「愛する」について(その5の1)

 超介です。

 美術館で幼稚園児と中学生の作品展を催していた。子供たちの絵、特に幼児の描く絵は見飽きない。美術館の展示室であるのでかなり広い。いくつかの部屋の壁面いっぱいに作品が展示してある。たとえば「虹色のクワガタムシ」という絵では、用紙いっぱいにクワガタムシの絵がかかれ、その中に人、花、動物、木等々が所狭しと描かれている。

 これらの絵に惹かれるのは、そこには描きたいものを描く、という自由と選択があるからだ。自由奔放に動く心が見えるからだ。子供の心を見失うことと、自身の羅針盤を見失うことは似ている。中学生の絵になると自由奔放さが隠れ、代わりに、他人の視線を意識した常識の線が現れてくる。誰が見てもすぐわかる作品になる。

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 仕事ではルーチンでもプロジェクトでも、いったんそこまでの歩みを止めて、何をえたか、どこまで達したかを括り、次の目標を決めたり手段を再整備したりするのに、人生ではそのような手間をかけない人が多い(のではないだろうか)。

 人生の岐路に立つときは計画を立てる。それまでの歩みの棚卸しをして、どのような日々を暮らし、何をえたのか、何ができるようになったのか、等を書きだしたりして掘り起こす。それを見つめれば自信が生まれる。そうしてその底に隠れている、自分の価値観を掘り起こす。その価値の羅針盤が示す方向を見定める

 そうすれば、納得のできる人生を再度、踏み出すことができると思う。どのような方向に歩みだすかは個人の選択の範囲だ。

 幼児の絵心のように自由奔放に未来絵を描いて方向を決めたい。節目節目にそのように
進む方向を決めていきたい。

One thought on “「愛する」について(その5の1)”

  1. キヨシです。
    上級を受講した時、グラッサー博士の
    選択理論を学びました。
    人生は選択の連続。
    自ら選んでいる。
    そのことを思い出しました。

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