超介です。
近所にクロガネモチの木があります。クロガネモチは毎年9月頃赤い実をぎっしりつけます。近所のその木はもう2月下旬になるというのにまだ、ぎっしりと、9月頃の赤い実がそのままなっているのです。
同じ時期に赤い実を付けたピラカンサも南天も12月頃には風にあおられたり、鳥達についばまれてほとんど実がなかったのに、近所のそのクロガネモチはそのままなのです。
命を引き継いでいく旅に出ることができないでいる実です。
コトバもそうです。コトバの中にも旅に出ることのできるコトバ(中身があって、意味が満タンで、イメージが広がっていく、想いがある)は世の中でぱっと広がり、芽吹いて花が咲きます。
でも、その人にしかわからないコトバもあります。その人にしか意味がわからないコトバ。子どもはそんな言葉を持ちやすい存在です。
僕は、仕事柄そんな言葉によく出会います。
大人でもいます。その人独自の言い回し、あれはどこから来るのでしょうか?初めてその言葉を使ったときに何か、独特のことがあったに違いないと思うのですが。どのような場面で初めてそのコトバを彼(彼女)は使ったのでしょうか?
言葉について大学時に先輩に教えてもらったことがあります。内陸で狩猟採集生活をしていた人類が始めて海を見つけたときに沸き起こるものが言葉の始まりだ、と。象徴的な言い方ですが。
何人かの太古の人たちが青くどこまでも広がるそれをはじめて見て心の中に沸き起こるものが言葉の始まり。一つの事象を同時に見ている人々の胸に去来するものが言葉の始まり、そう教えてくれました。
そうであれば、彼(彼女)がどこを見ているのか、それを探すのが私(コーチ)の役割です。言葉が示しているものがどこにあるかを懸命に探していくのが「傾聴」という行為だと思います。一緒にクライアントのキャンバスに向かい合って探す作業。キャンパスに向かうのが「一緒にいる」という意味。
以上の内容は金曜日に書いたのですが、驚いたことに今日(日曜日)はクロガネモチの実はほとんどなくなっていて、樹の下にはつぶれた赤い実の残骸が散らばっていました。本当に私はどきりとしました。
これは何を意味するのでしょうか?