超介です。
もう冬、でも夏の話。
小学生の頃の夏の楽しみの一つに蝉の幼虫(蛹)取りがあった。近所にある神社に夕方でかけて地面を這うようにしながら探す。土の塊がモコモコ盛り上がっていたり、マッチ棒の先ほどの穴があいていたりする。
そこをそっと木の枝で押さえると、ぽっかり親指くらいの穴があく。その底に7年間土中で過ごしてきた生き物が潜んでいる。そっととりだす。手のひらにのせると、ずしりと確かな重みを感じる。ゆっくり手足を動かすそれは、茶色いあめ色でメノウのような光沢の皮膚を持っているアブラゼミの幼虫。土から生まれた宝石。
僕はその幼虫を大切に持ち帰り、庭の植木の根元や植木鉢に置く。夕食後、飽かずにながめる。背中が割れ、中から真っ白な成体が現れる。折りたたまれた小さな羽がゆっくり伸びていく。
けれども、採集するときや、持ち帰るときに乱暴に扱うと羽化は途中で停止する。成虫にはならずに背中をむき出しにしたまま、殻つきのままで死んでしまうことが多い。
それを知ってからは、穴から掘り出し、持ち帰って土に再びおくまで、大切に大切に扱うようになった。それでも時々成体にならないときもある。
自然が変化をしているとき人は、そっと見守るべきなのである。いじくるとうまくいかない。虫の命でも自然は精密な仕組みを作っている。それをいじくってはいけない。
蝉の羽化を思い出したのは、人の成長との重ね合わせからだ。人が自立する時、保護者は愛のブリッジをかける。
そっと見守る、大切に大切に、見守る。
コントロールはできない。