兵庫県北部の但馬地方にコウノトリで有名な豊岡市があります。農業と自然保護、観光事業の展開の例として紹介されている地方都市なので一度訪ねてみようと思っていました。お盆に帰省した際に両親と一緒に「コウノトリの郷公園」(だったかな?)へ車で行ってみました。到着して公園内を見学して回ってみると、ちょうど給餌前で、オープンゲージの中の池や、畑とその周辺の林には飼育されているコウノトリ17羽(だったかな)だけでなく放鳥されて野生で生活しているコウノトリやら、サギが60羽ほども集まっていました。さらに給餌が始まるとカラス(1羽)ととんび(1羽)も餌を狙いに来て、ガアガアとなくサギの声、逃げ回る小魚を足を上げ、羽を少しはばたかせながら追いかけるコウノトリやらでざわめきます。
大きな弧を描いて、空を舞うコウノトリはそれほど大きな体でもないのですが、迫力はあります。彼らが自然に舞う姿と、その下に広がる山と平野、平野を流れる川、池、田んぼ、1日にドジョウなら60匹ほど必要で、それだけの小魚を供給できる生態系。コウノトリは、昔、日本の各地にいたらしい、それだけたくさんの小動物が住んでいた環境。どのような自然であったのでしょうか、想像できますか?
鶴(コウノトリ)を見に行った翌日のことです。家の中の、両親の枕元の棚の中に1枚の写真がさりげなく置かれているのを見つけました。セピア色の古い写真です。モンペをはいてかすかに笑みを浮かべた若いきれいな女性が写っています。20歳前後のまだ幼さが残っている女性です、赤ちゃんを抱いています。真新しい白い厚紙で作った枠に入れられ大切に扱われています。最近母がいただいたようです。
それは母の姉でした。母と同じ地区(つまり、私の生まれた家―母が嫁いだ家―から300メートルほどしか離れていない)に嫁いだ姉でした。私は母がよくその人のことを話していたこと、その時の母の顔色を思い出しました。仲が良かったようで、残念そうにまた悲しそうに、話す母の表情を。
でも、写真を見るのは初めてでした。昭和ひとけた生まれ、今年80歳の母は、姉妹、弟は多いのです。母は上から3、4番目くらいです。写真の女性は、嫁いだ先の家族とは折り合いが悪く、気苦労もしていたそうです。そして数年間丹波にいて、夫である人と共に満州に渡ったのです。大学進学を契機に四国へ移り住んだ私は、叔父、叔母とはあまりあったことがなく、その歴史の詳細は知りませんでした。
昭和20年8月23日が彼女の命日でした。終戦直後の満州から、家族のある人たちは優先的に日本に引き揚げるべく移動ができたようですが、彼女は写真の子供をすでに亡くし、ひとりであったためすぐには逃げることができなかったのです。青酸カリをもらって、陸軍会館に引きこもり、ロシア軍に見つかる前に何名かの仲間と一緒に服毒自殺をしたとのこと。おなかの中には赤ちゃんがいたらしい。幼子を亡くし、おなかに子供を宿したまま、自害せざるを得なかった人の気持ち・・・・。
その人のお墓にお参りをしました。墓石の横には千の鶴の子と書いて「千鶴子」という俗名と死亡場所である、都市の名前につながる陸軍会館名が彫り込まれていました。母はその人の名をちゃんずけしてよび、憐みの言葉をつぶやきました。母の気持ちが私に伝わりました。私は手を合わせて祈りました。そして今を生きていることに深く、深く感謝しました。
キヨシです。
8月は「平和」を考えることが多いです。
いつも感じていることですが、特に歴史を
ひも解くと、そのありがたさに改めて感謝です。
私の故郷は「コウノトリの郷公園」から数キロの所なので、その公園には何度か行きました。嘴で大きな音をたてていたのが印象的でした。私が小学校の頃は郷土室に大きなコウノトリのはく製が飾ってあり、昔はこんな大きな鳥がいたんだと思っていました。 歴史は創られるのもですね。いろいろと考えさせられました。ありがとうございます。
戦争は終わっているのに・・
おなかに赤ちゃんがいるのに・・
それでも、自分から毒を飲まなければならない状況へ
追い込まれていった時代・・。
伝えて行かなければいけないお話ですね。