことに気がついたときに「わたし」はある小説を読んでいました。
文学賞受賞作品の「道化師の蝶」という小説は年中飛行機に乗っていて、着想を捉える小さな銀色の捕虫網を振り回わす人物(けったいな人物ですが、面白いですねえ)がまず登場し、「わたし」が彼の仕事を聴くことから始まります。次の章では、実は前章は「猫の下で読むに限る」(なんという表題、猫の下・・は、桜の木の下・・・からのパロデイのような・・・)という死に絶えた言語で書かれた小説の翻訳であると「わたし」は述べるのです。
さらに次の章では、「わたし」は「猫の下で読むに限る」という小説を書いたらしい「友幸友幸」(どう読むのでしょうか?)なる人物らしいのです。このように、次々と「わたし」がたくさん出てきて、最初は異なる「わたし」なのですが、次第に混沌としてきます。いろいろな「わたし」がいるのが自然であるとおもえてきます。大きな「わたし」がいて七変化しているみたいな・・・・。時々吹き出しました。わかりにくいですが、おもしろい。
このへんてこりんな小説を読み終えた翌日、幼少期の体験から「わたし」を再発見しようと、出家したいと考えていた人に出会いました。その人の部下が(小年少女を救済する仕事をしています)「(非行少年・少女の救済は)熱意だけで何とかなると考えていたけれど、それだけではなんともならない。」ということに気がついた、とはなし、上司は「支援する環境さえあれば彼らは自然に変わる、それを具体的に作るには・・・」というようなことを話しはじめました。さらにその上司は「わたし」とは何かを考えざるをえなかった自分の幼年期の体験を語てくれました。(つづく)