「その人の行為の奥のものを見つけ出す」ことができるのは、同じものが自分の中にあるからです。自分の中にない時もあるはずなので、その時には相手に教えてもらいます。当然、わかる時もあるし、わからない時もあります。
でも、わからないけれど本当らしい、真実らしいというように感じることがあります。その感じ取る力の大きさこそ聴く力(観察する力)のレベルだと思います。さりげなく、でも言葉の端々やら、イントネーション、表情、動作に注目して理解していく力です。
そのように聴く力を強くするためには、自分の心をある水準に高める必要があることまではわかります。そうなんだろうなぁ・、と。そうなってくると自由になれるんだろうなぁ・、と。それで、いろいろと手を変え、品を変えつつ、「心の手入れ」をします。
たとえば、「大変つらいと思うこと」があった時,次の言葉を思い出しました。
「意味のないことは起こらない」
このフレーズは教育コーチングの場で学びました。その言葉の奥の意味として、最初は「大変つらいこと、それに何の意味があるのか!」「私へのペナルテイ・?」とそのまま、つらいことを否定的にとらえていました。
で、(もちろん時間の経過はありますが)「心の手入れ」をすれば、「このつらいことから、私は何を学べばよいのだろう、意味のないことは起こらないはずだから」というように捉えなおすことができるのです。そうできた時、穏やかな心情、心の自由と自らの可能性を感じるのです。
「意味のないことは起こらない」という言葉が「大変つらいこと」の体験を通じて「心の手入れ」ができると、すこし、心の水準が上がります(聴く力、観察する力も上がります)。そして少なくとも、「すべてのことから学ぶことができますよ」と私にとっての、その言葉の奥の意味を見つけ出すことができるのです。
でも被害者意識のままでは心の水準も、聴く力、観察する力も上がりません。
私は受け身で、内省的でイジイジ考える傾向があります。だからこんなふうに考えるのでしょう。でも、時々思いつき(一種の気づき、着想)を得ることがり、その時には心が晴れます。このような気づきを重ねていけば変身を続けていけると思います。
(もう十分 変わっている!変なやつかもしれませんが・・・)